Month: 12月 2018

今、世界が必要としているもの

米国に「今、世界が必要としているものは愛。甘い愛。」と歌う往年のヒット曲があります。その歌は、「制覇する山も川もいらない。世界に必要なのは愛。特定な人だけではなく、みんなを愛する愛。」と訴えました。当時の若者たちは、この歌を大合唱しました。

多くの人は、このテーマに共感するでしょう。私たちは、クリスマスや大切な人の誕生日にプレゼントを贈り、台風や地震などの被災者に義援金を送ります。また、生活に困っている人に手を差し伸べるボランティア活動を尊いと思います。

さて、75歳のラッセル・プレイサンス氏は、地元の新聞に掲載されていた貧しい家族のことを読んで、ささやかな愛を贈りたいと考えました。そこで、食料品と子どものオモチャ、そして少しばかりのお金を持って、その家族を訪ねたそうです。

このプレイサンス氏の親切は、とんでもない事件を引き起こしました。何と、その家の主人が、数日後、プレイサンス氏にナイフを突き付け、財布と車を奪ったのです。

プレイサンス氏の例を挙げるまでもなく、私たちは愛の乏しい世の中に暮らしています。愛が愛を生むのなら、愛はみんなにゆきわたるでしょう。「最後に愛は勝つ」のが現実なら、もっとたくさんの人が、どんなに苦しくても愛を実践しようと思うでしょう。しかし、愛は必ず報われるわけではありません。また、自分が愛に報いようとするときでさえ、自分の都合のいいように愛を解釈しています。というのも、愛の意味は人によってまちまちで、例えば次のようなことを意味するからです。

  • 一時的な感情
  • 性的な関係を曖昧に言うこと
  • 人のために犠牲を払うこと
  • 批判せず受容すること
  • 気持ちを隠さずに率直であること

愛はキラキラと輝くもの。

愛は英語でLOVEですが、日常会話で以下のように使います。

“I love blue.”(青が好きです。)

“I love my children.”(自分の子どもたちを愛しています。)

“I love Hanshin Tigers.”(阪神タイガースの大ファンです。)

“I am in love.”(私は恋をしています。)

この例からお分かりのように、LOVE(好きだ。愛している。)とひとことに言っても、その意味はいろいろです。いくつものニュアンスを持っているので、たとえ、ふたりの人間が「愛」を誓いあったとしても、その誓いの中身である「愛」に対する認識が、完全にずれている危険性があります。同時に、「愛」は非常に抽象的で曖昧なものだから、そんなものよりもっと大切なことがあると考える人もいます。

しかし、聖書は「愛」の重要性を明言しています。使徒パウロは、怒り争っていた人々に、次のように書き送りました。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

この手紙は、献身や犠牲の大切さを知っている人たちに宛てて書かれたものです。コリントの教会の人たちは、信仰、知識、霊の賜物、強い指導力、そして熱いメッセージの重要性をよく心得ていました。

この人たちの問題は、今日の私たちの問題とよく似ています。つまり、自分の関心事だけに一生懸命になってしまい、信仰と霊的な知識が本来目指すべきゴールを見失ってしまったことです。人は神のみこころから離れて聖霊の賜物を探求したり、聖書を学んだりすることもあるのに、彼らはうっかりしていました。自らが満たされることを求めるあまり、一番大切なものを忘れかけていたのです。

本当の愛のしるしーその二

本当の愛は「自慢しません。」

愛は自分の業績を自慢しません。自分の成功をひけらかしません。言葉巧みに自己宣伝をしようとはしません。

この考え方は、旧約聖書の中にあります。ソロモン王は、次のように語りました。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(箴言27:2)簡単に言えば、本当の愛は、自分にスポットライトを当てないということです。

この愛の特性は、ねたんだり嫉妬したりしないことの裏返しです。嫉妬は、人が持っているものを欲しがります。自画自賛は、自分の持っているものをひけらかして相手の嫉妬を誘います。嫉妬は相手を引き落とし、自画自賛は自分を引き上げます。

本当の愛は、他人の成功を心から喜ぶだけでなく、自分に成功が与えられたときに、それをどう取り扱うかよくわきまえています。私が聞いたところによれば、逆境を乗り切れる100人のうち、成功しても自分を制することができる人は10人ほどだそうです。

この論理は、激しい競争社会で生きている人たちに疑問を抱かせます。自己啓発の本によれば、他人を追い抜くためには成功した人のような立振舞いを身につけ、自分の能力が目立つようにうまく自己宣伝しなければならないと言われています。

「本当の愛は自慢しない」という原則は、クリスチャンにとって何を意味するのでしょう。求職中のクリスチャンが、履歴書に自分の長所を列挙し、パリッとしたスーツを着て面接に臨み、将来有望だと思ってもらえるよう努力するのは誤りなのでしょうか。

米国メジャーリーグのフロリダ・マーリンズが、ワールドシリーズ初出場を決めたとき、 マスコミは、ジム・リーランド監督を賞賛しました。しかし、リーグ初優勝を称えられたリーランド監督はこう答えました。「勝ったのは、私ではありません。私は1球も投げなかったし、ホームランも打ちませんでした。ファインプレーをしたわけでもありません。優勝したのは選手たちです。私ではありません。」なんという謙虚な態度でしょう。見ている人たちにとって、謙虚な勝利は、潔い敗北と同様、気持ちのよいものです。

本当の愛は「高慢になりません。」

ここで使われている単語は、「ふいごのように自分を膨らませる」という意味です。パウロは、本当の愛とは正反対の特質を「高慢」という言葉で記述し、愛のないコリントのクリスチャンたちに「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(Iコリント4:6)と書き送っています。この部分では、コリントのクリスチャンは自信過剰で、他の人たちの痛みを感じようとしないことが言及されています。また、人の援助を謙虚に受けようとしない高慢さは、援助すべき人がいるという事実から目をそむけさせることも示しています。

近代の福音宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケリーは、謙った愛のすばらしい実例です。彼は優れた言語学者で、34にも達する言語や方言の聖書翻訳に尽力しました。しかし、彼は自分の出発点が身分の低い家庭であったことを心に留めていました。彼は、イギリスの庶民の家に生まれ、若い頃は靴修理の仕事をしていました。福音宣教を志してインドに渡ったとき、彼の身分の低さと前職は人々の嘲笑の的でした。ある晩餐会に招かれたとき、出席者のひとりが彼の身分に賓客の注意を引こうとして、「ケリーさん。あなたは昔、靴職人だったそうですが。」と質問しました。すると、ケリーはこう答えました。「いいえ閣下。靴職人ではありません。ただの靴の修理屋です。」

自分を過大評価している高慢な人は、自分の気持ちや自分の意見、自分の幸福や自分が得をすることばかりを気にかけます。高慢な人は、人の気持ちや人の必要を平気で無視します。

新約聖書は、本当の愛は自分の必要を無視する、とは教えていません。ただ、自分の利益が他人の利益以上に大切ではないことを忘れないようにと教えます。私たちの優先順位が自分や自分の家庭である場合が多いのは仕方のないことですが、自分たち以外の人の利益やその人たちの家庭についても心を配るべきです。

自分だけが大切だという感覚になっているかどうかを知るために、最初に目をつけるべきものは祈りです。あなたは、自分の生活や自分の仕事の祝福だけを祈っていますか。自分の配偶者や子どものために祈っていますか。また、他の人のためにも祈っていますか。自分や自分の家族が健康で豊かな生活をすることが、隣人の生活以上に大切だとは言い切れません。本当の愛は、そんな高慢を許しません。

本当の愛は「礼儀に反することをしません。」

この聖書個所は、「不作法をしない」(口語訳)「礼を失せず」(新共同訳)と訳されています。この単語が登場する新約聖書の個所は他には1ヶ所だけで、コリント人への手紙第一7章36節(口語訳・新共同訳)です。ここは未婚の男女の関係について書かれているところですが、パウロは神に献身することが一番大事だと強調しながらも、もし男女が性的欲望にかられたなら、「ふさわしくないふるまい」(新共同訳)をせず結婚すべきだと言っています。7章の「ふさわしくないふるまい」と13章の「本当の愛」は、どのように関係しているのでしょうか。

本当の愛の特性は、 相手に対して不当な要求をしないことです。交際相手に「愛しているなら、証明して欲しい」などとは言いません。本当に愛しているなら、その人に嘘をつかせたり、その人のものを奪ったりしたいとは思わないはずです。

「礼を失わない」ということは、兄弟愛を口実に、相手の良心や信条に反することをさせたり、神が定められた道徳に反することをさせたりしないことです。どれほどの不当な要求が、愛という名のもとに、夫や妻、子どもたち、若者、教会員になされてきたか、神はご存知です。最も悪質な性的虐待、ぞっとする隠蔽行為や秘密主義が、家庭や仲良しグループ、様々な組織や団体の中で、愛の名のもとに行われたのです。

パウロは、本当の愛は間違ったことをやらせようと圧力をかけたりはしないと語ります。 本当の愛は、相手の最善を考えます。自分の利益や快楽を求めたり、相手を操ったり支配することは望みません。

どこに愛を見つけることができますか?

もしあなたが、「どこに本当の愛を見つけることができますか。」と心から尋ねているのなら、良い知らせがあります。あなたは、すでに愛されています。聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

信じる人たちに対して、キリストは神の愛の広さを述べられました。弟子たちに、次のように言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)

人を愛することにはリスクが伴いますが、このように愛されているなら自分の立場は安全だと信じて、リスクを顧みることなく愛することができます。

あなたは、自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。このお方と知り合い、このお方の愛を受け入れるために、第一歩を踏み出しましたか。キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。聖書は、あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、と語ります。このことを信じますか。

ここが出発点です。自分の罪を自覚し、キリストが自分の人生にとって必要不可欠だということを理解しましょう。キリストは失われた人を捜して救うために、この世に来られました(ルカ19:10)。このキリストに、神の愛を見出します。そして、このキリストに、パウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。キリストは、単に高い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるのではありません。むしろ、私たちの人生の中にご自身を現わそうと、私たちを招いておられるのです。

決して絶えることのない愛

結婚式をあげる若いカップルは、永遠の愛にあこがれます。しかし、パウロがコリント人への手紙第一13章で述べている愛なくして、このような愛は存在しません。パウロは、これらの思いを8節の「愛は決して絶えることがありません」という一節で強調し、愛についての議論を終わらせています。

本当の愛は逆境に強く、生き残ります。なぜなら、その源は神であり、そのいのちも神にあるからです。本当の愛は、どんなことにも耐えるのです。

パウロは、他のもの(預言、異言、知識)は一時的で不完全なので頼りにならないと明言しています。しかし、愛は違います。神の力と恵みによって、どんな状況をも生きのびるのです。本当の愛は、裏切り、疑惑、道徳的失敗、そして失望をも乗り切ります。敵対する人たちや侮辱、嫉妬を乗り越えることもできます。逮捕や拉致、監禁されても滅ぼされません。

その人が間違った選択をしたために以前のように付合えなくなった人がいたとします。しかし、神の愛は、相手の人のために祈り、何かできることがあったなら、私たちがその人のために働くよう導いてくださいます。

その愛は、キリストの心を反映する愛です。そして、人生にすばらしい転換がもたらされます。それこそが、本当の愛です。

本当の愛のしるしーその五

本当の愛は「すべてを信じます。」

この説明から受ける第一印象は、愛する人は単純でだまされやすいというものです。しかし、パウロの考えは違います。また、疑わしい言動をいつも好意的に理解してあげなさいというわけでもありません。愛情深い教師やコーチ、カウンセラーや友人は、真相を突き止めるためにむしろ疑い深くなるべきです。

パウロは、愛しているなら相手の言うことを盲目的に信じなさい、とは言っていません。そうではなく、信じることと愛することには喜ばしい基本的な関係があると言っているのです。本当の愛は、神を信じることからエネルギーを得ています。コリント人への手紙第一13章は、この真理を教えてくれます。神が語られるすべて、つまり、神、そして、私自身や私と他者について神がお語りになる「すべて」を信じる、という信仰の上に、本当の愛が育まれていくのです。

もし、神の愛を疑うことがあるならば、私たちはお互いに愛し合う動機を失います。もし、神が寛容で親切であることを疑うならば、お互いに寛容であり親切であることは難しいでしょう。もし、神が生活の必要を満たしてくださることを疑うならば、人に気前良くしようとは思わないでしょう。

キリストのように愛することを理解するために、「愛はすべてを信じる」という真理は、大切です。本当の愛は、信仰の上に立脚し、そこに根を下ろしています。信仰は聖書に記された神のみことばに立脚し、そこに根を下ろしているのです。

神への信仰がなければ、愛はあきらめて死んでしまいます。神が語られた「すべて」を信じつづけないかぎり、私たちの愛は、人生における侮辱や拒絶、そして失望を生き抜くことができません。神のみことばの上に私たちの愛の基礎を据えないかぎり、愛は敗北してしまいます。神を信頼してこそ、愛は強くありつづけるのです。

本当の愛は「すべてを期待します。」

これは前文から自然につづくものです。神のみことばと神の御計画を信頼して生きるなら、当然、すべてを期待することができます。神の恵みを信頼するとは、人間が失敗しても、それで終わりではないと信じることです。本当の愛が「期待する」理由は、神が人の人生に働きかけられるからです。

パウロは、無分別に何でも信じなさいとは言っていませんが、聖書の神を信じる人たちだけが、愛することと期待することの健全な土台を持っていると言っています。

詩篇の作者は、「私の望み、それはあなたです。」(詩篇39:7)と神に語りました。パウロは、「希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:5)と言っています。また、ペテロは、次のように記しています。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(Iペテロ1:3)

これが愛の力です。愛のエネルギー源は、移ろいやすい感情や時々の状況ではなく、神に対する深い信頼と大きな希望にあります。本当の愛は「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)によって、いつも新しくされながら、人生を前向きに生きています。

本当の愛は「すべてを耐え忍びます。」

本当の愛が、正しいことを信じ、正しい希望を持つという前提で、パウロは「愛はすべてを耐え忍ぶ」と言っています。愛についての話を締めくくるために、「耐え忍ぶ」という単語が選ばれましたが、これは13章4節の「寛容」と同じ意味を持っています。

本当の愛を説明するために、パウロはこのふたつの単語の違いを上手に用いています。

4節の「寛容」は長く耐えるという意味で、自分を迫害する人さえ恨まずに耐え忍ぶということが焦点になっています。一方、「すべてを耐え忍ぶ」というときに強調していることは、人生のいろいろな状況に対してどう応答すべきかという点です。愛はあきらめません。途中で投げ出したり、逃げ出したりしません。「すべてを耐え忍び」、最後まで我慢します。

決して忘れることのできない光景があります。それは、1984年のロサンゼルス・オリンピックの女子マラソンを走ったスイス人選手の光景です。他の選手たちがゴールに入り、かなり長い時間が経過してから、この選手は競技場によろめきながら入って来ました。立っているのがやっとという状態で、歩いたり走ったりすることなど不可能のように見えました。しかし、ゴールするにはトラックを一周しなければなりません。私は、限界に達し、今にも倒れそうなこの選手の姿を見つめていた自分を思い出します。同時に、そこにいた観客が総立ちで、何としても完走するようにと、彼女を応援したことも覚えています。最後の直線コースにさしかかったとき、彼女のコーチがすぐ横を歩きだしました。失格にならないように、彼女にさわらないように注意深く歩きました。ついに、ゴールラインを越えると、彼女はコーチの腕の中にくずれ落ちました。ほとんど無意識の状態でした。

何という素晴らしい忍耐の姿でしょう。こういう忍耐こそ、コリント人への手紙第一13章が語る愛のしるしです。本当の愛は、耐え忍びます。苦しみに遭ってもあきらめず、耐え忍びます。ゴールすることには大きな価値があると知っているからです。

本当の愛のしるしーその四

本当の愛は「不正を喜びません。」

愛は、自分の主張を押し通そうとイラついたりしません。また、不親切をせず、ねたまず、見栄を張ったり自己宣伝したりせず、礼を失せず、利己的でなく、遺恨を持ち続けず、短気を起こしません。

愛は不正を喜ばないとは、前述のまとめです。パウロは、「神が悪いことだと言われることは愛ではない」と述べているので、他の人が道徳的に失敗したことを密かに喜ぶのは、愛ではありません。暴かれるべき悪を隠すことが愛ではありません。他人の失敗を井戸端会議のネタにするのは愛ではありません。自分は情報通だと吹聴したり、単調な会話を弾ませたりするために他人の恥を話題にすることは愛ではありません。誰かが罪を犯したという話は、関係者のきまり悪さや苦しみをあおらないように、人々の益になるような形でしか語られるべきではありません。

アイルランドの作家オスカー・ワイルドは、冗談半分にこう言いました。「私は、信条より人間が好きです。そして、信条を持たない人が、世の中で一番好きです。」このような言葉を聞くと、私たちはニヤッとします。それは、道徳的な信条よりも罪のほうが愉快だからです。パウロが記述している愛は崇高に聞こえますが、短期的に見るなら、苦痛に思えます。しかし、本当の愛は、長期的な視点に立って、罪の害を心配します。罪の報いの苦悶を思うなら、悪を歓んでいるわけにはいきません。

本当の愛は、浮かれて蒔いた悪の種が、良心の呵責に苛まれる深刻な結果を生むということを知っています。罪は、私たちから機会や利益を奪ってしまいますが、 事の発端は軽率さや愚かさです。「みんなもやっている。」と言って蒔いた種は、いつの日か、別離や孤独という果実になることを、本当の愛は知っています。罪をそのままにすれば、大切な時間が失われるだけでなく、たましいが永遠に滅びてしまう可能性さえあります。

本当の愛は不正を喜びません。それは、今だけでなく将来をも心配しているからです。悪は無邪気ないたずらではありません。本当の愛は、そのことを知っています。

本当の愛は「真理を喜びます。」

パウロは「愛は不正を喜びません。」と言いました。では何を喜ぶのでしょう。その答えは真理です。では、なぜ「正しさ」ではなく「真理」なのでしょう。パウロが「真理」という言葉を選んだ理由は、正しさと真理の本質的な関係にあると思われます。

パウロは、テサロニケ人への手紙第二の中で、「真理を信じないで、悪を喜」ぶ者は裁かれる(IIテサロニケ2:12)と述べていますが、この言葉は、「愛は真理を喜びます。」の意味を解き明かす手がかりになります。すなわち、パウロは、あることを信じることとある行動をすることの間には、深い関係があると指摘しています。つまり、何を信じるかが、私たちの行動を決定します。同時に、やりたいと思うことが、信じたいと思うことを決定するのです。

聖書が正しい信仰を強調しているのは、このためです。良い教理とは、神について、私たち自身について、他者についての正しい教えのことです。正しい教えは、自分を欺いて人と係わるのではなく、真理の中でお互いを愛するように導いてくれます。

すべての悪は、真理を否定します。間違った行為の根は、現実に対する誤信です。すべての不道徳は、自己欺瞞に起因しています。自己欺瞞とは、次のことです。それは「自分のことは神以上に私自身がよく知っている。周りの人のためにどうすればよいかについても、神以上に知っている」と言うことです。

結婚前の交際相手と性的な関係を持とうとするのは、本当の愛ではなく不誠実です。真理についての嘘を信じることで、人は殺人や強盗を犯し、人を欺し、嫉妬し、噂話をします。結婚していない大人の男女が合意の上で性的関係を持ったとしても、誰にも迷惑をかけていないというのは、自己欺瞞です。

パウロが愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます。」と語ったのは、もっともなことです。不正の反対は、単なる正義ではありません。正しくないことの反対は真理です。人と良い関係を築くことを可能にしてくれるものは、人の欠点をあげつらうことではなく、真理を信じることです。それは神について、人について、そして自分自身についての真理です。真理に背を向ければ、私たちは自滅します。勇気を出して正しく、忍耐強く、誠実に生きるなら、私たちは、自分よりうまくやっている人たちのことをも喜ぶことができます。それが、本当の愛です。

本当の愛について説明するために、パウロは、真理と正義という基礎を据えました。いよいよ、仕上げにかかります。

本当の愛は「すべてを我慢します。」

ギリシャ語で「我慢する」という言葉は「屋根」を意味します。愛は、屋根が嵐から家を守るように、愛するものを守ります。周りの状況がどうであれ、相手の益のために我慢して働き続けます。失敗の雨も逆境の風も、失望の嵐も我慢します。愛は極寒の冬や酷暑の夏を避ける屋根です。最悪の状況に耐え得る避け所です。

人は不完全な世界に生きていますから、辛く厳しい現実に直面します。そんなことがないように私たちを守ることは、誰にもできません。また、間違った選択をすれば、その先には良くない結末が待っています。その現実から私たちを救うことは愛にもできません。しかし、愛は傷つき疲れはてた人を思いやり、助けてくれる友だちを与えます。愛は、悔い改めの心を持たない人にさえ、とりなしの祈りをする人を与えてくれます。愛は、どんな悪い人にさえ、悔い改めるチャンスを与えるのです。

ここで間違ってはならないことは、「すべてを我慢します」という意味が、雑巾が汚いものを拭うように自分に向けられたすべての罪を我慢することではないということです。その意味は、愛は相手の最善を願うことを止めず、相手から赦しのチャンスを取り上げないということです。愛があるなら、相手を憎んだり、軽蔑したり、否定したりしません。愛は思いやり深く祈りつづけ、相手の失敗を忍耐し、はっきり物を言うべき時は言い、悔い改めれば赦してあげます。このようにして、相手を思いやるのです。この愛を、屋根のイメージで説明する限界が、ここにあります。つまり、この愛は、消極的な愛ではないからです。この愛は、積極的な愛です。相手の出方によってリードしたり応答したりと適切に変化する活力に満ちています。愛の本質は変わりません。しかし、相手にとってすべてが益となるために、愛の戦略は常に変化しています。

厄介払いの良き日

年の初めに一風変わったイベントをする人たちがいます。「厄介払いの良き日」と呼ばれ、2006年に始まりました。それは、ある南米の伝統に由来します。各人が、旧年中の悪い出来事や嫌だったこと、恥かしい思い出などを紙に書き、その紙を業務用シュレッダーにかけます。または大槌で打ち叩く人もいます。