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序、一章:問題

MP3音声メッセージ

「祈りの生活は充実している?」と、父は息子に尋ねました。彼は、教会学校にも礼拝にも参加している14歳の賢い男子です。ところが、彼は肩をすくめて「そんなに祈ってはいないよ」と答えました。父は心配して「どうして?」と尋ねました。すると息子は、「今、困っていることは、あまりないんだ」と答えました。

このティーンエイジャーの正直な応答は、実は、多くの大人が認めたくない事実ではないでしょうか。多くの大人のクリスチャンも、困ったことがなければ祈りません。

神と一緒に過ごす時間を取れないというのは、多くの人に共通の悩みです。「デイリーブレッド」の寄稿者デニス・フィッシャーはこの冊子の中で、聖書を読み、祈り、人に仕えようと努力する人たちのために、現実的な手助けを提供してくれます。

 

  • 一章:問題

神は、男と女を創られた後、そよ風の吹く園の中を歩き回られたと、聖書は語ります(創世記3:8)。宇宙の創造者は、御簾(みす)の内や天使の護衛の元に身を隠したりはなさらず、むしろ、人と交流することを願われました。そよ風の吹く園でアダムとエバとの交わりを楽しまれた神が、今日、私たちとも交わろうと言われます。デボーションとは、そういうことです。私たちは、神の臨在や神の安心を体験し、神からアドバイスをいただくことができます。

私たちは有意義な「静思の時(デボーション)」をしたいと願いながらも、それは難しいと感じています。そして、すべきことをしていないと罪意識を感じているかもしれません。しかし、霊性は一週間に何回デボーションしたかで決まる、と考えるのは間違いです。デボーションは、予定をこなしたか否かでなく、心の問題です。

*「静思の時」は 、神と会話するために取る特別な時のことです。通常は毎日決まった時間にします。そして、祈り、聖書の黙読、瞑想などをしますが、そのことを「デボーション」といいます。

 

大学二回生の頃、私は自己管理ができませんでした。あれやこれやに時間を取られて、課題を期限までに提出できないし、試験勉強に集中することもできません。時間のやりくりがつかず、できないまま放っておくこともありました。ついには、きちんとできないだけでなく、どうすればよいのか、予定を立てることさえできなくなっていきました。

ある日、思い切って教授に相談しました。すると、その日の優先順位を決めなさいと言われました。私は、彼の言葉に沿って考える中で、最優先は神と過ごす時間だと思いました。何はともあれ、毎日、このことだけはやっておきたいと思いました。それならば、一日の始めにやろう。そうすれば、このことだけは必ずできるだろうと思いました。

しかし次の日の朝、前日の勢いはありませんでした。「静思の時」は、大きな努力の割に報いが小さいように思われました。要するに、やる気が起きなかったのです。

私は 、神に告白しました 。「僕の心は冷たくて、神さまといっしょに過ごす気分になれません。」そして、そんな自分を赦してくださっていることを感謝しました。私は、自分のやる気になれないその気分を神に取ってもらおうと決めました。そして、無気力でぐずぐずした自分を明け渡しますから、その代わりに神の活力をくださいと祈りました。私は、もう一度、その日の聖書個所を読みました。そして、「私を内側から変えてください。また、今日の勉強について、ベストを尽くすことができるように助けてください」と祈りました。

その朝、教室に向かう足取りは軽やかでした。授業にも集中でき、何よりも、以前はできなかった「自分を律する」ということができました。その学期は、成績も上がりました。神との約束の時間を守れるようにと祈りつづけると、神は祈りに応えてくださり、必要な力が与えられました。

預言者イザヤは、主を待ち望む者は新しく力を得ると語りましたが(イザヤ40:31)、この約束は、古代イスラエル人だけでなく、今日の私たちに対する約束でもあります。ここで「新しく」と訳されているヘブル語の単語は、「取り換える」とか「新鮮さを示す」とか「芽を出す」という意味です。「待ち望む」という姿勢は、受け身ではありません。人間の努力を神の力に取り換えるという、積極的な姿勢です。自分の知らない深い所に宿っている、意思や決意を固くする力を見つけて汲み出さなければならない、というのではありません。むしろ、神のエネルギーを求めなくてはなりません。私を強くしてくださいと求めるのです。

私たちの模範

神と過ごす時間について考えるとき、イエスを模範にするなら最高です。イエスは地上の生活の中で、ご自分に宿る神の力を用いることを抑制されました。イエスは完全に神なのに、天におられる父と、ご自分の内に住まれ、ご自分を通して働かれる聖霊とに依存されました。この依存は、イエスが天の父とふたりで過ごす時間をどれほど大切になさっていたかを見れば明らかです。福音書は、イエスが追いかける群衆から離れて寂しい場所に行き、天の父と交わっておられたことを記しています。*

*イエスが静かな場所に退いて祈られたことを記す聖書個所: マタイ26:36以降, マルコ1:35、6:46、14:32-39、ルカ5:16、6:12、9:18、11:1、22:41以降、ヨハネ18:1

マルコの福音書1章32節から39節は、そのような個所のひとつです。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。ここをよく見て分かることは、主イエスにとってデボーションは、大きなインパクトを与える大切なものだったということです。前日の夜、イエスは多くの病人や悪霊につかれた人を癒されました。そして朝が来ると、積極的に出て行き、神と交わる時間を取られました。きっとこの時間に霊性を整えられたのでしょう。

私たちの妨げと神の導き

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」(マルコ1:36-38)

ここで「見つける」と訳されている単語は、「追跡して捕まえる」という意味です。シモン(ペテロ)と仲間は、「今日の予定はこうです」と言わんばかりに、「みんなが捜しています」と伝えました。彼らはイエスのデボーションのじゃまをしたのに、何とも思わなかったのでしょうか。

イエスは冷たいと思われても平気でした。真のデボーションによって、周りの人に対して鈍感になるでしょうか。いいえ、むしろ逆です。神と時間を過ごすことによって、イエスはより大きなミッションに向かおうとされ、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われました。目の前にいる人の必要だけに振り回されていては、世の人の救いという神のみこころをないがしろにしてしまいます。イエスの決心は神の御前に静まる時を通して固められていきました。

イエスが神と過ごす時間は、充実した交わりのときでした。イエスはそこで、ご自分の使命を果たす力と方向性を手にされました。もし、自分のデボーションからイエスと同じような結果を得ようと願うなら、イエスの模範に従い、聖霊に助けていただいて、神のみことばに自分を適応させなければなりません。自分のすべてを変えるために、聖書のみことばに感化されなくてはなりません。*

*祈りを通して決心が固まっていった一例は、十字架にかかられる前夜のゲツセマネの園での祈りです。イエスは「わが父よ。どうし ても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」と祈られました(マタイ26:42)。

もし、神とふたりで過ごす時間を、一日一回の霊的オアシス、もしくは、霊的日課だと考えるなら、信仰生活とその他の生活を分離させるという罠に陥ってしまうでしょう。このような間違いを犯してはいけません。神と過ごす時間は、私たちの命綱です。エデンの園の昔から今に至るまで、神はご自分の民の人生の同伴者でありたいと願っておられます。