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究極の再会

父が永遠の住まいに旅立つ直前の数日間、ベッドの脇で寝ずの看病をしたときのことを決して忘れないでしょう。父が亡くなったときのことは、まるで昨日のことのように鮮やかな記憶となって残っています。父はいつも、私とともにいてくれました。どんなことでも相談できました。いっしょに釣りをしたことは、よい思い出です。私たちは神や聖書について語り合ったり、農場で暮らした青年の頃の楽しい話をしてもらったりしました。

声高らかにハレルヤ!

数日前のこと。旧友のボブが、近所のスポーツジムでせっせと自転車のペダルを踏みながら、指につけた血圧計を見つめているところを目撃しました。

わたしは生きている

政府のデータベース上で、誤って死亡と記載された人は2011年には1万4千人いました。ローラ・ブルックスは、自分がそのうちのひとりであることを知りませんでした。彼女は52才でふたりの子どもがいました。身障者手当の受給が止まったり、ローンの返済や家賃の支払いの小切手が不渡りになって戻ってきたりしたので、いったい何が問題なのだろうと思いました。ローラは事の次第を問い合わせようと銀行へ行きました。すると、銀行の担当者は、彼女が死亡したので口座は閉じられたと言うではありませんか。明らかに間違いです。

主の目に尊い

共通の友人の訃報が届いたとき、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)と言葉をかけてくれた人がいます。彼は主にある賢明な兄弟です。亡くなった友人も力強い信仰の持ち主で、信仰に裏打ちされた人生を送った人だったので、今は神とともにいるとわかっています。彼の家族もそう信じていました。それでも、家族の悲しみはいかばかりかと、それしか考えられませんでした。もちろん、大切な人を失って悲しんでいる人を思いやるのはふさわしいとは思いますが…。

打ち勝つ

ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)

最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。

イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。

すでに夜であった

フィラデルフィアに出張していたのは、イースターの前の木曜日でした。近くの教会で特別な礼拝があり、それに参加しました。それは小さなチャペルで、ろうそくのともしびだけで行われました。聖餐式が執り行われ、パンと杯にあずかりました。それからヨハネの福音書の一節が音読されると、一本のろうそくが消えました。そして私たちは、イエスが十字架に進まれるという賛美歌の一節を歌いました。これが14回くり返されます。すると、ろうそくが全部消えて、部屋の中は真っ暗になりました。暗い静寂の中、私たちはひざまづいて祈り、沈黙したまま、ひとり、またひとりとチャペルを後にしました。

このような礼拝がイースターの前にあると、その中で私たちはイエスの死を取り巻く闇を思い出します。イエスは最後の晩餐の席で、弟子のひとりが裏切ると話されました(ヨハ13:21-30)。それがユダであることをイエスは知っておらました。聖書は「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」と語ります(30節)。

これはイエスの生涯で最も暗い夜でした。イエスはゲツセマネの園で苦しみながら祈り、不当に逮捕されました。また、宗教指導者たちの侮辱に耐え、ペテロの拒絶に心を痛められました。それでもイエスはまっすぐに十字架に向かって歩まれ、私たちの罪のために死んでくださったのです。

イエスは、私たちに光といのちを与えるために、暗闇と死を耐え忍んでくださいました。何とありがたいことでしょう。イエスを賛美しましょう。

不可解な真実

無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。

けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。

キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。

死を考えることの力強さ

新年の計画や抱負について考えるとき、敬虔な先人たちのアドバイスがあります。それは、考えたくない事実、つまり、自分の死について考えてみなさいというものです。

危険に値する

物々交換で新品のiPad(アイパッド)が手に入るとしたら、何と交換しますか。ある17歳の少年は自分の腎臓と交換しました。この少年は、iPadを買うお金がなかったのですが、どうしても欲しかったので、リスクを承知で摘出手術をしました。