愛って何?
未就学児に「愛って何だと思う?」と尋ねたところ、幼い子もいろいろと考えているのだということが分かりました。
「愛は、みんな家族といるってこと」と4 歳のアダムくん。
「ばあばがリウマチっていう病気で体が痛くて、足の爪が切れなくなったんだ。それで、じいじが爪を切ってあげるんだけどね、本当はじいじも手が痛いんだよ」と言った子もいました。
このおじいさんの話から、聖書の一節が思い浮かびました。イエスは、まもなく捕らえられて十字架にかけられると予期し、残されたわずかな時間を使って弟子たちに模範を示されました。手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められたのです(ヨハネ13 章)。ペトロは、主であるお方がかがんで自分の汚い足に触れることをためらい、辞退しようとしました。しかしイエスは、人に仕えることを教えるため、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃいました(14 節)。
イエスは、ついてきた人々に3 年間尽くして教え、その後、人類の罪のために命をささげられました。イエスが示された謙遜と犠牲こそ、愛の本質です。
犠牲をいとわず愛する姿勢を、私たちはどのように身に付けるのでしょう。まず神に祈って尋ねてみてください。神はあなたの造り主で、独自の人生経験をさせ、スキル等を与えて、人の役に立てさせてくださるお方だからです。
助けの必要な人はたくさんいます。世の中のニーズに目を向けてください。誰かの家事や仕事を手伝ったり、子ども食堂や炊き出しのボランティアをするのもよいでしょう。誰かの話を親身に聞く、または、あまり気の合わない人でも困っているなら祈ったり手助けしたりすることができます。
今日、どうやってイエスのように人を愛しますか。誰の足を洗いますか。
今月は、犠牲をいとわず愛することについて考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 主にある慈しみの勝利
8日 互いを思いやる
15日 神と共に行く
22日 主の愛で愛す
聖書の学び方
今回ご紹介する聖書の学び方は、帰納的聖書研究と呼ばれます。この方法では、1.観察、2.解釈、3.適用の3ステップで聖書を学びます。
1.観察
何が書かれているか。
読んでいる箇所の文脈からできるだけ多くの情報を集めます。ささいなことも見過ごさずに、「誰が」「何を」「どこで」「いつ」「どのように」といった事柄を押さえましょう。また、「だから」「しかし」「なぜなら」など、接続詞にも注目しましょう。接続詞は、文章の流れを形成します。同じ単語やフレーズが繰り返されているなら、そこからその箇所の主旨が推察できます。どのような比喩や論法が使われているかも注意しましょう。
2.解釈
当時の読み手にとってどういう意味か。
次に、前後の文脈を踏まえて、ここで著者が当時の読み手に何を伝えようとしているのかを考えます。彼らを取り巻く状況や時代背景を知り、書かれた文脈の中で単語や文を理解することによって、著者の真意や意図が生き生きと伝わってきます。
3.適用
自分にとってどういう意味か。
ステップ2.まで終えると、当時の人たちが理解した内容が分かります。そこで初めて、自分にとってどういう意味かを考える段階になります。それは文化や時代に左右される事柄か、それとも普遍の原則かと問い、主題に注目しましょう。そこで取り上げられている人間の内面の問題は何でしょう。それは、神との関係について何を語っていますか。これらの問いに答える過程で、聖書が生きて働き、学びを格段に深めてくれます。
今月は、聖書の学び方について考えました。聖書を読み解く方法を知ることで、神、自分自身、そして世界に対するより明確な視点を持つ助けとなりますように。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 聖書を大切に
8日 命のリスト
15日 ありがたい本
22日 聖書の御言葉
イエス:まことの羊飼い
リーバンクス家は代々、羊飼いの家系です。ジェームス・リーバンクスは、著書『羊飼いの暮らし』の中で、トゲのある毒草が生い茂るわずかな土地をみんなで牧草地にした、と振り返ります。誰にでもできることではありません。リーバンクス家の人々は、手塩にかけて羊を育てます。病気や野生動物から守ることはもちろん、長い冬には霜や日照不足で牧草が乏しくなるので、餌の確保に奔走します。一家は、たゆまず羊たちの世話をします。羊に惜しみない愛情を注ぐ彼らは、人生を羊にささげていると言えるでしょう。
この本を読むと、羊飼いという言葉から連想するのんびりした牧歌的なイメージは壊れます。羊飼いは、かわいい羊さんたちと緑の牧場で戯れてはいません。常に危険と隣り合わせです。これが、詩編23編の世界です。多くの人に親しまれる祈りと慰めの詩編には、ひとつの前提があります。それは、羊飼いが守ってくださる、という真理です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)という冒頭の一行は、詩編23編全体が成り立つために必要な土台です。また、キリスト者にとっての土台とも言えます。これは現実逃避ではありません。むしろ、良い羊飼いがおられるので必要なものは全てそろっている、という大胆な宣言です。良い羊飼いは、緑豊かな牧草地、渇きを癒やす穏やかな水のほとりへと導かれます。不安や悲しみで疲弊したたましいに活力を与えてくださいます。
とはいえ、現実には依然「死の陰の谷を歩く」(4節)ような体験があります。 それでも、私たちは恐怖に屈しません。自力で対処し解決できるからではなく、羊飼いが共にいてくださると知ったからです。このお方の頼もしいご臨在は、恐れを完全に締め出します。 「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)と詩編の著者が語るとおりです。
親切で強い羊飼いがおられるから恐れる必要がないのです。羊飼いの持つむちと杖(つえ)は慰めです(4節)。むちは迷子になった羊を崖からすくい上げる道具、杖は獣を倒すための道具です。羊飼いの優しさと強さが表れています。
さらに、羊飼いである主は問題やトラブルの真っ只中でごちそうを用意してくださいます。それは、豊かさを意味します。必要最小限ではなく、満ちあふれるほど下さるのです(5節)。 私たちの最善のために絶えず配慮し、全ての悪から守ってくださいます。
イエスを信じた初期の信者たちは、詩編23編がまことの羊飼いイエスを指し示していることを理解していました。そのつながりについては、イエスご自身が 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と説明しておられます。詩編23編に記された羊飼いは、現代のキリスト者にとっても、イエスそのものです。主が良い羊飼いなので、足りないものはありません。主は私たちを休ませ、傷心を癒やし、背負って死の陰の谷を突き進まれます。(回り道するのではなく、ど真ん中を通られるのです。) 私たちが迷うとき、イエスは優しく親切に導いてくださいます。恐ろしい牙をむく敵には容赦せず、私たちを守ってくださいます。
イエスがどのようなお方かを知る一つの方法は、詩編に描かれた羊飼いの姿を知ることです。 イエスは、決して私たちを見捨てられない誠実なお方です。 常に必要を満たされる気前良いお方です。 知恵に満ちあふれる主は、本当に必要なものをご存じです。 不安で震える心を優しく気遣ってくださいます。 力強い主は、私たちに危害を加えるものから守ってくださいます。 傷つける要因が自分自身のうちにあったとしても、そうです。
羊飼いたちには各々独自の呼び声があり、その呼び声で羊は羊飼いが近くにいることを察知します。 イスラエルを旅した時、羊飼いたちの様子に見とれました。 羊と土地を知り尽くし、きびきびと動いて群れを制する姿に感激しました。 群れに優しく接する一方で、脅威を察すれば瞬時に行動する気合いが感じられ、頼りがいがありました。羊飼いの目が行き届いた羊の群れは、安全に守られ、安心しきった様子でした。
良い牧者と共にいるなら、私たちも安心です。
キリストに倣って生きていくためには、キリストのご性質を知る必要があります。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 天の父の愛
8日 人の世話をする
15日 完全な救い主
22日 イエスを愛した記憶
わたしは道である
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。「わたしに味方しない者はわたしに敵対」している(マタイ12:30)。これらの言葉に、私たちはどう反応すべきでしょう。中立ではいられません。米国人作家シェルドン・ヴァナーケンは、C.S.ルイスとの文通でキリスト教について語り合い、この事実に向き合わざるを得なくなりました。
彼は著書『A Severe Mercy』(厳しい憐れみ、未訳)で、自分が「後戻りできない」ことを知り、身震いしたと言います。
「私はキリスト教を一種のおとぎ話のように考えていた。会ったことのない相手を受け入れも拒みもしない。しかし、イエスと出会ってしまった。もはや、メシアの存在を信じるかということではない。自分の出会ったお方を認めるか否かだ。神よ、もう後戻りはできません! 受け入れるのも怖いが、拒んだとしたら? 『あのお方はきっと正真正銘の神。私は神を拒絶してしまったのだ』というおぞましい念に取りつかれるだろう」
ヴァナーケンは、「父、子、聖霊を信じる。キリストを、わが主わが神と信じる」道を選びました。そして、語ります。「キリスト教には、本質的な真理の響き、感触がある。それによって、人生は空虚から充実に、無意味から有意義になるのだ」
私たちも各々、同じ決断を迫られます。イエスはご自身について、今からとこしえまで、人の形をとった神、この世の救い主、命の源であると宣言し、私たちに応答を求められます。あなたはどう答えますか。
キリストはご自身の生涯、死、復活、昇天を通して何を実現されたでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスの物語
8日 ろう者の心
15日 神との新しい始まり
22日 神だと分かる
あなたの行いが語ること
作家ジェームズ・ボールドウィンはこう書いています。「昔から、子どもは大人の言うことは聞かない。けれど、大人のまねは得意だ」
相手の言葉に耳を傾けなくても、その人の行いは常に見ている、ということですが、これは子どもに限った話ではないでしょう。私たちの行いは、良くも悪くも人に影響を与えます。キリストを信じているといくら言っても、行いが伴っていなければ、誰も耳を貸しません。一方、キリストの愛を行動で示すなら、周囲に良い影響をおよぼします。
聖書には、言葉よりも行動によって人に影響を与えた人々の例が多数載っています。リディアが洗礼を受けると、家族全員がそれに続きました(使徒 16:14-15)。パウロとシラスもそうです。彼らは、地震で牢屋(ろうや)の扉が開いたにもかかわらず、牢の中にとどまることを選びました(使徒 16:26-28)。看守は、その言葉と行動を目の当たりにし、主を信じました。
パウロがテモテに語った言葉も印象的です(Ⅱテモテ1:5)。テモテの信仰を「純真な信仰」と呼び、それは母エウニケと祖母ロイスから受け継いだと語ります。テモテは幼い時からずっと二人を見て育ちました。安息日や祭りといった特別な日だけでなく、日頃から神を信じる信仰によって生きる彼女らに感化され、テモテの信仰は育まれたのです。
どう生きるかは大事です。神と自分の関係にとってはもちろん、私たちを見ている人たちにとっても重要です。人は言うことは聞かなくても、まねをするからです。
地域をはじめ様々なコミュニティに参加すると、人に影響を与える機会が得られます。どうすれば、その機会をイエスのために生かし、人にとって良い刺激となれるでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 主のために人に評価される
8日 新しい命
15日 祖母の信仰
22日 行動する愛
まず神を求める
中西部のある大学からSNS経由で夫にアプローチがありました。夫は応募書類を送信し、「みこころでなければ、神様が道を閉ざしてくださるよ」と言いました。
「そうとは限らない」と私は答えました。「聖書の教えに従って進むべき方向を祈りながらしっかり考えることが神に求められている場合もあると思う」
私たちはまず別々に祈り、その後二人でメリット・デメリットを話し合いました。そして、1ヵ月も経たないうちに引っ越しました。愛着ある地を遠く離れる意味が、当時は理解できませんでしたが、主のみこころに従っているという確信はありました。
当初はよく分からなかったけれど、神の望まれる所に至る決断だったと後から分かる。長い人生には、そのような経験があるでしょう。しかし、自分の力だったと思ってはいけません。
私たちは信仰を試す試練にあう、とヤコブの手紙は語ります(1:2-3)。そして、試練の中で神を仰ぎ、知恵を求め、忍耐が養われ、正しい決断をする成熟した人になる道を提示します(4節)。知恵が足りなければ、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい」(5節)。求める姿勢も大事です。祈るとき、「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」(5-6節)。「疑う」とは、神の誠実さと善意を疑うことです。神に頼り切れず、自分で何とかできないものかと思い悩むのです。
内容の大小にかかわらず、常に神を念頭に置いて決断することが、賢明で成熟したキリスト者への道です。聖霊に勇気を頂き、大胆に神の導きに従うなら、神は、みことばの教えに沿った方法で、ご自分の完全なご計画とタイミングに合わせて、全てを整えてくださいます。
神のみこころが分からないと感じることがあります。どうすれば神に喜ばれる賢明な決断ができるのでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 時間を最大限に活かす
8日 神の定めた時
15日 いのちを選ぶ
22日 賢い選択
輝く道しるべ
十代の頃、クライドは憧れの存在でした。大学バスケットボールチームのスター選手だったからではありません。キリストの愛と生き方をはっきりと示す彼の言動や人との接し方を見て、自分もそうなりたいと思いました。クライドは私の道しるべでした。
クライドのことを思い出すと、イエスを信じる信仰が成熟するとはどういうことかが分かります。ペテロは第二の手紙の中で、信仰の成熟について分かりやすく述べています。
1.信仰の土台はイエスだ
成熟した信仰の持ち主は、神を第一とする生き方の鍵は、神の「御力」と「約束」だと理解しています(Ⅱペテロ1:3-4)。闇夜で神の光を輝かせるには、御霊が必要です(ピリピ2:15-16、ヨハネ3:6、Ⅱコリント5:21、Ⅰペテロ1:22-23も参照)。御霊の助けによって、主の御業を心から感謝し、イエスに倣って謙虚に歩めるようになります。
2.信仰は生き方に現れる
イエスが信仰を育ててくださるなら、私たちの生き方全て、その言動や態度にその信仰が現れるようになります(Ⅱペテロ1:5-9)。神と神の道をますます信頼し(5節)、キリストの品性を養い、辛抱強く試練と向き合うようになります(6節)。神につき従い、神と人を愛し(7節)、相手を尊重しながら信仰を分かち合います。
私たちの霊性が養われていくにつれて、クライドがそうだったように、私たちも良い感化を及ぼしていけるでしょう。神が私たちの霊性を成熟させてくださるにつれて、私たちはイエスの光を輝かせていきます。キリストに似た者となることです。このお方こそ、私たちの真の道しるべです。
信仰が成長し、キリスト者として成熟していくとは? 霊の成熟とはどのようなものか、実生活にどのように現れるのかについて考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 神の武具
8日 イエスのために走る
15日 信仰の鍛錬
22日 内面から変えられる
イエスは必ず戻ってこられる
イエスは、ご自身の再臨を、弟子たちの安心の源として語られました。十字架の前夜、過越の祭りを祝ったばかりの二階の大広間で、こう言われました。 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:1-3)
キリストのきっぱりとした口調に注目しましょう。「また来て」と言って必ず戻ることを約束し、ご自分が去ると伝えられて動揺する弟子たちを慰められました。主は必ず再びやって来て、主を信じる人々を御父のもとへ連れていってくださるのです。不安や恐れと毎日闘っているなら、天の父の家にいつか帰って永遠を過ごせるという望みは心の支えとなるでしょう。みことばは、その未来の家を「神の幕屋」と呼びます。「神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:3-4)
イエスの再臨によって、私たちは神の完全なご臨在を体験します。その日には、全ての悪は正され、痛み苦しみは取り去られます。罪のもたらす諸悪にピリオドが打たれ、傷つき悲しむ全ての人は慰めを得ます。
聖書によれば、この世は目を見張るような輝かしい結末に向かって進んでいます。終末をどう捉えるべきか、またそれが今の生活をどう変えるべきかを考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 信じたことに目を向ける
8日 一つになる
15日 墓なんてない
22日 王の王の再来
誠実な生き方
美術品や骨董(こっとう)品は本物か否かを判別するために真贋(しんがん)鑑定をします。人も、周囲から「本物」すなわち誠実な人と認められたいと願います。キリスト者は、自分の不完全さを見せてはいけないと感じることがあります。しかし、誠実に生きるにはまず自分が赦(ゆる)されるべき存在だと認めなくてはなりません。私たちの欠けが、神の驚くべき恵みを世に示すからです。
誠実に生きるために何ができるでしょう。
神に目を開いていただく。詩篇の作者と共に祈りましょう。「神よ 私を探り 私の心を知ってください。……私のうちに 傷ついた道があるかないかを見て……導いてください」(詩篇139:23-24)
悔い改めの必要性を謙虚に認める。パリサイ人と取税人のたとえで、前者は自分の正しさを並べ立て、後者は「神様、罪人の私をあわれんでください」と告白しました(ルカ18:13)。イエスは、神の前に義と認められて帰ったのは取税人だと言われました。
神の恵みを喜ぶ。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と神は言われました。自分の弱さと罪を認めるなら、神の赦しを求め、聖霊によってキリストに似た者へと変えられていくスタート地点に立てます。
正直さを大切にする。自分をよく見せたり、空気を読んで周りに同調したりする誘惑に抵抗しましょう。空気を読むプレッシャーを感じたとしても、話すときは、他の誰でもない、「私たちの心をお調べになる神に喜んでいただ」くために発言するという覚悟を持ちましょう(Ⅰテサロニケ2:4)。
イエスにあって偽りなく生きると、見下されたり恥をかかされたりするリスクがあります。しかし、主に助けていただくなら、「本物」の信仰とはいかなるものかを周囲に示し、主に栄光を帰せるでしょう。
悩みも挫折もある生身の人間として正直に生きるにはどうすればよいのでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 イエスに献身した形跡
8日 清めをもたらす告白
15日 罪悪感と解放
22日 神の皿