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四章:報酬

MP3音声メッセージ

デボーションをしたのに、一日がうまくいかなかったと感じたことはありますか。聖書を読んで祈った時間と労力は、自分の問題に何の役割も果たさなかった。デボーションはデボーション、現実の出来事は現実の出来事...。もしそうなら、それは区画化です。すなわち、霊的な生活と普段の生活を住み分けているのです。しかし、それは神のみこころではありません。神は、私たちと共に歩んで、生きることに格闘している私たちを助けたいと願っておられます。*

*強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)

ルカの福音書24章13節から32節には、エマオに向かっていたふたりの弟子にイエスが現れてくださったときのことが記されています。ここには、神と一日中会話することに関連する洞察が示されています。

「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:13-16)

この日、エルサレムからエマオに向かっていたふたりについては、ほとんど何も分かっていません。しかし聖書は、彼らの心は葛藤していたと示しています。彼らは落胆し、失望していました。そして、「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いて」いかれました(15節)。よみがえられたイエスが、旅の道連れになってくださいました。何と素晴らしいことでしょう。イエスは、私たちともいっしょに歩んでくださいます。人生は旅路です。そしてイエスは、私たちの旅の道連れになって、山あり谷ありの道をいっしょに歩んでくださいます。たまに休憩所で会話するだけでなく、それ以上のことを求めておられます。

でこぼこを知る。人生のチャレンジのひとつは、挫折や矛盾と向き合うことです。私たちの思いが乱れるのは、私たちの視野に限りがあるからです。私たちは一部分しか見ることができません。エマオに向かっていたふたりの弟子の問題は、まさにそうでした。色々なことが起こっただけではなく、それらのことは、彼らが予測していたことの真逆でした。イエスはふたりの葛藤をご覧になり、声をかけられました。

「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。『エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。』イエスが、『どんな事ですか。』と聞かれると、ふたりは答えた。『ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。』」(ルカ24:17-24)

イエスの質問に答えて、ふたりはなぜそんなに思い乱れているのかを説明しました。彼らの話を要約すると、「ナザレ人イエスはイスラエルをあがなうメシヤだと期待していたのに、彼は十字架につけられてしまい、自分たちを含む多くの人の希望が失せてしまった。その上、イエスの墓は今は空だという。また、仲間の何人かは天使を見たと言っている」というものです。

このふたりは、ほんの数日前には期待で胸を膨らませて、イエスとともに歩んでいたのです。それなのに、すべての夢が断たれてしまいました。彼らは世界、特に最近の出来事を、鍵穴を通して見ていたのです。人間は限界のある生き物で、どんな状況であっても、その一部分しか見ることができません。*

*神は無限なので私たちには十分に理解できませんが、そのことが神を求める妨げになってはなりません。私たちが神のすべてを分かることは決して無いでしょう。しかし、それでも神を知ることはできます。神は私たちとの深い関わりを望んでおられます。

このふたりは、自分が知っていると思っていたことに実体験が一致しないので、葛藤していました。私たちも同じような体験をします。

私たちの限りある力では全体像を見渡せないので、私たちの信じていることと、つじつまの合わないように見えることが起こるかもしれません。自分が期待したように祈りが応えられなかったり、不幸としか言えないようなことが起こったりしても、自分の理解力には限界がある、ということを忘れてはいけません。

イエスは私たちに、心配ごとを話して欲しいと思っておられます。私たちの話(些細なことでも、大きなことでも)にいつでも耳を傾けてくださいます。イエスとその信徒には特別な絆があるので、どんな状況にいたとしても、祈り心で思いの丈を打ち明けることができます。

イエスに説明してもらおう。このふたりの望みは、完全に断たれたように見えましたから、さぞかし絶望していたことでしょう。しかし、イエスが彼らの体験を聖書に照らされると、新しいことが見えてきました。

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:25-27)

「ああ愚かな人たち」などというのは、ずいぶん失礼に聞こえますが、原語のギリシャ語を直訳すると「知識の無い人たち」となります。*このふたりは物語の全容を知らなかったのです。

*この25節で「愚か」と翻訳されている単語は、ガラテヤ人への手紙3章1節と3節で、使徒パウロが用いている単語と同じです。パウロは、ガラテヤ人の愚かさは知識と行動の両面だと述べます。つまり、「愚か」とは、無知というだけではなく、知っているのにそれに基づいて行動しないことだと語ります。

イエスはふたの問題を解決する唯一のもの、すなわち追加の情報を提供されました。偉大な教師であるイエスは聖書のみことばから、ここ数日の出来事は驚くに値しないことを教えてくださいました。救い主キリストは、栄光を受ける前に苦しまなければならないとの啓示を表されました。

私たちがここで学ぶべきことは、自分にも失望し、苦悩するときもあるかもしれない。しかしそれは、自分には広い視野で見るための知識がないからだ、ということです。主はみこころのときに、すべてを明らかにしてくださいますが、それは、キリストの再臨のときかもしれません。状況にかかわらず、教えやすい柔軟な生徒であること、また、教師であるキリストから毎日教えを請うことによって、私たちの信仰や知性は育っていきます。

神の御業を待つ。よみがえられたキリストと有意義な交わりをするならば、このお方ともっといっしょにいたいと思います。このふたりもそうでした。目的地に着いた後も、イエスと離れたくないと強く思いました。

「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」(ルカ24:28-29)

彼らは歩きながらイエスに教えてもらいました。しかし、もっと聞きたいと思って、「いっしょにお泊りください」と無理に願いました。

イエスは彼らと夕食をともにされました。そして、神の臨在が、超自然的な御業を可能にしました。日常的な普通のことにイエスを招き入れると、どんなところにでも、神の御業を成す道が開かれます。*

*神は、私たちの日常の生活に関心を寄せておられます。このことは、イエスが弟子たちに教えてくださった祈りから明らかです。祈りを教えてくださいと弟子たちに言われて、イエスは天の御国についてだけではなく、日々の食べ物や人を赦すことなど、日常の生活に関わることも祈るように教えられました。(マタイ6:8-15、ルカ11:1-4)

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」(ルカ24:30-32)

イエスは食卓に着き、パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されました。そこで、彼ら の目が開かれて、イエスだと分かりました。それまでは、「目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」のです(16節)。しかし、今や誰であるか分かりました。

急にイエスだと分かり、そしてすぐに姿が見えなくなったので、ふたりはびっくりしたかもしれません。しかし、彼らはイエスとともに歩き、聖書を教えていただいたときのことを思い出しました。神の洞察力と神の権威をもって、聖書が解き明かされたとき、ふたりの心は燃えていました。

「彼らの目が開かれ」(31節)の「開く」と、「聖書を説明してくださった」(32節)の「説明する」には同じギリシャ語の単語が用いられています。イエスは聖書の真理を彼らの前に「開いて」くださったのです。

聖書の中にキリストを見て、自分自身の体験の中にもキリストを見るという体験は、「静思の時」という限定された時間にだけでなく、一日を通して起こるべきことです。

 

人間関係を育てるのは容易ではありません。努力、自己管理、コミュニケーション、忍耐、信頼、時間など、大変さが伴います。神との関係を育てることも同じです。この冊子は、読者を励ますために書かれました。頑張って、計画を立てて、神といっしょに前進しようとする方の助けとなれば幸いです。聖書を読み、祈る時間を作りましょう。このようにして、神とともに過ごす時間を作りましょう。神と話し合ったことを生活のすべての分野に取り入れましょう。神の御声に耳を澄ましましょう。そして、神とたびたび話し合いましょう。そうするなら、あなたの信仰は成長し深くなります。きっと、努力した甲斐は十分にあったと思えることでしょう。