Month: 3月 2018

王の冠

家族でテーブルを囲んで座り、発泡スチロールの輪にひとりずつ爪楊枝を差しました。イースターの前の数週間、我が家では夕食の時に、こうして「いばらの冠」を作っていきました。一本一本の爪楊枝は、その日、自分がやってしまった過ち、そして、その報いをイエスが身代わりになって受けてくださったことを表しています。この行為を毎晩つづけることで、私たち家族は、自分がいかに罪深く、どれほど救い主を必要としているかを覚えることができました。

悲しみの道

私たちは受難週の間、十字架に向われるイエスの最後の日々を記念します。イエスが十字架を背負って歩まれた道は、現在、ヴィア・ドォロローサ、すなわち「悲しみの道」と呼ばれています。しかし、へブル人への手紙の筆者は、これが単なる悲しみの道でなく「新しい生ける道」(へブ10:20)でもあると考えました。イエスが自らの意思でゴルゴタに向かう苦難の道を歩んでくださったおかげで、私たちは神のご臨在に入れていただけるようになりました。

たらいの愛

昔、教室の後ろの壁の色を振り返らずに答えなさいと言った先生がいました。しかし、生徒は誰も答えられません。そんなことを気にしていなかったからです。自分の周りのことをすべて認知するのは不可能です。それで、私たちは見落としたり、見逃したりします。ずっとそばにあるのに、気付かないこともあります。

どこもかしこも競争だらけ

「どうもMacです」「こんにちはパソコンです」というせりふで始まる、ユーモラスなCMを見たことがあるだろう。とても人気のCMシリーズだ。このシリーズが素晴らしいのは、MicrosoftとAppleという世界的な二大パソコン企業の熾烈(しれつ)な闘いをユーモラスに描写していることだ。

楽しく笑える広告の裏にも、非常に真剣な競争の世界がある。 実際、限られた資源をめぐる争いは、21世紀の私たちが直面する現実だ。

国際的にみると、石油や食物など主要商品を手に入れるために、各国が競い合うようになってきたのは明らかだ。以前は、ものの考え方や国境、生活様式などの違いが、いつも国同士の争いのもとになり、戦場での闘いにつながった。しかし、地球の資源が減っていく中、国家間の競争には新たな側面が表れてきた。

国内では、政治的な競争がある。ライバル同士が政権を取ろうとやっきになって戦う。国民の信頼を得て票を勝ち取るために、独自の政策の利点をあれこれと述べ立てる。選挙というものは、実に個人的感情に左右される厳しい競争の一例だろう。

各家庭の状況、つまり私たちの実生活に置き換えて考えてみよう。毎日のいろいろな場面で、競争が起こっている。例えば、就職活動、成績アップ、入試など、どれをとってもそこには競争がある。また、普段買い物をする店は、一円でも多くもうけるために競争している。それから、私たちは、注目を浴びたり、 好意や愛情を受けたりするために競争する。

私たちは、遊びの場でさえ競争している、草野球では、優勝トロフィーをめぐって競争する。

スポーツチームのファンたちもそうだ。よく考えてみれば、自分と自分のお気に入りのチームをつなぐ関係は単に住んでいる場所だけなのに、相手チームとの応援合戦がすさまじい闘いに様変わりしてしまうことがある。その一例が2008年、ニューヨーク・ヤンキースのファンが、ボストン・レッドソックスのファンとけんかになり、相手を車でひき殺してしまった事件だ。

日常生活において、 競争を無視することはできない。

そんな中で、私たちには、競争の準備ができているだろうか。日々激しくなっていく競争社会と向き合う準備ができているだろうか。競争の価値や利点、欠点、社会道徳的な問題点についてじっくりと考えるひとときを持ったことがあるだろうか。どうしたら、神にも人にも恥じることなく自信を持って、この競争社会を生き抜くことができるか、今こそ、考えてみるべきではないだろうか。

競争とは何か

1957年10月4日、ある出来事が、世界の二大グループに属する人々を真っ向から対立させ、激しい競争に落とし込んだ。この二大グループとは、二大国のことだ。国家の統治や哲学的な違いから、すでに対立関係にあったが、この事件の発生によって、両国は新たな全面競争の時代を迎えた。

今から50年以上も前のその日、当時のソビエト社会主義共和国連邦とアメリカ合衆国の、野心的な競争が始まった。ソビエトが史上初の人工衛星、スプートニクの大気圏外への打ち上げに成功したことにアメリカ政府が反応した。そして、両国間の競争、つまり、「宇宙開発競争」の幕開けとなった。

ソ連が打ち上げた83.6kgの人工衛星がアメリカ上空を通過した時、アメリカ国民は、ビーっという不思議な飛行音を短波ラジオで聞いた。そして、ソビエトに対する強烈な競争心をかき立てられた。アメリカ国民は、ソ連が技術的に勝っており、 上空からスパイ活動を行っているのかもしれないと恐れた。ソ連の発射する武器が、とうとうアメリカ大陸にまで届くようになったらしい、と考えたようだ。

ソビエトに脅威を感じるアメリカが、技術で遅れを取っていると気付いた時点で、 ソビエトに追いつけ追い越せの宇宙開発競争が始まった。スプートニクの事件は、競争のいろいろな面を浮き彫りにしている。第一に、競争が成り立つためには、通常、敵対する二者が必要だという点が挙げられる。

スプートニク事件以前のアメリカでは、(NASAが設置される以前の話だが)宇宙開発計画に関わる政府の官僚たちの中にソビエトの人工衛星構築を真面目に受け止める者はいなかった。当時のアメリカで競争を語るとき、ソビエトは過小評価されていた。アメリカは、よもや先を越されることはないだろうとのんびり構えていたのだ。しかし、ソ連が宇宙計画の成功を発表するやいなや、言い換えれば、米国民が共産主義国の脅威を感じるやいなや、アメリカは素早く行動に出た。スプートニクの打ち上げで、以前にはなかった競争状態が発生した。

ほとんどの競争では、最終的に手にするものを争って二者が闘う。目指すものは、スポーツならば優勝トロフィー、ビジネスならば顧客の獲得や金もうけ、政治ならば政権、宇宙開発競争ならば国際戦略上での優位な立場だ。

しかし、競争には、必ずしも対立する相手が存在するというわけではない。時には、敵の見えない孤独な競争もある。例えば、あなたが営業マンなら、これまでの自分の販売成績と競っている。もし、走るのが趣味だったら、自己ベストを上げるために、ストップウォッチと競争するだろう。つまり、あなたは、対戦相手無しで競争している。それは、宇宙を舞台にしたけんか騒ぎに、アメリカが飛びこむ以前のソビエトの姿に似ている。

二つ目の特徴は、競争状態は、焦点を明らかにする、つまり「目標」を生みだすことだ。そして、目標達成のためには、こんなにも必要だろうかと思われるほど努力する。スプートニク事件以前のアメリカには、宇宙ロケットの開発に従事する人たちはいたものの、効果的な運用に対しては、軍部関係者の間にさまざまな意見の対立があった。しかし、ソビエトの打ち上げに驚いたアメリカは、巻き返しを狙うため、中央機関を設けて活動し、目的達成に注力し始めた。その目標とは、もちろん宇宙開発技術でソビエトをしのぐことだ。そうして、米航空宇宙局(NASA)は、アメリカ全土の知力を中央に集中させた。その後、ジョン・F・ケネディ大統領によって、あらゆる小規模の目標が一つの偉大なる目標に結集されたのだ。1961年5月25日、ケネディ大統領は、「我が国は、今後10年以内に人類を月面に着陸させ、安全に地球へ帰還させるという目標達成のために全力を傾けて取り組むべきだと考える」と大胆に宣言した。

さて、第三に、競争には「改善への動機」を生みだすという特質がある。この時点でアメリカは、現状に甘んじてはいられなくなっていた。NASAの設立だけでなく、一般庶民のレベルに関してもそうだ。アメリカ全土の学校に対し、数学や科学の教育を強化するように指導が出された。なぜなら、ソ連のスプートニク打ち上げ成功は、 教育レベルにおいてもアメリカがソビエトに遅れを取っている証拠ではないか、と危惧したからだ。

この競争の結果は、誰にも予想できないものだった。実際、国と国とが競争関係に陥ったらどんな結末を迎えることになるか、思い描くことも不可能だった。一般には、人を乗せたアメリカ製宇宙船の月面着陸が、米ソ宇宙開発競争におけるアメリカの成功を示すものだと考えられている。けれども、実際の成果は、それ以上のものだった。

最終的に、この競争は逆の結果、つまり協力関係を誕生させた。1975年にアメリカとロシアの宇宙飛行士らが、大気圏外空間で握手するに至ったのだ。宇宙開発競争は、歳月を経てさまざまな開発や発見をもたらし、月面に立つこと自体の価値よりもっと大きな影響を人類に与えることとなった。

偉大なる競争は、ふとしたきっかけから、次のようなものにつながった。インターネットの前身ともいえるARPANET(アーパネット)、超音波エコー、GPSシステム、そしてインスタントコーヒーなどがある。このように競争は多くの場合、思いがけない結果を生みだす。

だから競争とは、目標のため、または限りある資源を手にするための闘いであり、多大な努力と自己改善が要求される。

競争自体は、良いものでも悪いものでもない。目標を達成しようとする動機や方法次第で、大きな益をもたらすこともあれば、大きな害につながることもある。

競争には結果がある。思い通りの結果もあれば、予想外の結果もある。だから、慎重に参加すべきだ。

競争の危険な面

競争願望は、放っておけば紛争になって、ごうごうと燃え盛る炎のように広がっていく。だからといって、競争を避けるべきだというのではない。しかし、人を押しのけたり、自分の人格(人としてのあるべき姿)を失ったりしても勝ちたいと願うようなら、自分の動機を見直す思慮深さが必要だ。

競争の危険な面をきちんと考察することで、競争の負の面を避けることができる。

貪欲という危険

誰だって給料をもらえばうれしい。これは自分がつぎ込んだ時間や努力、技術、献身などに対する金銭的な報酬だ。同じ給料をもらうにしても、ある人たちにとっては、うれしさの度合いもけた違いだろう。この競争社会において、一部の人は、信じられないほどの金持ちになるのだ。例えば、ある服飾関係企業のCEOは、 2007年に2,600万ドル(約24億5,200万円)も稼いだそうだ。これは、単純計算で毎月の給与明細が約2億円というのと同じだ。この人は、競合各社を徹底的に打ちのめした報酬として、巨額の給料をもらっている、といってもよいだろう。

これほどもうける人がいると、資本主義社会には「貪欲(どんよく)」という危険が存在すると、改めて気づかされる。最低賃金で働く人が、2千年働き続けてようやく手にするのと同じ額の報酬を、たったの一年で稼ぐ企業の野獣たち。彼らの心がどんなものか、私たちはもちろん、知る由もない。しかし、競争の世界で貪欲が台頭することは知っている。

それでは、 スポーツ界の競争について考えてみよう。 ここでも貪欲さと競争心がごちゃまぜになった例がある。あるメジャーリーグの投手は、「僕に大金を払って、失望した人はいないはずだ」と発言した。このように、より多い報酬を求めてばかりいると、いつか人間は、契約交渉に対する考え方までおかしくなってくるのかもしれない。

プロスポーツ選手向けのある雑誌は、何千万円もする腕時計や一泊数百万円のリゾートホテルの特集などを組む。こうして裕福な選手たちの貪欲さを刺激して、売り上げを伸ばそうとするのだ。

もちろん、金持ち選手たちの多くは、貪欲さを動機にしてスポーツをやっているわけではない、と反論するだろう。そうかもしれないが、選手とチームの間で繰り広げられる契約交渉をいくつか取り上げれば、「異常なまでの金銭的欲求」という「貪欲さ」の定義が、ある程度当てはまると一目でわかる。

人は競争によって、今以上の何かを手に入れようとするが、これは、お金に限ったことではない。例えば会社員なら、より高い役職、より良い待遇、より長い有給休暇などの優位性を得ようとする競争がある。フェアな姿勢を求められるスポーツの世界でさえ、プレーする時間やコーチに注目されることに貪欲になる。また試合中は、観客の称賛を得ることでやっきになる。

ルール違反の誘惑

近年、競争と言えばルール違反をして汚名を残した人たちを思い浮かべる、というのが大方のところだ。

ビジネスの世界では、裕福な企業のトップが罪を犯して、重役室から一転、刑務所の独房行きになってしまった例もある。競争で一歩先を行こうとすると、法律上の一線がぼやけてしまうことがあり(多分、先にも述べた貪欲さのせいだろうか)、優位な立場を得ようとして不正行為を働いてしまうことがある。スポーツ界では、選手たちが身体能力を飛躍させる薬物を使って、使わない選手たちを出し抜いたというスキャンダルが絶えない。彼らは、正々堂々とプレーするライバル選手たちの裏をかき、ずるいやり方で勝とうとした。

競争者たちは、周知のリーグ規則や明文化された法律があったにもかかわらず、一線を越えてしまったのだ。彼らは競争したが、競争自体がこのような違法行為を招いたのではない。また競争が告発のもとだったわけでもない。彼らは、正当な競争をせず、抜けがけを選んだ。問題の原因は、彼らが置かれていた状況ではない。彼らが判断を誤ったことだ。

不正行為があまりにも当たり前になってしまった一部のスポーツでは、「ズルくない奴はやる気がない」とまで言われる。これでは、ルールを守って戦おうとする選手たちの負担がさらに大きくなってしまう。

競争に勝った時の報酬があまりにも大きいので、ルールを曲げようが、 不当であろうが、とにかく優位な立場を得ようという衝動に、ついかられてしまう。

優先順位を間違える危険性

フランシス・A・シェーファー財団のウド・ミデルマンによると、スポーツは多くの人にとって、人生で最も魅力を感じるものになってきたそうだ。

頑張って競争していると、こうなりやすい。男女を問わず、競争したり、人が競争するのを応援したりするのが好きな人は大抵、非常に勝気な性格だ。大切な人との時間や、お互いを尊重した付き合いや、競争よりもっと重要な活動に関わることを犠牲にしても、 とにかく成功したいと考えるようになる。

ビジネスマンのグレッグ・ブルゴンドの説明によると、競争の真っただ中にいる人は、まるで勝利自体が神でもあるかのように、どんなものでも平気で犠牲にできるそうだ。彼はこう書いている。

「私の娘は、高校の時、バスケットボールの試合を見に来て欲しいと、何度も私に言ったものです。当時、娘は学校を代表するチアリーダーでした。そして私は、ある企業のゼネラルマネージャーでした。娘に対して、どうしても行けないと、もっともらしい理由をいろいろ並べ立てたのを覚えています。しかし、それらが何だったのか、今では思い出せません。覚えているのは、行ってやれなかったという事実だけです。その頃の私にとって、業界における自分の影響力より大切なものはありませんでした。」

さて、競争の場で、自分の意見だけが正しいと思って行動すると、大恥をかく。レフリーの判定に逆らって、立派なスーツを着込んだ大人が、かんしゃくを起こした子供のように振る舞うのを見て、がっかりした経験は誰にでもある。選手やコーチ、マネージャーが、試合が思い通りに運ばないことがあったからといって、わめいたり、暴れ狂ったり、腹の底から怒りを吐き出しているのをYouTube(ユーチューブ)で見たことがあるだろう。ビジネスや教会の役員会でもそうだ。メンバーたちが、自分の意見に固執したり、言い争ったり、恨みがましく意見をひっこめたりした様子を聞いたことがあるだろう。

競争に関わったがために、もっと良いことに関われない場合もある。例えば、野球観戦に夢中になること自体には何の問題もないが、一日に何時間もそれにかまけて、家族としての責任をないがしろにしたり、もっと価値のあることに時間をかけないような人は、優先順位を間違えている。試合観戦や応援にのめり込んだスポーツ・ファンが、日常生活をおろそかにし、家族との大切な時間を失っているという例が、実に多い。

競争は放っておくと、まるで悪い薬のように、私たちの心身をむしばんでいき、秩序正しい生活のリズムを乱し、優先順位を狂わせてしまう。そして、自分の人生をコントロールできなくなってしまう。

競争の価値と有益性

競争は、人生のように逆説に満ちている。競争は危険だ。そう考えると、自分を駄目にしたくないので、営業成績表やスコアボードなど関係のない世界で生きればよいと言うかもしれない。しかし、競争から良い結果を生みだした例もある。ここで幾つか、人生におけるぎりぎりの闘いで、成功を収めた例をみてみよう。

競争は感動を与えてくれる

競争に明け暮れている人々の中から、深く心を打つ実話が生まれる。どうしようもない状況を克服したり、自分の過去の過ちがもたらした人生のどん底から這い上がったりして、遂には大きな成功をおさめた物語に深く感動した経験は、一度や二度ではないだろう。

メジャーリーグの外野手、ジョシュ・ハミルトンは、その典型だ。1999年のこと、ハミルトンは高校生野手として、ドラフト全米一位で指名された。しかし、ハミルトンはその後、酒を飲み、麻薬に手を出し、自分の人生の破滅に向かってありとあらゆることをやった。そんな彼を信じる人々がいた。彼の妻、祖母、そしてあるコーチだ。彼らの祈りと影響でハミルトンは立ち直っていった。遂にある日、 彼は、 自分の人生を神にささげるという決心をした。

ようやく、彼の人生は好転を始めた。そして2007年、メジャーリーグに戻る機会を得た。酒と薬物依存から完全に解放され、信仰によって強められたハミルトンは、シンシナティ・レッズの選手として、シーズン19本のホームランを打った。

このような競争の物語に、私たちは感動する。心温まる話は、悩み多き世の中に希望をくれる。他の例をあげると、デイヴ・トーマスは、無一文から世界的なフード・チェーンのウェンディーズを築き上げた。また、若い野球選手のジム・アボットは、障害を乗り越えて、隻腕(せきわん)投手としてメジャーリーグで活躍した。バスケットボール選手のマグジー・ボーグスは、身長わずか160cmだが、NBAで活躍中だ。

このように、競い合い、成功に至った者たちが手にした価値とは、単なる個人的な勝利の喜びをはるかに上回るものだ。素晴らしい競争をする者は、内面的、または外面的な障害を乗り越える方法を見つけねばならない。かくして、彼らの物語は、自分の行く手を阻む障壁を克服する勇気と励ましを与えてくれる。

競争はチームワークを教えてくれる

さて、企業は、業績の良い社員たちを本社から離れた別荘地などにわざわざ行かせて、ケーキを一緒に作らせたり、ゲームやスポーツ競技をさせたりするが、それは一体何故だろう。企業が、社員たちをチーム形成活動に参加させるのは、どうしてか。それは、競争社会においてどんなに才能があったとしても、チームとして働いてこそ、より大きな成果を収められるからだ。

ほとんどの場合、競争が協力を余儀なくさせる。自分の才能や技術を、他人の才能や技術と組み合わせて仕事を成し遂げざるを得なくする。

一匹狼が競争に勝つことはできない。たった一人でいろいろな試練に立ち向かい、切り抜けていく、というやり方には無理がある。チームを作り、各個人の才能をうまく組み合わせなければならない。

フード・フランチャイズ会社の中で最も成功している某企業は、世界中に3万軒以上の店舗を抱えており、競争の意味をよく知っている。この企業の歴史は50年以上だが、その間には、何百という競争相手が、現れては消えていった。その中で一社として、彼らのような成功を手に入れる者はなかった。この会社の運営方法を詳しく見れば、従業員の資質として一番大切なことにチームワークが掲げられていることがわかる。それは、バーガーをくるりとひっくり返して焼く仕事だろうが、本部で事業運営に関わっていようが、同じだ。このファーストフード企業のCEOは、「うちに入社する社員は皆、人生で大切なスキルを学びます。そのひとつはチームワークです」という。チームワークは、価値の高い、尊敬に値するもので、良い競争から派生する。また、そんなチームを率いるリーダーたちは、人々が一体となって働けば、たくさんの個人がばらばらに働くより何倍もの結果を生みだす、 ということをよく理解している。

競争は、各個人の可能性を引き出してくれる

高校でスポーツをやるのは、ある意味で試練なのに、親はなぜ、それを子供に許すのか。

とにかく、スポーツは楽じゃない。若くても身体が疲れきってしまうトレーニングもある。それも、シーズンが到来するにつれてよりハードになる。また、精神的にも厳しい。なぜなら学生選手は、変化する状況の中で素早く考えて対応し、勝てるように、とても複雑なことを教え込まれるからだ。

最後に、若い彼らは精神的なチャレンジにも直面する。コーチがどのように考えているか理解し、チームメイトとうまくやるように努力し、勝ったり負けたりの葛藤(かっとう)を消化しなければならない。

スポーツを通し、適切で注意深い指導を受けることによって、生きていくために必要な精神的、肉体的、心理的なスキルを磨く良い機会が与えられる。だから、親は子供にスポーツをさせるのだ。

例えば私の場合、学生時代にスポーツで競ったことが、後の人生の成功に、大きく貢献した。大学のバスケットボールチームに4年間所属したことは、自分の欠点を乗り越えるのを助け、教えたり、指導したりする職業に進むことがふさわしいと思わせてくれた。

私はコーチに精神的な強さを求められたため、難しい状況を避けて通ろうとする、若者特有の悪い癖がつかずに済んだ。在学中に身体を鍛えたことで、その後もずっとそうできた。また、多くの人が見ているコートの上で成功する機会を与えられたおかげで、恥ずかしがり屋で無口な自分の殻を抜け出すことができた。学生バスケットボールの激しい競争が私の心身を研ぎ澄まし、神に用いて頂けるような人間になるよう後押ししてくれたのだということが、何年もたってわかってきた。

尊い競争とは

アメリカの有名スポーツ団体は、以下のような方針を掲げている。そのグループの目指すところは、「健全な社会性、鍛練された人格、チームワーク、そして身体の健康を育むよう支援する」ことだ。

また、次のようにも公約している。「我々は神を信頼し、祖国を愛し、我が国の法令を守る。公正に行動し、勝利に向かって努力するが、勝ち負けに関わらず、最善を尽くす。」

高い評価を受けるこの団体が掲げる方針に、賛同しない人はほとんどいないだろう。その価値観は社会性、秩序、チームワーク、唯一神、愛国心、フェアプレイ、ベストを尽くすこと。

これは、野球の米リトルリーグが掲げる社会的使命の宣言だ。これを読めば、非宗教的な団体が競争の場面で求める優秀さと、キリスト教的見解に立った「高尚な」質の高い競争というものに、さほど違いがないことがわかる。

これは、競争と宗教の関係について、一度も考えたことがない人にとっては、重要な点かもしれない。公認の規則や決まりに従って競争する場面では、フェアプレイとか、すがすがしさとかが敬われる。多くの人々が知っているが、その理由のわかっている人は少ないかもしれない。実は、フェアプレイの根本にあるのは、人生の基本的方針や価値観を、世俗的なライン以上のところに置く、という考え方なのだ。

この論理に従えば、善良であることや公正であることは生来、人間に備わっている資質かもしれない、と考えられる。そのように神が人間の心に植えつけてくださったものを、競争者たちが拒むとき、人を欺くとか、人間性を欠くような行動に至るのではないだろうか。

例えば次の聖書からの引用について、ちょっと考えてみよう。全ての人々に善と悪の違いがわかる能力が与えられた、と書いてある。

使徒パウロがローマ人への手紙2章15節にこう書いている。「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。」聖書の解説者であるウィリアム・ヘンドリクセン氏の説明によると、「『神は』人に善と悪という分別の技能を授けた」そうだ。ヘンドリクセンは、また人間というものは、「自発的に律法(神の法)によって求められることを行う」ものだという。例えば、人がその妻や子供に対して優しくするとか、貧しい人への思いやりを持っているとか、正直であろうとすることなどだ。また、競争において公正さと誠実さを保とうとする、ということもそうだ。

だからこそ、(例えば先述のリトルリーグの方針のように)道徳的で理にかなった競争の考え方から、聖書に示され大切に守られてきた原則によってしっかり裏打ちされた競争の考え方に移行するのは、大きな一歩ではない。

時を越えて大切に守られる競争の原則の根源を調べていけば、その選手が宗教的であろうと、非宗教的であろうと、実用的で役に立つアドバイスを聖書の知恵から得ることができる。聖書を開けば、今まで見えなかったものが見えて公正な試合をする勇気が与えられるだけでなく、競争社会の中で、尊厳をもって生きていくために必要な、永遠の助けと支えの源を信頼するべき理由を知ることができる。

究極の競争者の原則

それでは、イエス・キリストに従う競争者の姿とはどんなものだろう。それは、イエス・キリストご自身のような姿だ。ただし、クリスチャンによって作り上げられた滅菌消毒をしたような清いイメージ、またはクリスチャンでない人々によってイメージされる白く長い衣をゆるやかにまとい、実社会には無関心で、孤立したおとなしい優男というイエス・キリストではない。これらのイメージは、実際の福音の物語とかけ離れている。例えば、祈りの家であるべき宮をまるで盗人の隠れ家のように扱った者らを追い払ったりしたイエスは、実に荒々しい。また、ユダヤの不毛の荒れ地を歩き、40日間も断食を続け、敵と真正面にぶつかったのだから、頑強そのものだ。

歴史に名高い、善と悪の闘いの場面を考えると、あることに気付く。この対決に、イエスは応援もなく、一人で立ち向かったわけではない。主イエスと敵対者との決闘の直前、イエスは、天から響く父なる神の御声によって、聖なる業を奨励された。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という神の御声が下った。

だから、誘惑が起こった時、イエスは敵に立ち向かう強靭(きょうじん)さを示されたばかりか、競争の世界でも品位を保って生きるとはどういうことか、身を持って教えてくださったのだ。

それでは、イエスを敗北させようとしたサタンの試みについて、マタイはどのように述べているか、見てみよう。

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、 神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた (マタイ4:1-11)。

このように、試みる者は、3度もイエスを誘惑しようとした。しかし3度とも、イエスは旧約聖書の申命記から適切な聖句を引用して、敵に立ち向かった。その過程で、イエスは誘惑に打ち勝っただけでなく、名誉を持って、競争社会を生き抜くための原則を教えてくださった。

誰もパンだけで生きてはいけない

悪魔は最初、石をパンに変えることで神の子であると実証するよう、イエスに迫った。 それに対してイエスは、どんな競争者の人生をも光り輝くものとするような究極の自信で応じられた。イエスは、こう言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4:4、申命記8:3)。

これは昔、神の民が40年もの間、砂漠や荒れ野をさまよったとき、神ご自身から必要なものを民に与えてくださったことを指している。

その時の原則は、今も変わらない。私たちは、自分の力だけで生きているのではない。 また、食べ物や金の力だけでは生きられない。私たちは、神のご慈悲や恵みのお陰で、減ってゆく限りある資源の世の中に生きている。その知識こそが、勝ち負けに左右されない、私たちの自信なのだ。

神の恵みに対して付け上がってはいけない

サタンの二つ目の誘惑は、神殿の尖塔上で繰り広げられた。神とのきずなを証明するために、イエスに飛び降りるよう、サタンがささやいた。要約すれば、「あなたが本当に人々の待ち焦がれた救い主、メシヤなんだったら、飛び降りて実証しなさいよ」と言ったわけだ。「神の子なんだったら、父なる神が天使を送って守ってくださるはずでしょう。」

イエスはそれに対して、「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4:7、 申命記6:16)と反論された。この引用は、ユダヤの法律の中で、モーセがイスラエルの民に対して、他の邪教の神に従っておきながら、同時に真の神の恵みを受けられると間違っても考えるな、と教えた部分だ。

その原則は、私たちの社会にも当てはまる。闘いの熱気の中で、「自分のことは自分で守らなきゃ」という悪魔のささやきに耳を傾けてしまってはいけない。

「自分をちゃんと守らなきゃ、誰もあんたの面倒なんか見てくれないんだから。大丈夫、ちょっといい加減にやったり、ルール違反したぐらい。どうせ、みんなやってるんだから。それに、神さまだってわかってくれるよ。本当に愛の神なんだったら、許してくれるってば」というのが悪魔のささやきだ。

しかし、そんなやり方が、神に対して忠実でないこと、自信と名誉を掲げて競争社会を歩んでいく生き方とはかけ離れていることを、イエスは教えてくださった。

神のみを信頼し、礼拝せよ

サタンの三つめの誘惑は、一番大きい誘惑だ。自分にひれ伏して拝めば、闘うこともなく、世界を手にすることができる、とサタンは言った。

しかし、またもやイエスは神の深い知恵とみことばだけに頼って、この誘惑をはねのけた。そして、こう言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10、申命記6:13)。

人生で特に激しい競争におかれる時期には、私たちは勝利とか、金銭、名声などといったものをついつい、神のようにあがめてしまう。世間は敗者に冷たいと知っているからだ。だから、世間で神のように扱われるものにひれ伏し、それを拝んでしまう。

しかし、愛に満ちた天の父なる神は、自分の都合に合わせて、神を信頼したり、しなかったりしてはいけない、といさめてくださる。

イエスは、主なる神のみを拝み、至高の誉れを神のみにささげることが、最大の自信につながることを教えてくださる。