三位一体:神は1人?それとも3人?
神について聖書は、父なる神、子なる神、聖霊なる神、と教えます。神は、永遠なる一つの本質、三つの位格を持ったお方です。三つの位格なので、それぞれに神の本質の内にある独自の役割があります。父は創始者、御子は実行者、聖霊は啓発者、と各々の位格は自己認識を持ち、主体的に決断します。しかし、どの位格も自分勝手に行動したり、他の二つと対立したりしません。
御父、御子、聖霊は皆、創造に関わられました。聖書は、神が万物を「御子において造られ」(コロサイ1:16)、「神の霊が水の面を動いて」いた(創世記1:2)と語ります。
救いについては、父なる神が世を愛し、その独り子をお与えになりました(ヨハネ3:16)。キリストの復活と昇天の後、御父と御子が聖霊を遣わされました(14:16、16:7)。
イエスは、弟子たちに「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるように命じ、三位一体の神を示されました(マタイ28:19)。
三位格を持つ1 人の神。この神は、私たちを愛し、私たちの救いのために御子を遣わされた天の父であり、私たちが受けるべき罰を代わって受けるために、人となられたイエス・キリストであり、私たちの内に住まわれ、罪に対する勝利を与えてくださる助け主、慰め主なる聖霊です。
この三位一体の神は、私たちの祈りに耳を傾け、悩みやつらさを理解し、御国に導いてくださるお方です。
父、子、聖霊が一つの神であるという三位一体の教えは難解で、分からないままでいいとあきらめる人もいるでしょう。 9 月は、この三位一体の教えに取り組みました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 喜びの源泉
8日 現実と真理
15日 キリストの弟子を作る
22日 正しく認識する
あわれみと正義が出会うとき
誰かに話したほうがいい? 親や学校に相談する? マンハッタンの進学校に通う少年は悩んでいました。以前は親しかったクラスメートからいじめを受けるようになったのです。学校でもSNSでも誹謗中傷されました。
彼は、勉強に専念し、いじめのことは考えないようにしました。また、加害生徒が罰せられることは望みませんでした。停学などの処分になっても、いやな気持ちになるだけで、お互いのためにならないと思ったからです。
事態に気付いて心を痛めた教師は、「修復的正義」という方法を試そうと提案しました。
元は仲の良かった2 人に対話を促すのです。両者共に思っていることを正直に話し、相手の言い分を聞きました。最終的には加害生徒が謝罪し、和解に至りました。
この関係修復は、元友人へのあわれみと慈しみで実現しました。聖書は、この無類の贈り物を描きます。神は正義のさばきを下されますが、同時にあわれみも与えられます。
イエスは十字架上でこれらを同時に提供されました。私たちの罪のために、ただ一度ご自身を献げられたことにより(ヘブライ10:10)、正義の神を満足させる一方で、私たちにあわれみ慈しみを施されたのです。
イスラエルの民もあわれみによる猶予を頂きました。「焼き尽くす献げ物」「幾万の油の流れ」(ミカ書6:6-7)などを神にむなしく献げようとする民に、預言者ミカは告げました。「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである」(8 節)
正義を求めるほど熱心にあわれみを施そうとしていますか。あわれみは、神聖な贈り物。犠牲を伴っても渡す価値のある贈り物です。
あわれみと正義はどちらも人間関係に欠かせない要素です。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 人生は不公平か
8日 弱者に寄り添う
15日 神の品性
22日 神の心を反映する
祈りは心を静める
祈りは、礼拝です。私たちは祈りを通して、神を愛し、敬い、慕っていることを表します。神は、ご自身のあふれる愛を注ごうと私たちを造られました。その愛ゆえに、十字架上で御腕を広げて死に、私たちを造り変えて完成させようとしてくださいます。これらの真理に心を定めてささげる祈りは、神を礼拝することです。つまり、神こそ何よりも尊いという宣言です。神を愛するのに一番の行為です。
祈りは、信頼の表れです。どんな難題でも神を頼り切ってみもとに持っていけると確信しています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)とあるとおり、困りごとや悩みごとは、何でも祈ってよいのです。
祈りは、お願いです。何でも祈ってかまいませんが、お願いですから、ごねたり交渉したりして、自分の思い通りにしようとするのとは違います。友人に頼みごとをしたら、無理強いせずに返事を待つでしょう。神にお願いするときも、願いがかなうか、違ったかたちで答えがあるまで、委ねて待ちます。
祈りは、理解の助けを乞う行為です。聖書から神が語られることを会得するには祈りが必要です。祈りによって、散り散りの心が焦点を見いだし、まとまります。
祈るとき、神は私たちの心を静め、耳を傾け、慰め、教えてくださいます。そこで、私たちは神を愛し、礼拝することを学びます。
© 2006 Discovery House Publishers 抄訳
祈りは簡単ではありません。弟子たちもイエスに祈り方を尋ねました。今月は、有意義な祈りの習慣を育むためのヒントや祈る理由について考えます。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 祈る愛
8日 必死の祈り
15日 イエスの祈り
22日 粘り強く祈る
神は愛
神は愛です。神は、ご自身の本質と愛をさまざまな方法で教えてくださいます。
神の被造物:風の音から神のささやきが、朝日や夕日に神の美しさが、鳥のさえずりや人の思いやりから神のご臨在が感じられます。
神の知恵:神は、創造の時から私たちを喜んでくださいました。私たちは、神のあふれる愛と良いご計画をもって、あらかじめ神の定められた祝福を全て享受できるように造られています。
神の御力:全世界は、計り知れない偉大な神の御心に向かって動かされています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)
神のきよさ:神は人類と共に歩み、語られました。そして、神の定められた幸福に与る道を示してくださいました。
神の正義:神に従う人は、言葉にできない喜び、命、知識という至福をとこしえに得る、と神は示されました。一方、神に従わない人は、神と生きるチャンスを失い、待ち受けているのは永遠の死です。
神の造られた世は輝かしく、星は歌い、全ての被造物は喜び躍りました。しかしまもなく、不従順、プライド、神への背信が世を荒廃させ、神と神の子どもたちの間に大きな溝を作りました。それでも神は、私たちのもとに来てくださったのです。神のひとり子という賜物は、驚くほどの神の愛を明確に示しています(ローマ8:32)
(「神は愛なり 神のご性質に関する考察」オズワルド・チェンバーズ著)抄訳
神はどのようなお方かと聞かれてまず何を思い浮かべますか。今月は、神のご性質と御業の不思議について考えます。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 憐れみ深い
8日 全ての言語で
15日 絶望的な状況
22日 手放し、委ねる
キリストにあって神と一つ
キリスト者はキリストを通して神と一つにしていただける。人は、この驚くべき神秘の理解と説明に取り組んできました。12 世紀のフランスの修道士クレルヴォーのベルナルドゥスは、この真理を身近な例で説明しました。ワインに落ちた水の滴はワインの色に染まる。光が差すと周りの空気は照らされて明るくなる。といった具合です。
イエスはご自身に従う者の内に住むと約束されました。弟子たちを友と呼び、惜別の言葉を語られました。彼らを孤児にはしない、必ず戻って来ると安心させました(ヨハネ14:18)。 主が生きるので彼らも生きるとも言われ、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20 節)と語られました。 イエスと御霊が父と共におられるように、私たちもこのお方と共にあり、主は私たちの内におられます。
神が、キリストと御霊を通して私たちの内に住まわれる。つまり、神と一つになる。人の理解を超えた論理ですが、日常の事象になぞらえて何とか説明しようとしたのです。この真理が自分にとって何を意味するかが、あなたの生き方の全てに関わります。イエスが内におられるので、不安なときも安らげます。嫌味な言葉や礼を欠く態度にも過剰に反応せず、受け流すことができます。その一方、見過ごされている人のためには、代弁者となり、愛と勇気をもって声を上げられます。
イエスが自分の救い主だと信じるなら、キリストの霊が内におられます。今日、この真理に思いをはせ、主が内から変えてくださるのを待ち望みましょう。
今月は、キリストと一つになることについて考えました。キリストは御霊によって私たちの内に住まわれ、私たちは主と一つにされています。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 神の声を聴く
8日 キリストに根を張る
15日 栄光なる啓示
22日 自分を献げる価値がある
愛って何?
未就学児に「愛って何だと思う?」と尋ねたところ、幼い子もいろいろと考えているのだということが分かりました。
「愛は、みんな家族といるってこと」と4 歳のアダムくん。
「ばあばがリウマチっていう病気で体が痛くて、足の爪が切れなくなったんだ。それで、じいじが爪を切ってあげるんだけどね、本当はじいじも手が痛いんだよ」と言った子もいました。
このおじいさんの話から、聖書の一節が思い浮かびました。イエスは、まもなく捕らえられて十字架にかけられると予期し、残されたわずかな時間を使って弟子たちに模範を示されました。手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められたのです(ヨハネ13 章)。ペトロは、主であるお方がかがんで自分の汚い足に触れることをためらい、辞退しようとしました。しかしイエスは、人に仕えることを教えるため、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃいました(14 節)。
イエスは、ついてきた人々に3 年間尽くして教え、その後、人類の罪のために命をささげられました。イエスが示された謙遜と犠牲こそ、愛の本質です。
犠牲をいとわず愛する姿勢を、私たちはどのように身に付けるのでしょう。まず神に祈って尋ねてみてください。神はあなたの造り主で、独自の人生経験をさせ、スキル等を与えて、人の役に立てさせてくださるお方だからです。
助けの必要な人はたくさんいます。世の中のニーズに目を向けてください。誰かの家事や仕事を手伝ったり、子ども食堂や炊き出しのボランティアをするのもよいでしょう。誰かの話を親身に聞く、または、あまり気の合わない人でも困っているなら祈ったり手助けしたりすることができます。
今日、どうやってイエスのように人を愛しますか。誰の足を洗いますか。
今月は、犠牲をいとわず愛することについて考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 主にある慈しみの勝利
8日 互いを思いやる
15日 神と共に行く
22日 主の愛で愛す
聖書の学び方
今回ご紹介する聖書の学び方は、帰納的聖書研究と呼ばれます。この方法では、1.観察、2.解釈、3.適用の3ステップで聖書を学びます。
1.観察
何が書かれているか。
読んでいる箇所の文脈からできるだけ多くの情報を集めます。ささいなことも見過ごさずに、「誰が」「何を」「どこで」「いつ」「どのように」といった事柄を押さえましょう。また、「だから」「しかし」「なぜなら」など、接続詞にも注目しましょう。接続詞は、文章の流れを形成します。同じ単語やフレーズが繰り返されているなら、そこからその箇所の主旨が推察できます。どのような比喩や論法が使われているかも注意しましょう。
2.解釈
当時の読み手にとってどういう意味か。
次に、前後の文脈を踏まえて、ここで著者が当時の読み手に何を伝えようとしているのかを考えます。彼らを取り巻く状況や時代背景を知り、書かれた文脈の中で単語や文を理解することによって、著者の真意や意図が生き生きと伝わってきます。
3.適用
自分にとってどういう意味か。
ステップ2.まで終えると、当時の人たちが理解した内容が分かります。そこで初めて、自分にとってどういう意味かを考える段階になります。それは文化や時代に左右される事柄か、それとも普遍の原則かと問い、主題に注目しましょう。そこで取り上げられている人間の内面の問題は何でしょう。それは、神との関係について何を語っていますか。これらの問いに答える過程で、聖書が生きて働き、学びを格段に深めてくれます。
今月は、聖書の学び方について考えました。聖書を読み解く方法を知ることで、神、自分自身、そして世界に対するより明確な視点を持つ助けとなりますように。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 聖書を大切に
8日 命のリスト
15日 ありがたい本
22日 聖書の御言葉
イエス:まことの羊飼い
リーバンクス家は代々、羊飼いの家系です。ジェームス・リーバンクスは、著書『羊飼いの暮らし』の中で、トゲのある毒草が生い茂るわずかな土地をみんなで牧草地にした、と振り返ります。誰にでもできることではありません。リーバンクス家の人々は、手塩にかけて羊を育てます。病気や野生動物から守ることはもちろん、長い冬には霜や日照不足で牧草が乏しくなるので、餌の確保に奔走します。一家は、たゆまず羊たちの世話をします。羊に惜しみない愛情を注ぐ彼らは、人生を羊にささげていると言えるでしょう。
この本を読むと、羊飼いという言葉から連想するのんびりした牧歌的なイメージは壊れます。羊飼いは、かわいい羊さんたちと緑の牧場で戯れてはいません。常に危険と隣り合わせです。これが、詩編23編の世界です。多くの人に親しまれる祈りと慰めの詩編には、ひとつの前提があります。それは、羊飼いが守ってくださる、という真理です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)という冒頭の一行は、詩編23編全体が成り立つために必要な土台です。また、キリスト者にとっての土台とも言えます。これは現実逃避ではありません。むしろ、良い羊飼いがおられるので必要なものは全てそろっている、という大胆な宣言です。良い羊飼いは、緑豊かな牧草地、渇きを癒やす穏やかな水のほとりへと導かれます。不安や悲しみで疲弊したたましいに活力を与えてくださいます。
とはいえ、現実には依然「死の陰の谷を歩く」(4節)ような体験があります。 それでも、私たちは恐怖に屈しません。自力で対処し解決できるからではなく、羊飼いが共にいてくださると知ったからです。このお方の頼もしいご臨在は、恐れを完全に締め出します。 「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)と詩編の著者が語るとおりです。
親切で強い羊飼いがおられるから恐れる必要がないのです。羊飼いの持つむちと杖(つえ)は慰めです(4節)。むちは迷子になった羊を崖からすくい上げる道具、杖は獣を倒すための道具です。羊飼いの優しさと強さが表れています。
さらに、羊飼いである主は問題やトラブルの真っ只中でごちそうを用意してくださいます。それは、豊かさを意味します。必要最小限ではなく、満ちあふれるほど下さるのです(5節)。 私たちの最善のために絶えず配慮し、全ての悪から守ってくださいます。
イエスを信じた初期の信者たちは、詩編23編がまことの羊飼いイエスを指し示していることを理解していました。そのつながりについては、イエスご自身が 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と説明しておられます。詩編23編に記された羊飼いは、現代のキリスト者にとっても、イエスそのものです。主が良い羊飼いなので、足りないものはありません。主は私たちを休ませ、傷心を癒やし、背負って死の陰の谷を突き進まれます。(回り道するのではなく、ど真ん中を通られるのです。) 私たちが迷うとき、イエスは優しく親切に導いてくださいます。恐ろしい牙をむく敵には容赦せず、私たちを守ってくださいます。
イエスがどのようなお方かを知る一つの方法は、詩編に描かれた羊飼いの姿を知ることです。 イエスは、決して私たちを見捨てられない誠実なお方です。 常に必要を満たされる気前良いお方です。 知恵に満ちあふれる主は、本当に必要なものをご存じです。 不安で震える心を優しく気遣ってくださいます。 力強い主は、私たちに危害を加えるものから守ってくださいます。 傷つける要因が自分自身のうちにあったとしても、そうです。
羊飼いたちには各々独自の呼び声があり、その呼び声で羊は羊飼いが近くにいることを察知します。 イスラエルを旅した時、羊飼いたちの様子に見とれました。 羊と土地を知り尽くし、きびきびと動いて群れを制する姿に感激しました。 群れに優しく接する一方で、脅威を察すれば瞬時に行動する気合いが感じられ、頼りがいがありました。羊飼いの目が行き届いた羊の群れは、安全に守られ、安心しきった様子でした。
良い牧者と共にいるなら、私たちも安心です。
キリストに倣って生きていくためには、キリストのご性質を知る必要があります。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 天の父の愛
8日 人の世話をする
15日 完全な救い主
22日 イエスを愛した記憶
わたしは道である
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。「わたしに味方しない者はわたしに敵対」している(マタイ12:30)。これらの言葉に、私たちはどう反応すべきでしょう。中立ではいられません。米国人作家シェルドン・ヴァナーケンは、C.S.ルイスとの文通でキリスト教について語り合い、この事実に向き合わざるを得なくなりました。
彼は著書『A Severe Mercy』(厳しい憐れみ、未訳)で、自分が「後戻りできない」ことを知り、身震いしたと言います。
「私はキリスト教を一種のおとぎ話のように考えていた。会ったことのない相手を受け入れも拒みもしない。しかし、イエスと出会ってしまった。もはや、メシアの存在を信じるかということではない。自分の出会ったお方を認めるか否かだ。神よ、もう後戻りはできません! 受け入れるのも怖いが、拒んだとしたら? 『あのお方はきっと正真正銘の神。私は神を拒絶してしまったのだ』というおぞましい念に取りつかれるだろう」
ヴァナーケンは、「父、子、聖霊を信じる。キリストを、わが主わが神と信じる」道を選びました。そして、語ります。「キリスト教には、本質的な真理の響き、感触がある。それによって、人生は空虚から充実に、無意味から有意義になるのだ」
私たちも各々、同じ決断を迫られます。イエスはご自身について、今からとこしえまで、人の形をとった神、この世の救い主、命の源であると宣言し、私たちに応答を求められます。あなたはどう答えますか。
キリストはご自身の生涯、死、復活、昇天を通して何を実現されたでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスの物語
8日 ろう者の心
15日 神との新しい始まり
22日 神だと分かる