Month: 7月 2018

私のような罪人

友だちのイーディスは、宗教に無頓着でしたが、ある日曜日の朝、満たされない心を何とかしたいと近所の教会に出かけました。礼拝メッセージはルカの福音書15章からで、牧師が「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする』」(1-2節)と欽定訳聖書で朗読しました。これが「罪人たちとイーディスを受け入れて…」と聞こえたので、彼女はびっくりしました。欽定訳の古い英語の「食事をする」と、彼女の名前の発音が似ていたからです。

逆境を乗り越える

私たちは責任を持って各々の目標に取り組むために、月に一度会って報告会をしています。昨年のメアリーの目標は、年末までに食卓の椅子を修理することでした。彼女は11月の集まりで「椅子の修理に10か月と2時間かかった」と報告しました。必要な材料が何か月も調達できず、仕事と育児の両立に苦闘し、中々着手できなかったのですが、修理の作業時間は、たった2時間でした。

悲しみのトンネル

親友を交通事故で亡くしたのは19歳のときでした。それから数か月間、悲嘆にくれて生きていました。前途洋々とした年若い友を失った心の痛みで、周りのことが目に入らないこともありました。辛くて悲しくて、神さえ見えなくなりました。

ハチとヘビ

パパの出番という種のトラブルがあります。先日、子どもたちが玄関先にハチが住みついていると言うので、殺虫剤をもって奮闘し5個所も刺されました。何とも災難ですが、妻や子どもたちが刺されるよりはましです。子どもたちは私のもとに来ました。パパが危険から守ってくれると信頼しています。

なぜ人は心配するのか

使徒ペテロの体験は、人がなぜ心配するのかを理解する助けになります。イエスの弟子たちが、嵐の中で小船に乗っていたときの話を例にとって考えてみましょう。イエスは、弟子たちを先に出帆させ、ご自分は祈るために山に登られました(マタイ14:22~33)。すると、強風がガリラヤ湖の湖上を吹き荒れ、嵐の中で疲れ切った弟子たちは、漕ぎ進むことができませんでした。そのとき、イエスが水の上を歩いて弟子たちの方へ来られました。弟子たちはイエスの姿を見て、非常に恐れました。

イエスが弟子たちに向かって、「わたしだ。 恐れることはない。」とおっしゃいましたが、ペテロは疑っていました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)イエスが、「来なさい。」と命じると、ペテロは信仰によって水の上に足を降ろし、イエスに向かって歩き出しました。

しばらくしてから、周囲を見回すと、強風に荒れ狂う高波が目に入りました。そして、自分がとても危険な状況に置かれていることを実感し、この状況を乗り切ることができるかどうか疑い出しました。そのとたん、彼の身体は水中に沈み始めました。ペテロがイエスに助けを求めると、イエスは手を伸ばして彼をつかみ、船まで連れて行ってくださいました。

私たちは、ペテロと同じです。ペテロの経験から、私たちが心配する理由がわかります。

1. 心配するのは、人間が弱い生き物だからである。

私たちは、多くのものの影響から逃れることができません。病気になることがあります。経済状態が変わることもあるでしょう。車の故障や航空会社のストで、足止めされるかもしれません。飲酒運転の車にはねられることさえあります。また、罵声を浴びせられたり、痛烈に批判されたりして傷つくこともあります。私たちは、これらを恐れています。

人は、弱くて、その命には限りがあり、傷つきやすい存在です。肉体的にも情緒的にも、また霊的にも弱いものです。色々なことで傷ついてしまいます。人は人以外の何ものでもなく、だれでもペテロのように溺れることがあります。心配になるのは、人が弱い存在だからです。

2. 心配するのは、自分の弱さに気づくからである。 人は、ほとんどの場合、自分は比較的安全だと感じて暮らしています。家庭を安らぎの場にし、信頼性の高い車を購入し十分に整備して使います。定期的に健康診断を受け、良い医療保険に加入します。また、常に良い人間関係を維持しようと努力します。私たちは、肉体的、情緒的、そして霊的な分野でも、自己管理をして平安に暮らしています。

しかし、いったん何かが起こると、自分がいかに弱い存在であるか、身にしみてわかります。嵐の中で風と波を見て恐れを感じたペテロと同じです。それは、運転中にエンジンが妙な音を立て始めたときや、子どもが病気になったとき、胸に圧迫感を感じたり、原因不明のしこりを見つけたりしたときかもしれません。あるいは、職場でリストラが始まるという噂を耳にしたときでしょうか。それが何であれ、人は、あるできごとを契機として、自分の弱さを直視しなければならなくなります。

3. 心配するのは、神が信じられないからである。自分の弱さに直面したとき、人は二者択一をせまられます。神をしっかり見つめて、神こそが揺るぎないよりどころであると信頼し、自分が感じている不安を神にゆだねるか、自分の力にたよるかです。水の上を歩いていたペテロの状況は、まさにこれでした。ペテロは、危険を感じたとき、イエスを信頼する気持ちが吹き飛んでしまいました。しかし、自分ではどうすることもできないこともわかっていました。

ペテロに向けて語られたイエスの言葉には、はっとさせられる真実が隠されています。「信仰の薄い人だな。」(31節)ペテロは、イエスを信頼するのをやめてしまいました。自分の人生・感情・将来を、イエスにゆだねられなくなったとき、不安が頭をもたげます。それは罪です。なぜなら、もともと神が担われるべき責任を、自分で担おうとしているからです。そのようなとき、人は、神の力強い御手に自分自身をゆだねることをかたくなに拒んでいます。それでは、心配になって当然でしょう。

聖書に記されている心配性の人についての事例研究

イエスが、マリヤ、マルタ、ラザロの三兄弟が共に暮らす家を訪れたときのことがルカの福音書に記されています(ルカ10:38~42)。この聖書個所を読むと、イエスが、心配性のマルタをどのように導かれたかがわかります。私は、次のような場面を頭の中で思い浮かべることができます。

イエスとその弟子たちは旅をしていましたが、その途中でこの家庭に立ち寄りました。大切な客人の世話をするのは、簡単なことではありません。マルタが、台所で、 サラダを作るために野菜を切り、食器を出し、メイン・ディッシュを作り、さらにデザートの準備をするなどして忙しく働いている間、マリヤは何もせずにイエスのそばに座っていました。

マルタは、主イエスのために、すべてのことを完璧に仕上げたかったのですが、物事は思いどおりに進みません。マルタは、いらいらし、無力感を覚えました。ルカの福音書10章40節によれば、マルタは、「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」、居間の方に目をやりました。マリヤが手伝ってくれることを期待していたのです。しかしマリヤは、イエスの話に夢中で聴き入っていて、腰を上げる気配はありません。

ついに、マルタは我慢できなくなって居間に行き、腰に手をあてて、強い口調でこう言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(40節)

あなたもマルタのような人かもしれません。 あるいは、マルタのような人と一緒に暮らしているかもしれません。イエスは、忍耐強く、思いやりに満ちた態度でマルタに接しておられましたが、それは私たちにとってすばらしいお手本です。イエスが何をなさったか見てみましょう。

まず初めに、イエスは、マルタ自身がいろいろなことを心配していることに気づくように配慮されました。イエスは、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」(41節)とおっしゃいました。イエスは、マルタの名前を繰り返して呼ばれましたが、その声は本当に優しい響きのこもったものだったと思います。イエスは、マルタが抱えている問題が何であるかをお示しになりました。そして、取り組まなければならない問題があることをマルタが知るようにされました。客を心からもてなすこと自体は、良いことです。食事をはじめとするすべてが最高のものであるように配慮することも、間違っていません。イエスは、マルタを裁かれたのではありません。マルタは、自分が心配していることに気づいていませんでした。イエスは、彼女がそのことに気づくように促されました。

次に、イエスは、心配するのは選択の結果であることを示されました。マルタは、もてなしの準備で心を煩わすことを選びました。そうすることによって、マルタは、妹を批判し、イエスが無神経であるとほのめかすような態度で、イエスに命じることさえしました。しかしイエスは、マルタを責めることはなさいませんでした。そのかわり、心配することを選んだのはマルタ自身だという事実をお教えになりました (42節)。

最後に、イエスは、選択肢はふたつあるとマルタにおっしゃいました。それは、世俗的で一時的なことを選ぶか、天の御国に関することで永遠に関わることを選ぶか、です。イエスはマルタに向かってこう言われました。「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(42節)マルタがどんなにおいしい食事を用意したとしても、それはやがて忘れられてしまったでしょう。しかし、イエスの言葉はマリヤの心に残り、永遠の実をみのらせることになりました。

マルタが居間に来て、マリヤと一緒に座っていたらどうなったでしょうか。結局、何も食べなかったと思いますか。それは違います。マルタがマリヤとともに座っていたとしても、その場にいた人はみんな食事をしたでしょう。もしかしたら、イエスが、「豪華なフルコースの食事よ、今ここに現れよ。」とお命じになったかもしれません。

マルタは、イエスから大切なことを学んだと思います。一年あまりの後、イエスは再び彼らの家に夕食に招かれました。マルタとその一家は、ラザロを死からよみがえらせてくださったイエスをほめたたえるために、夕食をともにしました(ヨハネ12:1~11)。その聖書個所には、ただ、 「マルタは給仕していた。」(2節)と書かれているだけです。マルタは依然として夕食を準備するために働いていましたが、今度は、責任の重さに圧倒されてはいませんでした。彼女は、心配しやすい自分の傾向をコントロールできるようになっていたと思います。

心配ごととは何か

心配ごとにどう対処すべきか、その答えを知るために聖書を調べてみましょう。しかしその前に、「心配」ということについて、まず基本的なことがらを押さえておくのが良いでしょう。

心配ごととは何か。何かを心配するというのは、懸念、不安、あるいは恐れを感じることです。このような気持ちは、何か悪いことが起こるかもしれないという予感と関連しています。たとえば、「帰宅した夫が、不機嫌だったらどうしよう。」とか、「あの大学に行っても、娘の将来は大丈夫か。」とか、「この家を購入しても、住宅ローンを払っていけるのか。」、あるいは、「地震が来ても生き残れるだろうか。」などと思うことです。

心配性の人たちは、今このときに生きているのではなくて、まだ来ていない将来に生きています。これから起こるかもしれないあれこれを長々と考えては、最悪の事態を想像し、恐怖を感じています。

「心配」を意味する言葉として、新約聖書の中で主に用いられているギリシャ語の単語は、「メリムナオ」です。これは、「不安であること」、「悩んでいること」、あるいは「集中できないこと」などの意味です。イエスは、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで何を着ようかと心配したりしてはいけません。」と言われましたが(マタイ6:25)、ここで使われている言葉が「メリムナオ」です。また、パウロが、「何も思い煩わないで、…」と言ったときに用いた言葉もこれです(ピリピ4:6)。心配性の人は、心配ごとで頭が一杯になっているか、心配ごとに気をとられていて集中できません。何をしていても、心のどこかで心配しています。

どのような人が心配するのか。だれでも心配します。心配と無縁な人は、ひとりもいません。この世に何の心配もないと言う人は、自分のまわりで起こっていることに目をつぶっているだけです。責任感のある人なら、その責任を果たせるかどうかが気になるはずです。だからこそ、人はいろいろなことを成し遂げるのです。世界中で最もすぐれた指導者と言われる人たちの中にも、心配性の人がいました。アレキサンダー大王、ジョージ・ワシントン、そしてウィンストン・チャーチルなどがそうです。

興味深いことですが、すぐれた業績を残しした多くの人たちは心配性でした。失敗してはダメだという思いが、彼らを駆り立て懸命にさせます。一方、一見のんきそうな人たちもやはり心配します。心配ごとを顔に出さないだけです。そうです。心配しない人など、この世にはいないのです。

何が心配なのか。「心配ごととは、将来起こるかもしれないことを、いま起こっていることに重ね合わせることだ。」と言う人がいます。心配とは、将来起こるかもしれないことが、何か悪い結果をもたらすかもしれない、という懸念に心を奪われることです。心配する原因を分類すると、 以下の3つのカテゴリーになります。

1. 恐れ 犯罪の恐ろしさを実感するために、ニューヨークやロサンゼルスのような大都市に住む必要はありません。人気(ひとけ)のない暗い夜道をひとりで歩いて帰宅するなら、「ひったくりに襲われたらどうしよう。」と心配しなければなりません。安心してほっとするのは、無事に家に着き、玄関の鍵を内側からかけたときでしょう。心配の原因として挙げられる第一番目は、自分の身が危険にさらされることです。

2. 選択 多くの人は、決断しなければならないとき、不安になり心配します。そして、間違った選択をしないように最善を尽くします。この行動パターンは、選択肢がふたつ与えられていて、その両方ともが同じように良いときにも起こります。たとえば、山田健一さんが、ふたつの学校の教員採用試験に合格し内定をもらったとしましょう。一方の学校は、福利厚生の条件が良いのに対して、他方は、より教えがいのある教科を担当できるうえ、野球部の監督にもなってほしいと言われました。山田さんは、誤った選択をして後悔してはいけないと考えて心配になりました。

3. 過去の体験 心配の原因として考えられる第三番目のものは、「過去の体験」です。若い人の中には、父親との関係や、教師に対する悪い思い出などが原因で、権威を行使する立場に立っている男性とうまくいかない人がいます。そのような人は、上司と話し合わなければならないとき、いつも心配になります。目上の者によって、また恥をかかされるのではないかという恐れに打ち負かされそうになるからです。

心配になると、否定的な結末を思い描いて頭の中が一杯になります。恥をかいたり痛い目にあったりしないかと恐れます。大事な人や物を失いはしないか、あるいは、自分のしたいことが邪魔されるのではないかと不安になります。心配になったとき、次のふたつの行動のうちのいずれかを選択することができます。ひとつは、心配の原因である問題を避けることです。ただし、これをすると、ストレスは増えるだけです。もうひとつは、問題を直視し、適切な行動を起こして、そのあとはもうくよくよしないことです。

心配について聖書は何と言っているのか。 聖書は、2種類の心配について語っています。ひとつは、否定的な心配で、人に害をおよぼします。 もうひとつは、肯定的な心配で、人に益をもたらします。このふたつの違った意味を持った「心配」は、新約聖書では、「メリムナオ」という同一のギリシャ語で表現されています。

聖書に記されている否定的な心配とは、当惑していらだち、落ち着きのない状態のことです。イエスは、「山上の垂訓」の中で、この種の心配に関して6度も語っておられます(マタイ6章、本冊子46ページ参照)。イエスは、衣食住などの日常生活に関することで心を悩ませてはいけない、そして、将来起こるかもしれないことを心配してはいけないとお命じになりました。また、パウロは、「何も思い煩わない」(ピリピ4:6)ように命じています。一方、ペテロは、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」(Ⅰペテロ5:7)と指示しています。本冊子で取り上げている「心配」あるいは「心配ごと」とは、上述のような否定的で人をダメにする種類を指します。

しかし、心配がすべて悪いとは限りません。聖書は、人に益をもたらすような心配についても書いています。たとえば、コリント人への手紙第二の11章28節には、「日々私に押しかかるすべての教会への心づかい」というパウロの言葉があります。この節で「心づかい」と訳されている言葉の原語は、先に紹介した「メリムナオ」というギリシャ語です。パウロは、コリントの信徒たちのことを心配していました。だからこそ、彼らに手紙を送ったのです。

パウロは、ピリピの信徒たちにも手紙を書き、テモテを彼らのもとに派遣したいという願いを明らかにしています。パウロが彼らのことを「心配(メリムナオ)」していたからです(ピリピ2:20)。ここで用いられている「心配」という言葉は、肯定的な意味を持っています。この心配によって、パウロやテモテは、自分のためにではなく、他の人たちのために愛に満ちた行いをしました。本冊子では、このような肯定的な種類の心配ごとを、「気にかける」という言葉を用いて表すことにします。

どのようなときに、心配し過ぎるのか。 気にかけてしかるべきことは色々ありますが、それが、気分を落ち込ませる重苦しい心配に変わるのは、以下のような場合です。

  • それが起こったら、と考え始めたら、止められなくて眠れない。

  • ゆっくりくつろぐことに罪責感を感じる。

  • いつも何かを怖れている。

  • ある特定の状況に置かれると、パニックになる。

  • あることに関して、自分がどのような感情を持っているのか考えたくない。

  • 他人のせいにする。

  • 災害に対する漠然とした恐怖感がいつもある。

一番心配なこと

自分は死にゆく者だと思うときほど我が身の無力さを感じるときはないでしょう。生命が燃え尽きるとき、死の向こう側には何があるのでしょう。聖書によれば、天国と地獄があるといいます。そして、地獄の存在は、確かに不安の種です。

「あなたは天国にいけると思いますか。」と尋ねたなら、ほとんどの人は、「そうあってほしいですね。」とか「自分はそれほど善人ではないかもしれない。」とか答えます。もしこの人たちが自分に正直に語るなら、地獄に落ちると考えただけで身震いする、と言うでしょう。しかし、私たちが天国を目指して歩んでいるかどうかを間違いなく知る道がある、と神は聖書を通して語っておられ、その理由も述べておられます。

第一に、私たちが天国に行く資格は、キリストによって与えられています。キリストは完全無欠な生涯を送られたのち、私たちの罪の代償を支払うために十字架にかかって死に、死からよみがえりました。こうして神は、キリストが私たちのために払った犠牲を受け入れた、と証明してくださいました。これは神の愛の奇跡です。私たちはこれ以上何をすることもできません。

第二に、天国への道は苦行や善行ではなく信仰です(エペソ2:8~9)。キリストの死をとおして赦しを差し出してくださった神の愛に応える行為は、主イエスを信じることです(使徒16:31)。救いは神の恩寵によって与えられる無償の賜物で、私たちの霊的渇望を満たしてくれます。

イエスを神と信じ、このお方は自分のために死んでくださったと認めるなら、間違いを犯したので天国にはもう行けない、と思い悩む必要はありません。私たちは、イエスがとりなしてくださるので、神に受け入れられています。神は、御子を無視するのでなければ私たちを無視することはできません。そして、そのようなことは決してなさいません。ですから、イエス・キリストを信じるなら、永遠をどこで過ごすのかという問題を心配する必要はまったくありません。

「ジョーニーの場合」

以下の話は、アメリカで放映されているRBCのテレビ番組「デイ・オブ・ディスカバリー」のために収録された、作家ジョーニー・ヨダーへのインタビューからの抜粋です。

私の心の中は心配ごとと不安だらけでしたが、自分ではそのことに気づいていませんでした。多くの人がするように、それを押し殺してきたからです。しかし、あることをきっかけにどん底に落ち、自分が感じている不安や恐怖感に向き合わざるを得なくなりました。キャサリン・マーシャルは、最大の発見とは自分の力だけではダメだと気づくことだと語りましたが、私はそれを体験しました。自分の内にたよれるものは何も残っていませんでした。肉体的にも精神的にも疲れ果てて、一歩たりとも前進できなくなりました。

私は、表の広い場所に出て行くことを極度に恐れる強迫神経症にかかりました。スーパー・マーケットへ行くことが、ひどく恐くなりました。スーパーにいると、自分ではどうすることもできないほどの強い恐怖感に圧倒され、冷や汗をびっしょりかく始末でした。私は、多くの人たちの前で発狂してしまうのではないか、さらには、死んでしまうのではないかと恐れました。買い物の途中、たまらなくなって、突然ショッピング・カートを店の隅に押しやると、夢中で家に逃げ帰ることもありました。そして、自宅に戻るとやっと安全だと感じました。

こんな状態は、誰にもわかってもらえないと思いました。食が細り、眠れなくなり、いつも怯えていました。私は、生活全般に関して不安を感じ、暮らしていく中で果たすべき責任は、それがどんなに小さいことでも恐れを感じていました。30代の前半にはもうくたくたで、何もできない状態でした。

振り返ってみると、 私の病気には3つの原因があったように思います。ひとつは、私は精神的に大変未熟で、責任をきっちり果たすことができませんでした。ふたつめは、卑屈になる傾向が強かったということです。しかし、自分ではこのことに気づいていませんでした。いつも自分の気持ちを正当化していたからです。最後に、これは多くの人に言えることですが、自分だけにたよるという行動パターンがありました。自分の力でどんなこともしようとしました。そして、そうできないことがあると、そんなことではいけない、と思ったのです。

こういうわけで、私はぼろぼろになっていきました。そして、自分の力にたよることはできなくなりました。しかし、これは私にとって必要なことでした。このように砕かれることは、すべての人に必要なことだと思います。砕かれると言っても、ノイローゼになったわけではありません。自分で何とかできるという人生観が砕かれたのです。

私自身や、私と同じように自分の力ではどうしようもない厳しい状況に置かれて、精神的に苦しんでいる人たちを観察した結果、ある共通する特徴が浮かび上がってきました。それは、その人たちが、自分と自分を取り巻く周囲の人や状況を、自分の思いどおりにコントロールすべきだと感じていることでした。その人たちは、(その事実を認めませんが)神さえもコントロールしなければならないと考えています。どうしてかと言えば、これから起こるかもしれないことを恐れているからです。物事をコントロールして、ある一定の方向に進んでいくようにすれば、自分の恐れを緩和できると思っているのです。

私の問題は、自分で自分を守ることができていない、もう少し言えば、私が恐れているものから自分を守ることができていないと感じていたことでした。そのため、私は自分の周りに「殻」を築き始めました。「殻」という言葉どおりの狭い空間、すなわち、自分が安全で守られていると感じる四方を壁に囲まれた自分の家の中で、私は、自分ひとりしか入れない小さな世界を作り、その中に住んでいたのです。

このような経験をしていたとき、私はすでにクリスチャンになっていました。神をはっきりと信じていましたが、私の生活の中には神が自由に働いていただく余地がありませんでした。私はとても不幸でした。「このためにこそ神が私を造ってくださった」、という私の人生の目的を見失っていました。

私は、どん底に落ちなければなりませんでした。キリストの力を知り、キリストによって変えられるためには、それまでの生き方に終止符を打つ必要がありました。神は私の人生に働きかけてくださり、ピリピ人への手紙1章6節でパウロが言っているように、私をいやしてくださいました。この聖書個所には、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1 : 6)と書かれていますが、この「良い働き」は、イエスを救い主として信じた瞬間から始まります。この過程は、6回とか6カ月とかの簡単な講習を受ければ終わるというものではありません。「キリスト・イエスの日が来るまで」続くプロセスです。

偏りのある生き方がバランスの取れた生き方へと変えられていきましたが、その過程のごく最初の方で、神は、私が自分で自分を訓練しなければならない4つのことを示してくださいました。それは、(1)聖書を読む、(2)神に祈る、(3)神を信頼する、そして(4)神に従う、ということでした。これらのことは、今でも私の人生にとても大きな影響を与え続けています。第一は、聖書を読むことです。ごちそうを食べるように神の真理を食べます。第二は、祈りです。おいしいごちそうを主といっしょに食べます。朝や夕に短い祈りのときを持つだけではなく、買い物をしているときや車を運転しているときなど、暮らしの中のひとコマひとコマで神と語り合います。第三は、信頼することです。自分の力ではどうにもできないことを抱え込むのではなく、あきらめるのでもなく、神が最善をなしてくださることを信じて、神にゆだねます。そして最後は、神に従うことです。神が望んでおられることは、私たちが自分でできることを自分勝手にするのではなく、神のみこころに従って実行することです。

これら4つは、すでに良く知られているものであり、目新しいことではありません。神を信頼することは、聖書に照らせば当たり前の真理ですが、自分自身の経験に照らせばあいまいな真理でした。神を信頼しているなら、頭で分かっていたり、他人に話したり、そうあるべきだと熱心に信じているだけではなく、実際、そのように行動しなくてはなりません。自分の力ではどうにもならず、無力感を感じるような状況は、私たちに祝福をもたらします。すでに信じていることを実行してみようと思うからです。

私は、これら4つのことを自分の日常生活に取り入れ、実行し始めました。すると、キリストとの親しい関係が強められ、このお方を本当に信頼する心が生まれました。 初めは、何でもない小さなできごとを通して、イエスがいてくださればそれで十分だ、ということがはっきりわかりました。 そして、キリストが私に代わっていろいろなことを成し遂げてくださるという経験を重ねるにつれて、キリストをますます信頼するようになりました。聖書を読み、祈り、主を信じて従っていくうちに、これらの4つのことがお互いに影響を与え合って働き出しました。私が自分のすべきことをするようになると、神はご自分にしかできないことをしてくださるようになりました。こうして、私の心から徐々に心配の種がなくなっていきました。神が成すべき仕事を私にお与えになったなら、たとえ私には荷が重すぎるように見えても、神が必ずそれを成し遂げてくださることがわかったからです。神は、殻を破って私を外の世界へ導き出してくださいました。近所の人たちで聖書を学ぶ会をリードするという機会を私に与えてくださり、自分だけの世界から引き出してくださいました。私は、その会に参加していた女性たちの心に効果的に働きかけることができたと思います。その理由は、彼女たちと同じぐらい、私もキリストを必要としているということが、みんなに伝わったからです。私は、その女性たちにプレッシャーを与える存在ではなく、彼女たちの信仰の成長を励ます存在でした。

その後、神は、私たち夫婦に海外で働く機会を与えてくださいました。ある日、ロンドンの地下鉄でひとりの薬物中毒者に出会い、彼を家に連れ帰って一緒に生活することになりました。この人や、その後に寝食を共にした人たちを通して、私はある真理に気づきました。私は、他の人たちがあまり苦労もせず当たり前のようにしていることをするために神の助けが必要だったのですが、実は、そのことを何となく申し訳ないと感じていました。ところが、薬物依存者たちとの関わりを通してわかったことは、彼らがその病気から立ち直ったり、私自身が立ち直ったりする上で必要なことは、自立することではない、ということでした。大切なことは、神にたよって生きるということです。

薬物中毒者たちとつき合うことによって、人は神にたよるように造られていることに気づきました。危機的な状況で有効な策は、その他のいかなるときにも有効です。私は、麻薬に依存している人に、大胆なショック療法を提供できる立場にあることに気づきました。彼らは、自分が依存しているものをすべて取り除くように、それまで教えられてきました。しかし、本当の答えは、薬物ではなく、神にたよることだったのです。さらには、自分ではなく神だけを、自分がたよるべき唯一のお方とすることです。私たち人間は、神だけにたよるように造られているからです。

今ここに、キリストが与えてくださる救いにあずかりたいと思う人々がいるとしましょう。そのような人々は、どのようにしてキリストに導かれたいと思うでしょう。弱いとはどういうことなのかを全く理解していないような、自分は強い人間だと思っている人たちの手で、キリストに導かれたいと思うでしょうか。それとも、弱さを克服して強く生きる秘訣を発見した人たちに、キリストへと導いてもらいたいでしょうか。

人々は、例外なく後者を選ぶと思います。神に仕えるためにいろいろなことをしているとか、自分が強い人間であるかのように見せることで、自分は立派なクリスチャンだ、と考える人がいるかもしれません。しかし、実はそうすることで、神が人々のために用意しておられた最後の望みを奪い取っているかもしれません。なぜなら、人々は私たちを見て、「あの人たちのしていることを見習うべきだ。」とは思いません。むしろ、「私は、とてもああいう風にはなれない。」と言うでしょう。しかし、もしそのような人々が、弱くても神から力を得て強く生きることを学び、今も依然として学び続けている人を目の当たりにするなら、その人たちの心は、希望で満たされ、こう言うでしょう。「ああ、すごい。あの人が強くなれたのなら、 私も強くなれるかもしれない。」

私は、自分のことを、ごく普通の人だと思っています。これは単に事実であるだけでなく、そうありたいという心からの願いでもあります。人は、一人ひとりユニークな存在として造られていますが、それを除けば、私はごく普通の人間です。キリストがおられなければ、まったく無益な人間です。実際、ある集会で、私のことをこのように紹介した人がいました。「皆様、ジョーニー・ヨダーさんを紹介させていただきます。キリストがおられなければ、まったく無益な人間だった方です。」そのように紹介されたら、ぎょっとした時期もあったでしょう。しかし神は、私を弱さの見本とされました。ですから私は、人の弱さに対して、また人の弱さを通して、神がなさることを、この世の中で生きている人々に話し、また証することができるのです。神が、私に対して、また私を通してそれをなしてくださったのなら、他の人たちにも同じことをなさらないはずがないではありませんか。

神を信頼して生きる、これが私の人生のテーマです。私の人生は、自分のうちには何もなかったが、神にたより切って生きることで必要なものをすべて得た女性の物語です。神にたよることは、みじめなことではありません。それは、神の意図された完全な計画です。被造物である人間は、創造主にたより切るとき、最高の状態に達します。私にとって、神にたよることは、かつては最後の最後になってすることでした。しかし今では、まず最初にしています。

霊的な成長が始まったころ、私はどん底の経験をしていました。つらいと感じていましたし、傍目にも明るい人だったとは言えません。しかし振り返ってみれば、このときが、私の生涯の中で最も霊的なときでした。今、同じところを通っている人たちにとって、私の告白が励ましとなれば感謝です。私たちは、他の人から「霊的な人だ。」と言われるためには、感情的に落ち込まず、常に成功者でなければならないと考えがちです。しかし、実際はそうではありません。霊的であるということは、自分には何もない、神がすべてだ、と悟ることです。