電化製品から玩具に至るまで、今日ではさまざまなものに注意書きが付いています。医薬品の説明書にも、ありとあらゆる使用上の注意が小さな文字で書かれています。

神の言葉にもたくさんの注意書きがあり、私たちの霊性に害を与えるものに警告を促します。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある」(箴6:16)といったみことばは、警告信号が点滅しているかのように私たちの目を引きます。その後に続く警告には、高慢や不誠実のように信仰生活の弊害となるものが挙げられています。こういった罪が、人間関係を損ない、天の父を悲しませるからです。この聖書個所はさらに「訓戒のための叱責はいのちの道である」(23節)と述べています。つまり、神の警告は人生から楽しみを奪うものではなく、むしろ良い人生を続けられるように守るためのものです。

子どもの頃のある出来事を今もよく覚えています。礼拝の後、友だちのボビーと外に立っていると、急にボビーが車道に飛び出しました。すぐさま、ボビーのお母さんが「止まりなさい!」と叫びました。もちろん、それは息子を守るための警告です。自由を妨げたのではありません。

神も、間違った方向へ飛び出すのを止めようと、私たちに警告されます。その警告を私たちはいとも簡単に無視し、その結果苦しむことがよくあります。神の警告に耳を傾けてこそ、真の自由があることを覚えておきましょう。警告は私たちのためなのです。