私の心には複雑な感情が渦巻いていました。以前、親しい人の行為に深く傷つき、それを当人に伝えたことで、絶交という結果になった辛い経験があります。相手がはぐらかしたからです。彼女が地元に戻ってきていることを今日聞いて、過去がよみがえり、心が乱れました。

ざわつく気持ちを何とかしようと、ラジオをつけると歌が流れてきました。その歌詞は、裏切られた痛みだけでなく、相手の心が健全にされることを真摯(しんし)に願うものでした。私の気持ちを代弁するかのようなバラードに涙がこぼれました。

使徒パウロが「愛には偽りがあってはなりません」(ロマ12:9)と記したのですから、人が「愛」と呼ぶものが、常に純粋ではないと分かります。しかし、人は真の愛を求めます。自分のために小細工で相手を操作するような代物ではなく、慈しみ深く、自分をささげるような愛です。自分に対する自信の無さを隠すために優しさで相手を手玉に取るのではなく、お互いが心身共に健全であるように感化し合う、それが愛です(10-13節)。

それは福音であり、良き知らせです。イエスのおかげで、私たちはついに信頼できる愛を知り、愛し合えるようになったのです。その愛は人に害を及ぼしません(13:10)。神の愛に生きるとは、解放されるということです。