慰めの時

パウロは神についてこう描写しています。「慰めの…神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(Ⅱコリント1:3-4)。多くの人々が精神的な傷を受け、悲しみ、話しを聞いてくれる人を必要としている中、神から慰めを受けた私たちが人々に癒しをもたらすためにできることが多くあります。

惨事によって感情的、精神的な傷を受けた人々を助けることの重要性は、今日では社会的にも認知されてきたのでしょう。今もプロのカウンセラーたちが被災地域に次々と入っています。専門家の働きが必要とされている一方、その専門家たちは、被害を受けた人たちの知人である普通の人たちとの交流が大きな力を持っていることも指摘します。この人たちこそ、長期にわたってごく自然な方法で彼らの世話をすることができる人たちです。

今最も求められていることは、被災した人たちをできる限り災害以前の状態に近い「普通の」生活に戻してあげることです。専門家ができる重要な仕事のひとつは、人々を家族、友人、仲間、近所の人たちとの「普通の」人間関係に戻すことです。彼らはこのような人間関係の中に力を見出すからです。

精神的な傷を受けた人々を助けるために私たちができることは、ただ一緒にいて、彼らの話を聞いてあげることかもしれません。しかし、彼らが早く普通の生活に戻れるようになるためには、時には彼らに話して聞かせる必要もあります。

専門家の間では、カウンセリングの現場で普通に用いられている手法をそのまま、ひどい精神的外傷を負った人に対して行ってはいけない、ということが知られています。例えばカウンセリングでは、傷付いている人に、その痛みや原因について話してもらうのが普通のやり方です。ところが精神的外傷のケースでは、その人の心の整理がつくまではこれをしてはいけません。それには長い時間が必要なこともあります。精神的外傷を引き起こしたトラウマのことを、あまり時間が経っていない時に話すと、自分ではコントロールできない感情の乱れを引き起こすことがあります。

ひどい恐怖やうつ症状、引きこもり、沈黙、ショック状態、悪夢を見たり泣き出したりすることは、私たちが経験した津波のような悲劇に対する自然な反応です。ほとんどの場合、このような症状は時間とともに消えていきます。ですから私たちは、このような人たちのことをすぐに決め付けずに、理解するように心がけましょう。これはキリストも模範を示されていることです。イエスは天を離れ、私たちの所に来て、私たちのことを私たち以上に理解してくださった方です。

私の友人であるアルル・アンケテル医師は、何人かの人たちとフルタイムで医療活動をしています。彼は津波の後の難民キャンプで、ある老人を診ていました。この人にはひどい心臓発作の症状が見られたのです。アルルはもうひとりの医師を呼んで検査をしましたが、その原因は心臓発作とは全く違うものでした。この男性は津波で何人もの家族を失っていました。アルルたちはこの男性と話しをして、彼のために祈りました。するとどうでしょう。彼は症状が治まっただけでなく、この医師たちが祈った神についてもっと知りたいと強い関心を持ったのです。

津波の後、今でも水に触れるのを怖がっている子供がいます。ある学校を訪ねた時、先生は私に、すぐにでも学校を再開したいと言いました。しかし、学校の場所が海に近く、親たちは授業をしている間の短い時間であっても子供たちから離れたくないと、子供を学校に送り出すのを反対しているそうです。このような状況に対処するには、現状をよく理解することと知恵が必要です。

今は救援スタッフたちも慰めを必要としています。彼らも働きの中で、感情的に非常につらい経験をしているからです。津波による壊滅的な被害を受けた場所に最初に行った時、私は大きな衝撃を受けて泣きたくなりました。仲間のひとりが津波の直後に同じような場所に行きましたが、そこで彼は多くの遺体と信じられないような惨状を目の当たりにしました。彼はこらえ切れなくなって車に戻り、ひとり車の中で泣きました。

悲惨な状況に身を置くことは、私たちの心と感情に深い影響を及ぼします。ケアを与える側の必要にも配慮しなければなりません。彼らには心の痛みを他の人と分かち合い、クリスチャンたちによる慰めと、神からの慰めが得られる機会を持つ必要があります。

傷付いた人々に対してクリスチャンが働きかける時、覚えておかなければならない大切な真理があると思います。それは、人となった神は、悲劇に巻き込まれた人たちが苦しむのと同じ多くの苦しみを経験された、ということです。イエスは生まれてすぐに悲惨な死からかろうじて逃げ延び、家族は母国から逃れて異国の地で難民生活を強いられました。助けようとして来たその人々から拒絶され、父親は早くに死んだと思われます。少なくとも4人の弟と、何人かの妹たちを養わねばならず(マルコ6:3)、正規の教育を受けることができませんでした。宗教的権力者たちがイエスを無学と見なしていたのはこのためです(ヨハネ7:15)。これは家族が悲劇に見舞われた時に、多くの子供たちが負うハンディキャップです。イエスはさばかれ、不当な判決を下され、犯罪人として、人間が生み出した最も残酷な方法で処刑されるという痛みを知りました。

私がまだ10才くらいだった時、とても恥ずかしい経験をしました。どうしていいか分からない中、心の中に最初に思い浮かんだのが「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」というみことばでした。ずっと後になって、このみことばを私が知っていたということに衝撃を受けました。なぜなら、これは受肉した神であるイエスご自身のみことばであるからです(マタイ27:46)。イエスは私たちが経験するのと同じ痛みを経験されました。この方こそ、苦しむ人々がともに痛みを分かち合うことのできる神です。

人間の最大のニーズは、この「あらゆる慰めの神」と個人的な関係を持つことです。救援活動の忙しさの中にあっても、人々は神の救いを受ける必要がある、という観点を失ってはなりません。同時に、神は決して人をあやつるようにしてご自分のメッセージを受け入れさせはしないことも覚えておく必要があります。神は救いの方法に関して、人と論じ合う方です(イザヤ1:18)。人々が、単にクリスチャンから援助を受けたからといってキリストを受け入れる、というようなことがないよう注意しなければなりません。神はイエスを通して自分の最も深い必要に答えを与えてくださった、ということを心と知性において信じ、それゆえにキリストを受け入れるべきだからです。

災害は私たちにとって、クリスチャンとしての信仰を働かせる特別な機会となります。災害が起こる時、クリスチャンは自らに問う必要があります。「今この時、私は何を考えるべきだろうか。この危機に、私はクリスチャンとしてどう応答すべきだろうか。」

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