まず神を求める
中西部のある大学からSNS経由で夫にアプローチがありました。夫は応募書類を送信し、「みこころでなければ、神様が道を閉ざしてくださるよ」と言いました。
「そうとは限らない」と私は答えました。「聖書の教えに従って進むべき方向を祈りながらしっかり考えることが神に求められている場合もあると思う」
私たちはまず別々に祈り、その後二人でメリット・デメリットを話し合いました。そして、1ヵ月も経たないうちに引っ越しました。愛着ある地を遠く離れる意味が、当時は理解できませんでしたが、主のみこころに従っているという確信はありました。
当初はよく分からなかったけれど、神の望まれる所に至る決断だったと後から分かる。長い人生には、そのような経験があるでしょう。しかし、自分の力だったと思ってはいけません。
私たちは信仰を試す試練にあう、とヤコブの手紙は語ります(1:2-3)。そして、試練の中で神を仰ぎ、知恵を求め、忍耐が養われ、正しい決断をする成熟した人になる道を提示します(4節)。知恵が足りなければ、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい」(5節)。求める姿勢も大事です。祈るとき、「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」(5-6節)。「疑う」とは、神の誠実さと善意を疑うことです。神に頼り切れず、自分で何とかできないものかと思い悩むのです。
内容の大小にかかわらず、常に神を念頭に置いて決断することが、賢明で成熟したキリスト者への道です。聖霊に勇気を頂き、大胆に神の導きに従うなら、神は、みことばの教えに沿った方法で、ご自分の完全なご計画とタイミングに合わせて、全てを整えてくださいます。
神のみこころが分からないと感じることがあります。どうすれば神に喜ばれる賢明な決断ができるのでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 時間を最大限に活かす
8日 神の定めた時
15日 いのちを選ぶ
22日 賢い選択
輝く道しるべ
十代の頃、クライドは憧れの存在でした。大学バスケットボールチームのスター選手だったからではありません。キリストの愛と生き方をはっきりと示す彼の言動や人との接し方を見て、自分もそうなりたいと思いました。クライドは私の道しるべでした。
クライドのことを思い出すと、イエスを信じる信仰が成熟するとはどういうことかが分かります。ペテロは第二の手紙の中で、信仰の成熟について分かりやすく述べています。
1.信仰の土台はイエスだ
成熟した信仰の持ち主は、神を第一とする生き方の鍵は、神の「御力」と「約束」だと理解しています(Ⅱペテロ1:3-4)。闇夜で神の光を輝かせるには、御霊が必要です(ピリピ2:15-16、ヨハネ3:6、Ⅱコリント5:21、Ⅰペテロ1:22-23も参照)。御霊の助けによって、主の御業を心から感謝し、イエスに倣って謙虚に歩めるようになります。
2.信仰は生き方に現れる
イエスが信仰を育ててくださるなら、私たちの生き方全て、その言動や態度にその信仰が現れるようになります(Ⅱペテロ1:5-9)。神と神の道をますます信頼し(5節)、キリストの品性を養い、辛抱強く試練と向き合うようになります(6節)。神につき従い、神と人を愛し(7節)、相手を尊重しながら信仰を分かち合います。
私たちの霊性が養われていくにつれて、クライドがそうだったように、私たちも良い感化を及ぼしていけるでしょう。神が私たちの霊性を成熟させてくださるにつれて、私たちはイエスの光を輝かせていきます。キリストに似た者となることです。このお方こそ、私たちの真の道しるべです。
信仰が成長し、キリスト者として成熟していくとは? 霊の成熟とはどのようなものか、実生活にどのように現れるのかについて考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 神の武具
8日 イエスのために走る
15日 信仰の鍛錬
22日 内面から変えられる
イエスは必ず戻ってこられる
イエスは、ご自身の再臨を、弟子たちの安心の源として語られました。十字架の前夜、過越の祭りを祝ったばかりの二階の大広間で、こう言われました。 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:1-3)
キリストのきっぱりとした口調に注目しましょう。「また来て」と言って必ず戻ることを約束し、ご自分が去ると伝えられて動揺する弟子たちを慰められました。主は必ず再びやって来て、主を信じる人々を御父のもとへ連れていってくださるのです。不安や恐れと毎日闘っているなら、天の父の家にいつか帰って永遠を過ごせるという望みは心の支えとなるでしょう。みことばは、その未来の家を「神の幕屋」と呼びます。「神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:3-4)
イエスの再臨によって、私たちは神の完全なご臨在を体験します。その日には、全ての悪は正され、痛み苦しみは取り去られます。罪のもたらす諸悪にピリオドが打たれ、傷つき悲しむ全ての人は慰めを得ます。
聖書によれば、この世は目を見張るような輝かしい結末に向かって進んでいます。終末をどう捉えるべきか、またそれが今の生活をどう変えるべきかを考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 信じたことに目を向ける
8日 一つになる
15日 墓なんてない
22日 王の王の再来
誠実な生き方
美術品や骨董(こっとう)品は本物か否かを判別するために真贋(しんがん)鑑定をします。人も、周囲から「本物」すなわち誠実な人と認められたいと願います。キリスト者は、自分の不完全さを見せてはいけないと感じることがあります。しかし、誠実に生きるにはまず自分が赦(ゆる)されるべき存在だと認めなくてはなりません。私たちの欠けが、神の驚くべき恵みを世に示すからです。
誠実に生きるために何ができるでしょう。
神に目を開いていただく。詩篇の作者と共に祈りましょう。「神よ 私を探り 私の心を知ってください。……私のうちに 傷ついた道があるかないかを見て……導いてください」(詩篇139:23-24)
悔い改めの必要性を謙虚に認める。パリサイ人と取税人のたとえで、前者は自分の正しさを並べ立て、後者は「神様、罪人の私をあわれんでください」と告白しました(ルカ18:13)。イエスは、神の前に義と認められて帰ったのは取税人だと言われました。
神の恵みを喜ぶ。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と神は言われました。自分の弱さと罪を認めるなら、神の赦しを求め、聖霊によってキリストに似た者へと変えられていくスタート地点に立てます。
正直さを大切にする。自分をよく見せたり、空気を読んで周りに同調したりする誘惑に抵抗しましょう。空気を読むプレッシャーを感じたとしても、話すときは、他の誰でもない、「私たちの心をお調べになる神に喜んでいただ」くために発言するという覚悟を持ちましょう(Ⅰテサロニケ2:4)。
イエスにあって偽りなく生きると、見下されたり恥をかかされたりするリスクがあります。しかし、主に助けていただくなら、「本物」の信仰とはいかなるものかを周囲に示し、主に栄光を帰せるでしょう。
悩みも挫折もある生身の人間として正直に生きるにはどうすればよいのでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスに献身した形跡
8日 清めをもたらす告白
15日 罪悪感と解放
22日 神の皿
豊かな恵みを届ける道
昔、教職者と信徒リーダーのための研修会に出席した時のことです。多くのキリスト者が神から頂いた賜物をいかして仕える姿に感心しました。主催者の牧師の賜物は教えることだったので、大勢の参加者にたましいの糧を届けていました。それ以外にもたくさんの人がスキルや能力を駆使し、おもてなし、賛美、祈り、運営等、参加者のために最善を尽くしていました。子どもからシニア世代の人たちまで、皆が協力し、目立つ目立たないにかかわらず、必要に応じて積極的に動いていました。自らを惜しみなく差し出す姿勢から、神の恵みとあわれみがあふれ、参加者も奉仕者も共に恵まれたのです。
霊の賜物は、神の恵みを運ぶ経路と考えてはいかがでしょう。「神の様々な恵み」をご自身のからだと世の中に届けるために、神は私たちの賜物を用いられます。「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ4:10)
新約聖書には、他にも霊の賜物について語る箇所(ローマ12:3-8、Ⅰコリント12:27-31参照)がありますが、ペテロの手紙第一4章10-11節は、簡潔明快、基本の「き」です。神が賜物の送り主で、みこころのままに賜物をお与えになります。そして、賜物を授かった私たちキリストのからだは、恵みの配達人となるのです。
神の恵みは豊かで奥深く、多彩です。ですから、恵みを届ける方法や賜物もバラエティに富んでいます。それは、私たち一人一人が信仰者として成熟するのを助けるためです。各々、与えられた賜物を用いて、神を尊び、互いに仕え合うことができますように。
イエスを信じる一人一人が聖霊の働きによって霊の賜物を授かっています。しかし、キリスト者が教会の壁を越えて互いのために賜物を用いるとは、何を意味するのでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 神の意向によって仕える
8日 イエスに仕える
15日 真摯に祈る
22日 良い行いの器
キリストのとっておき
「 聖い」という言葉は、何かと誤解されがちです。「聖人君子」という言葉には、お堅い、上から目線、といった意味合いが含まれています。そんな中、キリスト者は聖さを正しく理解する必要があります。
旧約聖書と新約聖書で「聖」を表す単語は、ヘブル語では「コデシュ」、ギリシャ語では「ハギオス」です。「神の御用のために取っておかれる」ことを示唆します。つまり、汚れのなさと有用性を表します。これらは、神ご自身とその目的にささげて生きた結果、もたらされます。
では、実際に「取っておかれた」人とはどういう人でしょう。その答えは、ローマ人への手紙12章1-2節に記されています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」
キリストの名によって生きるよう召された信者の人生がどれほど独自性に富んだものかお分かりでしょうか。パウロによるなら、神に喜ばれる、聖なる、生きたささげ物、この世と調子を合わせない、心を新たにする、神のみこころを見分ける、といった特徴のある生き方です。
人間の能力や知恵では到底成し得ません。(律法を厳格に守ったと言われる1世紀のパリサイ人にすら、無理でした)。しかし、御霊を通して神に働いていただくなら、私たちを贖(あがな)ってくださった聖なる方と息を合わせ、「神の御用のために取っておかれた」人として生きることができるのです。
神のために取っておかれるとは?今月は、神が聖であるように聖であるとはどういうことかを考えます。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 聖なる者へ
8日 偶像
15日 愛の心
22日 礼拝の家
目に見えない戦い
みことばは、キリスト者には目に見えない霊の戦いがあると教えます。そして、その戦いに勝つための戦法も教えてくれます。
神を信頼する。自分の罪深さを認め、神が無償で下さる救いを受け取るなら、私たちはキリストの義をまとって神の前に立てます(Ⅱコリント5:21)。
神に従い、悪魔に立ち向かう。私たちには敵を抑える力がキリストによって与られていますが(Ⅰヨハネ4:4)、神に従い、悪魔に抵抗することで初めて、その権威を行使できます。
サタンの策略を察知する。「サタンの策略を知らない」(Ⅱコリント2:11)と、丸め込まれて操られてしまいます。
神の武具を身につける。完全装備したローマ兵のように、霊の戦いに備える必要があります(エペソ6:11-18)。
真理の帯:私たちの第一の防衛線は、真実であることです。真理を曲げてはなりません。正義の胸当て:罪があると、悪魔の攻撃を受けやすくなります。キリストの義をいただいているのですから(Ⅱコリント5:21)、キリストの「義と聖」(Ⅰコリント1:30)を日常生活の中で実践しましょう。私たちの人生全般について神が語られることを信じるなら、信仰の盾が、誘惑の「火矢」を消してくれます(エペソ6:16)。私たちが疑い絶望するようにと敵は攻撃を仕掛けますが、救いのかぶと、すなわち「救いの望み」(Ⅰテサロニケ5:8)が守ってくれます。御霊の剣: 聖書は、悪魔に対する最強武器です(マタイ4:1-11)。
祈る。祈りは神への依存の表明です(エペソ6:18)。キリストの力、御霊の武具によって、私たちは勝利することができます。
私たちが戦う本当の相手は、人や組織といった目に見えるものではなく、目に見えない闇の支配と力です。キリストのために生きる毎日、どのように臨戦態勢を整えられるか考えましょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスの権威
8日 開かれた目
15日 うそと真理
22日 信仰の切れ味
コミュニティづくり
人とかかわる中で、互いに相手を尊重し、思いやり、赦(ゆる)し合うことを神は私たちに望まれます(エペソ4:32、5:21、Ⅰペテロ5:5)。「私」一人でキリストのからだは構成されていません。「互いに」からだの一部です。
共に仕える
「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」(ヘブル10:24)
お互いのために、知らない人のために、何ができるか神に尋ねましょう。提供できるのは、食事、手紙、贈り物、それとも時間でしょうか。弱者がニーズに気付いてもらえたと感じられる場所を作るために、神に託されたものを用いましょう。他者と協力して、みこころを実現しましょう。
共に祈る
「互いの重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)
誰かと祈るとき、自分の具体的な必要についても祈りましょう。心からの祈りは、お互いをよりよく知るきっかけになります。また、祈った人も祈りを聞いた人も共に神を信頼し、御手の働きを見る機会となります。
共に分かち合う
「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」(ヘブル3:13)
他言や否定を恐れず心の内を正直に話せる安全な環境作りに積極的に協力しましょう。互いの成長に貢献できるよう、自分の体験を話し、みことばによって支え合いましょう(Ⅰテサロニケ5:11)。世代を超えた分かち合いは、幅広い経験から深い洞察をもたらします。
共にくつろぐ
「不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい」(Ⅰペテロ4:9)
カフェ、映画、ボードゲーム、気軽な会話など、気兼ねなく楽しく過ごせる場所を提供できるように知恵を絞りましょう。
「互いに」愛し合うという教えを実践するために、あなたがコミュニティの人々と共に意識してできることは何でしょう。
近所付き合いや教会の交わりが大切なことは誰もが認めることでしょう。しかし、成熟したコミュニティとは具体的にどういうものでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスのもとに共に集まる
8日 町に喜びを
15日 永遠の家で
22日 キリストの共同体
誰かのために
先日、ある会社役員と数日間行動を共にしました。彼は何十億ドルもの資金を運用していますが、利益追求や他社の買収よりも、社会に益をもたらす行為や投資にやりがいを感じると言います。高等技術を指導する学校を開発途上国に設立する、企業の労働環境向上を後押しする、忖度(そんたく)や派閥争いでよどんだ重役会議を自身の影響力をもって前進させるなど、次々とアイデアが浮かぶそうです。
大学で広報室長を務める友人は、自身のメルマガで支援を募りました。化学療法を受けるある女子高生のために、配食、病院への送迎、寄付といったサポートを長期にわたって提供するためです。別の友人は、分からないことがあれば何でも調べるたちで、ミツバチの死亡率の上昇と食糧危機の関連性について徹底的に調べました。そして、ミツバチの保護につながる身近で簡単な方法をリストにしてくれました。ミツバチだけでなく人類にとっても健全な生態系の保全のためです。
この3 人が置かれた状況や立場は異なります。また、才能やスキルも様々です。しかし、共通点があります。それは、自分の持てるものを誰かのために提供していることです。これはまさに、ペテロが呼び掛けた生き方です。「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ4:10)
ペテロは、影響力や専門知識、資金の大小に言及しませんでした。それぞれの成果の重要度についても触れません。彼が伝えたかったのは、神が私たち一人一人に資質や能力、すなわち賜物を与えておられるという事実です。それは、誰かのために使うためです。
自分の資質や能力は、神が与えてくださったものです。それを十分に活かすことが「恵みの良い管理者」だと言えます。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 持ち主か管理人か
8日 持っているものを用いる
15日 遺すものは何か
22日もう一段、進んだ愛