第二テモテ2章で、パウロはテモテに苦しんで懸命に働くよう励まし、5節では「規定に従って競技をする」運動選手のようでありなさいと教えています。私たちが一生懸命走っている時は、つまずいたり倒れたりしやすいものです。残念ながら、救援活動で一生懸命働いている人たちの中にも、絶対に従わなければならない基本的な規定に従っていない人が多くいます。私たちは救援活動に関わる上で、聖書的原則と、クリスチャン奉仕者としての基本的原則に従っていることを再確認する必要があります。
例えば、私たちが置かれているような緊急の状況では、ひとりで神と過ごす時間をとったり、妻や夫、そして子供と一緒にいる時間をとったりするのは難しいかもしれません。しかし、それが長く続くことがあってはなりません。
もし私たちが神と過ごす時間を長くとらないでいると、霊的な健康が損なわれます。もし私たちが妻や夫、家族と一緒にいる時間を長くとらないでいると、健全な家族の関係が損なわれます。もし私たちが睡眠時間を削って休みなしに働き続けるなら、肉体と精神に深刻な影響が出て、体が弱まり、言動もおかしくなってしまうでしょう。
緊急事態の直後というのは、休むことなく自分の限界まで無理をすることが要求されるかもしれません。しかしすぐに、たとえ忙しさの中にあっても、休息とデボーションの時間を確保できるようにする必要があります。一週間に一日は休みを取るという、安息日の原則を守ることもそのひとつでしょう。これは苦しみの中にある人々の世話をしている、すべての人に当てはまります。例えば、病気を患っている人をつきっきりで世話している人は、時間をとって休み、主とともに過ごす時間を確保しなければなりません。もしそうしなければ、すぐにイライラするようになったり、世話をする行い自体がおろそかになったりするでしょう。
休みと霊的養いなしに働き続けるなら、喜びがなくなり、イライラし始め、ついにはうつになってしまうこともあります。W.T.パーカイザーは著書『The New Testament Image Of The Ministry』(Grand Rapids: Baker, 1974, p.133)の中で、カウンセリングをしている人のことばを引用しています。「これまで見てきたうつ病のケースは、すべて疲労が原因で始まったものです。」御霊に満たされたクリスチャンに見られる特性のひとつは、喜びです(ガラテヤ5:22)。クリスチャンが喜びを失う時、その人はクリスチャンらしく振る舞うことを止めてしまいます。この喜びが私たちに力を与えてくれるからです(ネヘミヤ8:10)。喜びがあれば、困難な状況の中でも、心血を注いで神に仕えていくことができます。時には私たちも、起こった出来事の悲しみから泣くこともあるでしょう。しかし心の深い所で、私たちはこの喜びを主にあって持っています。それは、たとえ悲しみのただ中にあっても、私たちを愛し、私たちが深く愛している主との交わりを喜んでいるからです。
救援活動の歴史の中で残念なことのひとつは、救援スタッフたちの中に性的な罪やその他の罪に陥ってしまう人たちが多くいることです。家族のひとりが救援スタッフとして働く結果、深刻なダメージを受けた家庭が多くあります。多くのスタッフが精根尽き果て、二度と活動に戻ることができなくなってしまいました。
これとよく似た例は、重病の子供を抱えた家族に見ることができます。この長くつらい状況の果てに、離婚してしまう夫婦があります。ふたりはこの子供の世話をするという重労働にあまりにも一生懸命であったため、自分たちの結婚関係をおろそかにしてしまったのです。彼らは子供の病気のために一緒に懸命に働いたのですが、やがて子供が亡くなった時、ふたりはお互い非常に遠い存在になってしまっていることに気づきました。
緊急の状況においてこそ、「自分自身に…よく気をつけなさい」(Ⅰテモテ4:16)という警告に目を留めましょう。私たちは疲れてしまうと、不注意になりがちです。そのような時、ついつい気が緩んでしまうことがあります。だから私たちは、疲れている時こそ、個人的な生活の面で特に注意深くあるべきです。
私たちは、仕事をする態度についても注意する必要があります。もし私たちが神に喜ばれないようなやり方で働くなら、終わりの日のさばきの時に、その働きは神によって価値がないと見なされ焼き滅ぼされてしまうと、パウロは警告しています(Ⅰコリント3:12-15)。私たちが注意すべき仕事上の間違いには、次のようなものがあります。