第二次世界大戦中、ドイツの捕虜収容所で看守の目を盗んでラジオを作っていたアメリカ人捕虜がいました。ある日、ドイツ軍が降伏し、戦争が終わったというニュースが流れました。しかし、ドイツ軍の情報伝達はうまくいっていなかったので、看守たちはこのニュースを知りませんでした。このことが捕虜たちの間に広まると、彼らは歓声をあげて喜びました。彼らは歌ったり、看守たちに手を振ったり、食事のときに冗談を言ったりしました。そして4日後、捕虜たちが目覚めるとドイツ人たちは全員逃げ出していました。待つのは終わったのです。

聖書には待つことをテーマにした実話がたくさんあります。子どもが与えられるのを待つアブラハム、エジプトの奴隷から解放されるのを待つイスラエル人、預言の成就を待つ預言者…。イエスの弟子たちは、イエスが彼らのイメージどおり、権力のあるメシヤになるときを待っていました。ヨハネの黙示録の最後には、「わたしはすぐに来る」というイエスのみことばがあります。そして、「アーメン。主イエスよ、来てください」という切迫した祈りが、それにつづいています(黙22:20)。この実現を、私たちは今もじっと待っています。

私にはこんな疑問があります。なぜ待っているときに、恐れたり不安になったりするのでしょう。私たちは、あの連合国の捕虜たちのように、自分が信じているという良い知らせに基づいて行動できるはずです。後で振り返って初めて合点のいくことを前もって信じる…。そうでないなら、神を信じる信仰など、いったい何だというのでしょう。