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本当の愛のしるしーその二

本当の愛は「自慢しません。」

愛は自分の業績を自慢しません。自分の成功をひけらかしません。言葉巧みに自己宣伝をしようとはしません。

この考え方は、旧約聖書の中にあります。ソロモン王は、次のように語りました。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(箴言27:2)簡単に言えば、本当の愛は、自分にスポットライトを当てないということです。

この愛の特性は、ねたんだり嫉妬したりしないことの裏返しです。嫉妬は、人が持っているものを欲しがります。自画自賛は、自分の持っているものをひけらかして相手の嫉妬を誘います。嫉妬は相手を引き落とし、自画自賛は自分を引き上げます。

本当の愛は、他人の成功を心から喜ぶだけでなく、自分に成功が与えられたときに、それをどう取り扱うかよくわきまえています。私が聞いたところによれば、逆境を乗り切れる100人のうち、成功しても自分を制することができる人は10人ほどだそうです。

この論理は、激しい競争社会で生きている人たちに疑問を抱かせます。自己啓発の本によれば、他人を追い抜くためには成功した人のような立振舞いを身につけ、自分の能力が目立つようにうまく自己宣伝しなければならないと言われています。

「本当の愛は自慢しない」という原則は、クリスチャンにとって何を意味するのでしょう。求職中のクリスチャンが、履歴書に自分の長所を列挙し、パリッとしたスーツを着て面接に臨み、将来有望だと思ってもらえるよう努力するのは誤りなのでしょうか。

米国メジャーリーグのフロリダ・マーリンズが、ワールドシリーズ初出場を決めたとき、 マスコミは、ジム・リーランド監督を賞賛しました。しかし、リーグ初優勝を称えられたリーランド監督はこう答えました。「勝ったのは、私ではありません。私は1球も投げなかったし、ホームランも打ちませんでした。ファインプレーをしたわけでもありません。優勝したのは選手たちです。私ではありません。」なんという謙虚な態度でしょう。見ている人たちにとって、謙虚な勝利は、潔い敗北と同様、気持ちのよいものです。

本当の愛は「高慢になりません。」

ここで使われている単語は、「ふいごのように自分を膨らませる」という意味です。パウロは、本当の愛とは正反対の特質を「高慢」という言葉で記述し、愛のないコリントのクリスチャンたちに「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(Iコリント4:6)と書き送っています。この部分では、コリントのクリスチャンは自信過剰で、他の人たちの痛みを感じようとしないことが言及されています。また、人の援助を謙虚に受けようとしない高慢さは、援助すべき人がいるという事実から目をそむけさせることも示しています。

近代の福音宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケリーは、謙った愛のすばらしい実例です。彼は優れた言語学者で、34にも達する言語や方言の聖書翻訳に尽力しました。しかし、彼は自分の出発点が身分の低い家庭であったことを心に留めていました。彼は、イギリスの庶民の家に生まれ、若い頃は靴修理の仕事をしていました。福音宣教を志してインドに渡ったとき、彼の身分の低さと前職は人々の嘲笑の的でした。ある晩餐会に招かれたとき、出席者のひとりが彼の身分に賓客の注意を引こうとして、「ケリーさん。あなたは昔、靴職人だったそうですが。」と質問しました。すると、ケリーはこう答えました。「いいえ閣下。靴職人ではありません。ただの靴の修理屋です。」

自分を過大評価している高慢な人は、自分の気持ちや自分の意見、自分の幸福や自分が得をすることばかりを気にかけます。高慢な人は、人の気持ちや人の必要を平気で無視します。

新約聖書は、本当の愛は自分の必要を無視する、とは教えていません。ただ、自分の利益が他人の利益以上に大切ではないことを忘れないようにと教えます。私たちの優先順位が自分や自分の家庭である場合が多いのは仕方のないことですが、自分たち以外の人の利益やその人たちの家庭についても心を配るべきです。

自分だけが大切だという感覚になっているかどうかを知るために、最初に目をつけるべきものは祈りです。あなたは、自分の生活や自分の仕事の祝福だけを祈っていますか。自分の配偶者や子どものために祈っていますか。また、他の人のためにも祈っていますか。自分や自分の家族が健康で豊かな生活をすることが、隣人の生活以上に大切だとは言い切れません。本当の愛は、そんな高慢を許しません。

本当の愛は「礼儀に反することをしません。」

この聖書個所は、「不作法をしない」(口語訳)「礼を失せず」(新共同訳)と訳されています。この単語が登場する新約聖書の個所は他には1ヶ所だけで、コリント人への手紙第一7章36節(口語訳・新共同訳)です。ここは未婚の男女の関係について書かれているところですが、パウロは神に献身することが一番大事だと強調しながらも、もし男女が性的欲望にかられたなら、「ふさわしくないふるまい」(新共同訳)をせず結婚すべきだと言っています。7章の「ふさわしくないふるまい」と13章の「本当の愛」は、どのように関係しているのでしょうか。

本当の愛の特性は、 相手に対して不当な要求をしないことです。交際相手に「愛しているなら、証明して欲しい」などとは言いません。本当に愛しているなら、その人に嘘をつかせたり、その人のものを奪ったりしたいとは思わないはずです。

「礼を失わない」ということは、兄弟愛を口実に、相手の良心や信条に反することをさせたり、神が定められた道徳に反することをさせたりしないことです。どれほどの不当な要求が、愛という名のもとに、夫や妻、子どもたち、若者、教会員になされてきたか、神はご存知です。最も悪質な性的虐待、ぞっとする隠蔽行為や秘密主義が、家庭や仲良しグループ、様々な組織や団体の中で、愛の名のもとに行われたのです。

パウロは、本当の愛は間違ったことをやらせようと圧力をかけたりはしないと語ります。 本当の愛は、相手の最善を考えます。自分の利益や快楽を求めたり、相手を操ったり支配することは望みません。