アガボがアンテオケの教会で、エルサレムにききんが起こることを預言した時、この生まれたばかりの教会はすぐに援助を募り、ささげられたものをエルサレムに送りました(使徒11:27-30)。後になってパウロは、エルサレム教会の必要を助けるために多くの異邦人教会から献金を募りました(Ⅱコリント8-9章)。困っている人たちにささげるというのは、キリスト教の重要な教えです(申命記15:7-11、マタイ5:42、19:21、ルカ12:33、ガラテヤ2:10、Ⅰテモテ6:18、ヘブル13:16)。
神の民にとって今は、苦しんでいる人々を助けるために持っているものの中からささげる時です。私たちは「信仰の家族の人たち」、私たちの霊的家族に特別な責任を持っているとパウロは教えています(ガラテヤ6:10)。ですから私たちの最初の責任は、キリストにある兄弟姉妹たちに対するものです。しかし私たちのささげるという行いは、それを超えてさらに困っている他の人たちへと向けられなければなりません。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという命令は、新約聖書の中に7回繰り返されています(マタイ19:19、22:39、マルコ12:31、ルカ10:27、ローマ13:9、ガラテヤ5:14、ヤコブ2:8)。
多額のお金と大量の物資が国外から送られて来ているため、それに比べると自分のささげものはあまりにも小さく、ささげる必要がないのではないかと考えるかもしれません。しかし覚えておかなければならないのは、ささげものの価値はその金額の大小で決まるのではないということです。イエスはやもめのささげたレプタ銅貨のことを話し、教えました。やもめは神殿での献金にわずかのお金しかささげることができませんでしたが、イエスはそれを見て、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」と言われました(マルコ12:43)。
クリスチャン指導者は会衆に対して、たとえわずかのささげものであっても、それを通して神が働かれる時に大きな力を持つことを教え、ささげることを励ます必要があります。私たちは人々に、どのように、どこで、いつささげることができるかを明らかにしておく必要があります。パウロがコリントの人々にエルサレムへの献金を励ましていた時、第二の手紙の中で彼は多くのスペースを使ってその説明をし、この働きに加わるようアピールしています(Ⅱコリント8-9章)。彼はこの献金がどのようにささげられるべきか、またささげられたものがどのように扱われるかについても明らかにしています(Ⅰコリント16:1-4)。