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三章:訓練

MP3音声メッセージ

自己管理さえすればデボーションができるわけではありません。人間関係はコミュニケーションを重ねることで形成されます。その際、一方通行ではなく、相互に聴き、相互に語ることが大切です。

神が語られる。その昔、神は民に直接、話をされました。第一サムエル記3章21節は、「主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現された」と語ります。「現された」と訳されたへブル語の単語の意味は、「おおいを取り除ける」とか「啓示する」です。創造主が、ご自身の考えや品性、また意志をしもべに開示されたのです。一方、今日では、神のコミュニケーションはおもに聖書を通して行われます。私たちが聖書を読むときに、聖霊が私たちの心を教え導いてくださいます。

神のみことばの自習を実のあるものにするためには、聖霊の助けを得つつ、次のようなプロセスを踏んでいくとよいでしょう。

まず、その文字通りの意味を把握します。みことばを、その文脈の中でとらえます。聖書のみことばが、その時代とその文化の中で何と述べているかを把握します。

次に、その意味することは何だろうと考えます。意味は、文脈中の人々に限られたことではありません。聖書のみことばには核となる霊的な真理があり、それは時代を超えます。そのみことばが今日の私たちに何を語っているかを考えましょう。

最後に、それに自分をどう適応させるかと考えます。聖書の中に見つけた原理原則に沿って神に自分を変えていただこうと決心するなら、聖霊は、私たちの考え方や会話の内容、人や物事に対する姿勢や態度などを変えてくださいます。「どう適応させるか」とは、すなわち、「このみことばを学んだ結果、自分はどう変わるべきだと思うのか」という質問なのです。*

*昔、レクティオ・ディヴィナ(ラテン語で『神聖な読書』という意味)と呼ばれた演習は、聖書を読み理解する一助であったかもしれません。レクティオ・ディヴィナは、聖書をゆっくりと熟考しながら祈るもので、聖書のページを通して神の声を聞こうとするものでした。

私たちは神に応答する。あなたは、思いの丈を打ち明ける手紙を書いたことがありますか。もし、そういう手紙を送った相手から返事が来て、中を開けてみると、自分の書いたことにはまったくふれず、その人が願っていることや心配していることばかりが書かれていたら、どんな気持ちになるでしょう。

聖書は天の父からの愛の手紙です。聖書は、天の父の愛がどれほど深いかを示す物語です。それなのに、私たちは聖書を読んだ後に祈る場合でも、自分のことばかりを伝えようとします。神の手紙に応答するのではなく、自分の差し迫った必要に集中してしまいます。

私たちは、どんな心配ごとでも、神に祈ることができます。しかし、忘れないでください。あなたは今、神のみことばを読んで、神が何に心を寄せておられるかを知ったのです。読んだことについて、何と思うか、神に応えましょう。神の約束に感謝しましょう。神の教えを喜びましょう。聖霊に指摘されたことを悔い改めましょう。神の品性を発見して、大いに喜びましょう。キリストのように作りかえられることを切に願って行動する中で、その日のみことばの意味がよくわかるように、また深く理解できるように祈りましょう。

ダニエル書6章10節は、ダニエルがいつも「日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」と述べています。彼は大変な状況に置かれていましたが、自分の願いを神に申し上げると、彼の祈りのときは感謝で満ち溢れました。私たちの祈りも同じように、神の品性や神のみわざを思って感謝に満ち溢れているべきです。

ノートをつける。デボーションのときに気づいたことをノートに記していくと、自分の傾向が分かります。ノートをつけていたからこそ気づいた信仰の前進もあります。以下のような、簡単なもので十分です。

ノートをつけると、学んだことが思い出しやすくなりますし、生き生きとしてきます。こうして学んだことから一日中、影響を受けつづけることができます。

イエスは完全なお方だったのに、常に神と共におられようとなさいました。つまり、地上の生活を、すべての人間がそうあるべき姿で送られました。イエスは、天の父に頼りきって生きられたのです。イエスの人生は、天の父に従いきった人生でした。私たちは、前述のイエスの「静思の時」から洞察を得ることができます。また、神とともに過ごした時間のインパクトを一日中失わない方法も、イエスから学ぶことができます。