妻は早起きで、家族が起きてくるまでの静かな時間に、聖書を読んだり祈ったりします。あるとき、いつもの椅子に座って朝の日課を始めようとすると、正面のソファーは「誰かさん」が昨晩、テレビでフットボールの試合を見たときのままでした。そのひどい散らかりように苛立ち、さわやかな朝の気分が台無しになりそうでした。

ところが彼女は、ふと思いついて、ソファーの方に移動してみました。すると、窓から外の景色が見えて、大西洋に朝日が昇るところでした。その朝、彼女の心に留まったものは、神が描かれた美しい風景になったのです。

妻がこの話をしてくれたとき、私たちは、その朝の教訓をこう理解しました。つまり、自分にダメージを与える出来事が起こらないようにすべてをコントロールすることはできないが、それでもなお、私たちには選択肢がある、ということです。いやな出来事について、いつまでも考えつづけるか、それとも目を他に向けるかという選択です。

聖書は次のように語ります。「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた」(使17:16)。しかし、パウロは見方を変えました。そして、アテネの人は宗教心があついので、本当の神であるイエスを宣べ伝えるチャンスが大いにあると考えました。

妻が出勤した後、視点を変えるのは「誰かさん」の番でした。私はソファーの散らかりようを妻の感覚で、そして神の目で見ることができますようにと祈りました。