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神に託す

コリー・テン・ブームは、第二次世界大戦後に育った世代のクリスチャンにとって英雄的存在でした。彼女は、ナチス占領下のオランダのおぞましい時代を生き抜きました。その後生還し、神を信じ神に頼って生き抜くことを語り、敬虔(けいけん)と英知という遺産を後世に残しました。

踏み出そう

ウッドチャックが我が家の物置の端っこをかじり出したので、捕まえて公園に放してやるつもりで生け捕り用の罠を買いました。美味しそうな餌を入れて罠を仕掛け、次の朝、ウッドチャックがかかっているだろうと期待しました。しかし、罠にかかったのはスカンクでした。

白旗を振る

最近、南米のある教会の礼拝の様子を映像で見ました。牧師は教会員たちに、自分の人生のすべてをイエスに明け渡しなさいと熱く語っていました。そのとき、教会ではまったく見たことのないことが起こりました。ひとりの教会員がポケットから白いハンカチを取り出し、手を上げてそれを振り始めました。すると別の人たちも次々とハンカチを振って、涙を流しながらキリストに「白旗を揚げる」(完全に降伏する)ことを表明しました。

不安について学ぶ

水の入った大きなコップを渡されて、「胸の高さで持ってみて」と友人に言われました。ところが、時間が経つほどに腕がだるくなって、コップはどんどん重くなり、ついに手をおろしてしまいました。友人は言いました。「心配は、これに似ていると分かったの。いつまでも心配していると、心がどんどん重たくなっていくわ。」

満載喫水線

無謀な過積載が原因で船が沈没し、乗組員が亡くなるという海難事故が19世紀にはよくありました。この無責任な慣例を正すため、英国の政治家サミュエル・プリムソルは1875年に、すべての船の船体に線を引いて、その線によって積載貨物の限界を示すという法律を作りました。この線(満載喫水線)はプリムソルマークと呼ばれて、今日の船の船体にも引かれています。

強い人

何年か前、夜遅くにエレベーターに乗っていた時のことです。周りには何人かの男性がいましたが、皆疲れているようで、しょぼくれていました。そのとき、エレベーターが止まり、カウボーイ風の男性が乗り込んできました。年季の入った帽子に染みのついた羊皮のコート、そしてウエスタンブーツをはいて、堂々としています。彼は、私たちをじろっと見ると、しわがれた太い声で挨拶をしました。すると、私も含めてみんなは、びしっと背筋を伸ばし、胸を張り、自分も堂々とした男だ、という格好をしました。

重すぎる

早朝の薄暗い光の中、車のエンジンをかけたところ、シートベルトサインが点灯しているのに気づきました。私はシートベルトがドアにはさまっていないか、たるんでいないかなどを確認しましたが、まだ点灯しています。「もしかして…」という気がして、助手席に置いたバッグに手を伸ばし、それを持ち上げると、サインが消えました。

そのバックには硬貨の包み3本やハードカバーの本、弁当などが入っていたため、子どもの体重程度の重さに達して、センサーが作動してしまったのです。

バッグの中身を空にするのは簡単ですが、重さを減らすことが難しいものもあります。とりわけ、人生の重荷は気持ちを重たくします。

心にのしかかる重荷が、ダビデを疲れ果てさせたような罪であれ(詩32:1-6)、ペテロが体験したような恐れであれ(マタ26:20-35)、トマスの抱いたような疑いであったとしても(ヨハ20:24-29)、それらを持って来なさいと、イエスは招いておられます。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と語っておられます(マタ11:28)。

私たちは、自分だけで重荷を負うようには創られていません。私たちの重荷を担ってくださるお方に、それを委ねましょう(詩68:19、Ⅰペテ5:7)。そうすれば、神はそれに代えて、赦し、いやし、そして、回復を与えてくださいます。神にとって重すぎる重荷はありません。

強制された余暇

ある年のクリスマスの直前、友人のキムが白血病だと診断され、直ちに化学療法が始まりました。少し前、彼女は友人たちに、愛する家族と居心地の良い住まい、そして孫息子も生まれてすごく幸せだと言っていたのです。彼女は入院するとき、主のご臨在が常にあるようにと祈りました。

彼女は、無菌室で7カ月間治療を受け、徐々に回復しましたが、この期間は「強制的な余暇」だったといいます。つまり、「ゆっくり過ごすこと、静かに神や自分と向き合うこと、神の善良さ、愛、そして完全なご計画(自分が完治するか否かにかかわらず)の中で安らぐことを学習させられた」のです。

神の民であるイスラエルに与えられた神の約束のひとつは、キム個人に向けられたものとなりました。「あなたの神、主は、…救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパ3:17)

キムは今、寛解(かんかい)期にありますが、入院体験は自分の人生を良い方向に変える旅だったといいます。また忙しい日常生活が始まりましたが、今でもしばしば立ち止まり、「強制された余暇」の時期に学んだことを思い出すといいます。

良い時でも悪い時でも、神のみこころに寄り添い、みことばを聞き、自らを神の御手に委ねることは、非常に重要なことです。

教訓

夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。

ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。

その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。