Month: 5月 2019

良いものをもたらす目的ー痛みは目的をもったプロセスです

3番目の原則は、神にとって目的のないプロセスはないということです。ローマ人への手紙8章28節には、神が私たちのためにすべてのことを働かせて益(英語では 「良いこと」)としてくださるとあります。これが神の目的です。クリスチャンにとって、「良い結果」という目的のない痛みはありません。

あるとき教会で「神さまが息子さんを守ってくださいましたね。神は本当に良いお方です」と、ある夫婦に話しかけました。前夜、彼らの息子は交通事故に遭って、緊急手術のできる遠くの病院に運ばれました。一時は危篤状態でしたが、一命を取り留めたのです。しかし隣には、数年前に娘を交通事故で失った夫婦が立っていました。私はハッとしました。「神さまはこの人たちにとっても、良いお方なのではないのだろうか。私はどういう定義で『良い』という言葉を使っているのだろう。娘さんを亡くされたご夫婦は、私の言葉を聞いてどう思ったのだろう?」

神はローマ人への手紙8章29節で、「良いこと」(日本語では「益」)を定義してくださいました。ここでは、神の目的のために召された人々のために、ひとつのプロセスがあると言われています。では、神の目的とは何でしょう。それは29節によれば、御子のかたちと同じ姿になることです。これこそが「益」なのです。キリストの品性をますますはっきり反映させるものが、私たちの人生の内に、または、人生を通してあるなら、 それが「良いこと」です。痛みであれ喜びであれ、その体験が、私たちをキリストに似せていくなら、それは「良いこと」です。それが、痛みのプロセスにおける神の目的です。すべての出来事は、神の許可があって起こりました。神はこれらすべてを用いて、キリストを反映させるものへと私たちを変えていかれます。

家族でセミナーに参加していたとき、末息子のマシューが手首を骨折しました。私はあのような手を見たことはありません。腕が手首のところで左に鋭角に曲がり、再び反対に曲がって手のひらになっていました。目を背けたくなる、気持ちの悪い姿でした。急いで病院に駆け込みました。医者が息子の手を引っ張って、額に汗を浮かべながらねじりました。息子の痛がる姿を見て、私は医者につかみかかって、息子から引き離してやりたいという衝動にかられました。しかし、見守るしかありません。マシューの腕は本来のかたちに回復されなくてはなりません。そのために、彼は数週間、痛みと不便を忍ばねばなりませんでした。

私たちは、罪によって傷つき壊れています。神は良いお方です。神は愛です。そんな神が、私たちを回復させなければなりません。当初のご計画のとおり、御子のかたちに回復させるのです。あわれみと義、そして愛の心を回復させなければなりません。元来のご計画のとおり、ご自分の栄光をあらわすために、神は、私たちを作り変えなければなりません。神は、私たちを「良いもの」に変える計画をお持ちであるだけではありません。その計画を完成する力も持っておられます。

預言者イザヤは、神は「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう」と語りました(イザヤ61:2-3)。また、神はいなごが食い尽くした年を償うことができます(ヨエル2:25)。

ミケランジェロは、石のかたまりから「ダビデ像」を彫り出しました。キャンバスに絵の具で傑作を描いた画家たちがいます。最近は、鉄の棒を曲げて溶接した不思議なモニュメントも広場に展示されているでしょう。しかし私は、灰から芸術作品を生み出した人を見たことがありません。それができるのは神だけです(イザヤ61:3)。

神は人生にキリストの愛をくださいます。そのために、痛みの体験が必要なのかもしれません。他の人のニーズに敏感になるために、何らかの必要を覚える辛い日々を、私たちは通されるのかもしれません。それに伴って痛むというのなら、それは「良いこと」 です。私たちは泣く者とともに泣けるでしょうか。キリストのように純粋に同情するようになるために、私たちには涙を流す体験が必要なのかもしれません。自分のことは自分でできると思っていませんか。豊かな社会の悲劇は、神が必要だとほとんど感じられないことです。ところが実際、私たちは、どうしようもないほど神が必要なのです。私たちの安定は、多少は覆されるかもしれません。キリストのように神に頼って生きるようになるためにです。とすれば、たとえ痛みを伴ったとしても、それは「良いこと」です。

私たちは、神に忠実でしょうか。悲劇が起こって衝撃を受けるかもしれません。神が生きて働くお方であることを体験し、キリストのように神を信頼して歩むことを学ぶためです。とすれば、それは「良いこと」です。

私たちは、プライドが高く、他人に無関心で、性的好奇心が強く、わがままで恨み深く、否定的で怒りっぽくはないでしょうか。神は、御子イエスという模範を与え、このお方のように生きなさいと語っておられます。

神は、私たちの中に良い変化を起こすことができます。何が最善であり、そのために何が必要かをご存じです。神は愛に満ち溢れた力強い彫刻家です。キリストの姿が見えるまで、私たちのカチコチの部分を削り取ってくださいます。

神を知る人たちにとって、痛みは、ある目的のために通らねばならないプロセスです。 私たちは、辛いときを何とかやり過ごしていくのではありません。麗しいキリストのように作り変えていただくために、困難の中を通らせていただきます。

そして、それは 「良いこと」です。

良いものをもたらす目的ー痛みはプロセスです

ローマ人への手紙8章28節は、痛みはプロセスであること、さらに、最終的に良いものに至ることを教えてくれます。痛みを受け入れる基本原理は、神にとって、私たちは開発途上だという認識です。神から見て完成された人はいません。神は、私たちをありのままで愛し、受け入れてくださいますが、神がご覧になっているのは、私たちの可能性であり未来像です。私たちは、楽しいと「これで良い」と自分に満足しますが、痛むときは神に目を向けます。神は痛みを用いて、ご自分が望むように私たちを成長させられるのです。このプロセスには、3つの側面があります。

すべてを含むプロセス

神は「すべてのことを」働かせてくださるのですから、神の許されることは、痛みであれ楽しみであれ、悩みであれ祝福であれ、すべてを、私たちを変えるために用いられます。かっこいい車は、魅力的です。この車が、美しさと有用性を持ち合わせるためには、一連のプロセスが必要です。美しい車のデザインは、曲げる、たたく、型を作る、熱する、リベットで留める、ヒューズを付ける、締めるなどの過程(プロセス)を経て出来上がります。組み立てラインの前進は、認知できないほど微小なので、そのプロセスはゆっくりです。しかし、目指すゴールは明らかです。また、プロセスは具体的です。無数の部品が全体を成り立たせています。不恰好で強い圧力を加えられるものがある一方で、美しくされていくものもあります。ひとつひとつは、欠かすことのできないプロセスなのです。

痛みがプロセスの一部であることは、みことばの文脈から分かります(ローマ8:18、 23、26節)。痛み無しに変えて欲しいと願うのは、まるで鋼鉄の固まりが、組み立て工程を経ることなく美しい車に変わるように願うようなものです。

継続するプロセス

ローマ人への手紙8章28節は 「神がすべてのことを働かせ」と語ります。これは、現在も継続しているプロセスです。私たちには神の目的があります。神は、目的を反故(ほご)にしたり、プロセスを中断したりされません。私の家の物置には、やりかけて置きっ放しにされているものがあります。修理しようと解体して放ってあるものや、ニスを塗りかけてそのままのものなどです。しかし、神は違います。途中で忘れたり放り出したりはなさいません。

神が監督するプロセス

ローマ人への手紙8章28節は 「神がすべてのことを働かせ」と語ります。私の人生の物語の背後には、神の御手があります。神の御手は動いています。変化や制限を与えたり、圧力をかけたり、力を与えたり、置き換えをしたりしています。すべてのことを働かせて益としてくださっているのは、神ご自身なのです。

1856年、彫刻家オーギュスト・バルトルディはフランスからエジプトに旅立ちました。彼はピラミッドの壮大さや、雄大なナイル川の力強さ、砂漠の中に堂々と立つスフィンクスの美しさに圧倒され、芸術家として大きな刺激を受けました。彼はこのとき、ひとりの旅人に会いました。フェルディナンド・レセップスです。レセップスは、紅海から地中海につながる運河を掘るという構想を、有力者に理解してもらおうとしていました。運河があれば、商船はアフリカ大陸の南端まで巡る長旅をしなくてもよいからです。バルトルディは、レセップスのアイデアに魅せられ、運河の入り口に灯台を立てたいと思いました。しかしそれは、単なる灯台ではありません。バルトルディの灯台は、西欧文明の光が、東洋をも照らすようになることを象徴する建造物でした。

スエズ運河の建設は10年の歳月を要しました。その間、バルトルディは灯台のデザインに取り組みました。設計図を描き、粘土模型をつくり、何度も改良を重ねました。そしてついに、完璧なデザインが出来上がりました。ところが、問題がひとつありました。建設費です。手を尽くして探しましたが、出資者は現れませんでした。こうして、スエズ運河は開通しましたが、灯台はできませんでした。傷心のバルトルディはフランスに帰国しました。10年間の努力は水泡に帰したのです。

バルトルディの構想は、素晴らしいものでした。それは、砂漠のスフィンクスよりも高い巨大な彫像です。ローブを身にまとった婦人が、正義の書物を片手に持ち、もう一方の手で灯を高く掲げ、運河の入り口を照らすというものです。バルトルディは帰国後、アメリカに贈る芸術作品のために力を貸して欲しいと、フランス政府に依頼されました。これが、ニューヨーク港を照らす「自由の女神」の彫像となりました。これは、失望に終わった出来事が、想像以上に良いことが起こる前ぶれにもなり得る、という良い例です。

困難、敗北、失意が、意義ある偉大なことに続いてゆく可能性がある、というのが世の常だとするならば、このプロセスを知恵と力に満ちた神の御手に委ねるとき、その結果はどれほど確かに保証されることでしょう。しかし、私たちは無責任な運命論に陥らないよう注意すべきです。無責任な運命論とは、すべての困難の原因が神にあるとする考え方です。ローマ人への手紙8章28節の「すべてのこと」の中には、人間の選択と選択の結果としての現実も含まれます。

イーデス・シェーファー著「苦しみについて」の中には、崖から落ちて死んだ子どもや、薄氷の張った池に落ちた子どもの話が出てきます。その子どもを崖から落としたのは神でしょうか。氷の割れ目から池に落としたのも神でしょうか。そうではありません。私たちは堕落した世に生き、堕落した人類に属しているので、これらの悲劇が起こるのです。崖に近づいたのは人間の選択であり、氷の安全性を確かめなかったのも人間の選択です。その結果、悲劇が起こりました。けれども、神の創造力に富んだ強い御手は、これらすべてを働かせて益としてくださるのです。

人生はジグソーパズルに似ています。私たちの人生は、テーブルの上に乗っている、いくつものパズルのピースです。それは、ごちゃごちゃしています。方向性も論理性もなく、悲劇的です。しかし、私たちは分かっています。神が来てくださって、みこころのときに、みこころの方法で、賢く注意深くピースをはめ込んでくださいます。そしてついに、道理にかなった美しい作品が出来上がります。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」とパウロが語ったとおりです(ピリピ1章6節)。

良いものをもたらす目的ー知っていることに留まりましょう

手術を受けたことのある人は少なくないでしょう。手術をするとなると、予定の変更を余儀なくさせられ、とにかく面倒です。また、痛く、不快で、恐ろしくもあります。それでも私たちは、医師の指示に従います。その理由は、痛みには見返りがある、良い結果になる、という約束があるからです。すべての痛みは神の目的を達成する過程だ、と聖書が告げます。また、神の目的は、必ず良いものをもたらすと保証しています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(ローマ8:28-29)。このみことばは、3つの真理を保証しています。私たちは困難の中にあるとき、これらによって自らを防衛することができます。

知っていることに留まりましょう

困難に見舞われた人は、あらゆる感情に襲われます。絶望感、痛み、 復讐心、自己憐憫、怒り、悲しみ、その他にも色々あるでしょう。注意していないと、それらの感情に支配されて、知性から引き離されていきます。理屈では分かっていても、感情によって思考が脱線し、信じて従うと決めたことからそれていきます。「感じている」ことが、「知っている」ことをゆがめていきます。

辛いときに頼りにすべきは、感情ではなく知識です。ローマ人への手紙8章28節には、「私たちは知っています」とありますが、それは文字どおり、絶対不変の知識を持っている、という意味です。痛みの中にいる私たちの知識は、「たぶん」とか「であればいい」ではなく「疑いなく知っている」という現実です。感情が砂なら、知識は岩です。

聖書の中で困難に関する個所はすべて、私たちの知識に訴えかける内容です。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っている44444からです」(ローマ5:3-4)。すでに見たヤコブの手紙1章2~4節にもありました。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」私たちの見方が感情に支配されてゆがんだとしても、神の真理は変わりません。私たちがどう感じたとしても、真理は真理です。

神の真理は、苦しい時に頼れる活力です。私たちが知っている真理は何でしょう。私たちは、患難が品性を練ること(ローマ5:3-5)を知っています。また、試練は有用な人間を作ること(ヤコブ1:2-5)も知っています。ローマ人への手紙8章28節から、痛みの目的は最終的に良い結果を生むことだとも知っています。これを知ること、この事実にすがりつくことが大事です。真理は困難の中にあっても、安定を作り出してくれます。

友人が、ひどいうつ状態に何ヶ月間も苦しめられました。病状をどうすることもできなかったそうです。その間、彼女を支えたものはただひとつ、「天国は現実だ」という真理だったそうです。この基本的な知識のおかげで、彼女は、絶望という感情の渦にのみ込まれずにすんだのです。2か月前に子どもを亡くしたばかりの別の友人は、声を詰まらせながら言いました。「今、子どもが死んだ直後よりも苦しいのです。私に分かっていることは、神さまは全知であり主権者だということだけです。」これは初歩的な知識です。けれども、彼を十分に支えています。私たちは神の民なので、痛みの中にいても真理がある、という強みがあります。これは困難の中にあって、紛れも無く有利な立場です。真理にしがみつきましょう。

真理があなたを守るー目的を達成するプロセス

6番目の原則は、神は困難を用いられるということです。神は、私たちの人生に目的を持っておられます。私たちの悲しみの体験が、無駄になることはありません。神が許可された苦しみは、神によって、神の目的のために用いられます。聖書的な目的はふたつです。ひとつは、私たちの成長(ヤコブ1:2-4)、もうひとつは神の栄光です(ヨハネ9:3)。困難は周囲の人々の目を引きつけます。ヘブル人への手紙10章33節には「そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった」(口語訳)と記されています。

あるクリスマス、私たちの子どもに消防士の帽子のおもちゃをくれた人がいました。電池で赤いライトが光り、サイレンが鳴る、いわゆるありがた迷惑なプレゼントです。子どもたちはライトを点滅させ、サイレンを鳴らして家中を走り回るので、彼らの存在感は絶大です。困難はこれに似ています。困難に襲われるや否や、ライトが点滅したかのように、みなが注目します。さあ、絶好のチャンスです。聖書的に試練に対処しましょう。私たちは「見せ物」なので、私たちの内に働く神の臨在と力を見せることができます。困難は、神の栄光を現し神の強さを告げるステージです。

私は、ジョニー・エレクソン・タダという女性が、神を深く愛していると証しているのを見ました。首から下が麻痺しているのに、車いすに座る彼女の顔は輝くばかりでした。彼女はキリストに生かされて、喜んで生きていました。彼女の試練は生涯続きますが、それでも、神が実在しておられ、満足を与えてくださり、不可能を可能にされていることは一目瞭然でした。自己憐憫(れんびん)、いじけ、後悔は、苦しみに対する非聖書的な応答です。それとは対照的に、ジョニーの苦しみは、神の臨在と力を証明し、神の栄光と恵みを雄弁に語っていました。神の恵みと神の力が、リアルに現されていました。

苦しみは、神の力を見せる舞台です。神の力は、奇跡的な救いという形で現れることもあれば、好転しない状況の中での赦しや平安という形で現れることもあります。私たちは、ある特権を授かっています。それは、試練によって「見せ物」にされるとき、聖書的に試練に応答することによって、神の栄光を曇らそうとするサタンの企てを打ち砕くという特権です。困難があるからこそ、神が礼拝されるにふさわしいお方であることを示せます。困難があるからこそ、私たちは率先して神に従います。痛みのただ中で、神の臨在と力と平安の現実を示すのです。

神の栄光を表すという目的にとって、痛みは欠かせないプロセスです。また、私たちの人格や生きる力が育つためには、痛みを避けることはできません。ヤコブの手紙1章2~4節によれば、さまざまな試練は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となるために役立つので、この上もない喜びと思うべきものです。どのようにして、試練が完全な者を作るのでしょう。ヤコブの手紙の続きを読むと、4段階のプロセスが書かれています。信仰が試され、忍耐が試され、服従が試され、そして祈りに頼ることが試されるのです。

信仰が試される

信仰が困難によって試されます。信仰とは何でしょう。それは神にゆるぎない信頼を置くことです。感謝なことに、神は、指の間からすり抜けてしまうような、つかみどころのないお方ではありません。移動式標的のように、的の絞りにくい移り気なお方でもありません。また、「かくれんぼ」をして遊んでいるかのように、じらしたりなさいません。神はご自身を明らかにされています。神の約束、神の道、神の品性は明白に提示され、それらすべては不変であり、確実な、信頼できるものです。試練に襲われたときに、しっかりとしがみつくことができるお方が、神なのです。

■ 信仰によって神の約束にしがみつく

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」 (ローマ8:28)。 「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコブ1:4)。たとえトンネルの向こうに光が見えなくても、暗闇がますます深くなって、失意のどん底にうめいていても、みことばの約束は真理であり、安定の源です。

■ 信仰によって神のなさることにしがみつく

このようなとき、私たちはこう祈ります。「天の父よ。私は聖書を読んで、あなたが今まで何を成し、実在の人たちにどう対応されたかを知っています。あなたは、聖書のとおりのお方ですから、私はこの試練の期間、あなたにしがみつきます。私はいじけません。自分の浅知恵を働かせようとしません。どうぞ、みこころのときに、あなたの御業をなしてください。」そして、信仰によって、神のなさることにしがみつきます。

■ 信仰によって神のご性質にしがみつく

コリント人への手紙第一10章13節には「神は真実です」と記されています。私たちは信仰によって「神は真実である」という事実にしがみつきます。神は事態が収束しそうな頃に現れて「いや、すまなかったね。この3週間ほどバタバタしていて手が放せなかったんだ」などと言うお方ではありません。神のご性質は、心変わりがなく誠実で、頼りがいがあります。全幅の信頼に値します。神は、慈しみ深いお方です。正義そのもので(だから、敵のことも委ねることができます)、正しく、恵みとあわれみに富んでおられます。試練によって信仰は試されます。それはまるで、裁判所の証人台に立たされて、神の約束、神の御業、神の性質を、人生のどんな場面でも例外なく、妥協なく、全幅の信頼を置いて対応することを実証してごらんなさい、と迫られているかのようです。煮え切らない態度ならば、信仰の弱さを暴露したことになります。

忍耐が試される

困難に対して「信仰的な応答」をするや否や、忍耐が試されます。神に粘り強くしがみつくなら、私たちは音を上げたり、投げ出したりしません。興味深いことに、「忍耐」を表す英単語「Endurance」は、「ヒュポ」と「メノー」というふたつのギリシャ語からできています。「ヒュポ」は「下」であり、「メノー」は「とどまる」という意味です。つまり、忍耐とは、神の働きが完了するまで緊張状態の下にとどまる力のことです。私の家族はスイカが好きです。子どもたちは、濡れたスイカの種を親指で上から少し押さえると、テーブルの向こうまで飛んでいくことを発見しました。そして、お互いに種を命中させて遊んでいました。

私たちの多くは、この種のように試練に応じます。問題がのしかかってくると「神さま、ここから出して!今すぐ!」と言います。しかし、神が 「ノー」 と言われたなら、逃げようとはせず、その場にとどまり耐え抜きましょう。信仰が忍耐を生み出すのですから、信仰によって神のご臨在を主張しましょう。人生に豊かな実が結ばれるためには、問題から逃げずに前向きであることが大切なのです。

試練のときは、神に関する真理を具体的にリストアップして、その根拠となる聖書個所を書き出すことが助けになります。これらの聖書個所を覚えたり、そのみことばを祈ったりすると、みことばの真理があなたの意識の中に深く刻まれます。忍耐の本質は、神に従い、神を信頼し、みことばの真理が自らの上に成就されるまで待つと誓って、ぶれないことです。恵みと成長と神の栄光を期待して待ち、信仰に少しでも前進の兆しがあるなら、喜びましょう。自分の決意を定期的にチェックしましょう。自分や自分のやり方に頼り始めていませんか。自分で状況や人を操ろうとしたり、怒ったり、恨んだり、人に辛くあたったり、赦せない気持ちになったりしていませんか。それとも、信仰によって神にしがみついて、聖書が教えるように応答していますか。

服従が試される

主にあって信仰を働かせ、忍耐を働かせたなら、次は服従を働かせることです。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコブ1:2-4)。

このみことばにある唯一の命令が「忍耐を完全に働かせなさい」です。これは、手術をするときと同じです。外科医に手術が必要ですと言われたら、「分かりました。痛いでしょうけれど、我慢します」と言うでしょう。私たちは医者を信頼し、手術は最終的には自分の益になると信じます。次のような場面を想像してみましょう。あなたは手術室に運ばれ、スタッフが準備をします。外科医が入って来て、鋭いメスの置かれたトレイのそばを通り過ぎました。看護師が医師の手に手袋をはめ、メスの乗ったトレイを手元の台に運びます。その時点で、あなたは「やっぱり、やめた」とつぶやき手術台から飛び降ります。すると医者はメスをつかんで、あなたを追い回し、手術しようとします。

こんなことは起きるはずはありません。しかし、神が人生の苦難を通して私たちを成長させようとされるとき、私たちはこれと似たことをして、神をてこずらせるのです。ですから、ヤコブの手紙1章4節は、神のされるままにしていただきなさいと命じます。私たちは、手術台から飛び降りたい衝動をぐっと抑えて、外科医である神を信頼し、忍耐しなくてはなりません。結果的には、喜びと賛美をささげることになる、と知っているのですから。

祈りに頼る

そしてヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、...神に願いなさい」(ヤコブ1:5)と語り、祈りなさいと勧めます。何をすべきか、どう応答すべきかが分からないときは少なくありません。そのときは、御父のもとに行って知恵を求めましょう。苦しみが深すぎて祈れないとか、どう祈ったら良いか分からないときもあります。そのときは、ローマ人への手紙8章28節を思い出しましょう。このみことばは、聖霊が言葉では言い表せない思いやうめきを御父の前に持ち運び、みこころに従って私たちのためにとりなしてくれると語ります。苦難の中で祈るとき、私たちは神を見上げます。問題に焦点を当てるのではなく、神に焦点を当てます。全能のお方、あわれみ深いお方、正義のお方を見つめるのです。

祈りは、私たち自身の姿も明らかにします。困難の中で「主よ。山本さんと鈴木さんの問題をご存じでしょう。彼らは...」と祈り出すと、主が私たちをさえぎって「彼らのことは分かっているよ。でもまず、お前のことを話そう」と言われます。祈りは、「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」(ヤコブ1:4)となるために、向き合うべき自分の課題を明らかにします。神はいつも、「彼らのことは、私に任せておきなさい。さあ、お前のことを話そう」とおっしゃいます。

祈っていると、聖書の教えが心に浮かぶことがよくあります。聖書のみことばと、それをどのように適用すべきかが示されます。これは神の知恵です。神について、私について、神のみことばについての知恵です。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、 ...神に願いなさい」(ヤコブ1:5)。困難を乗り越える簡単な方法はありません。しかし、正しい方法はあります。それは、困難を喜びにすることです。信仰を働かせ、服従を働かせ、知恵を求めて祈ることが正しいと知って困難を受け止め、喜びにするのです。

困難は神の目的に到達する道だ、という信仰を持つためには、自分自身の人生の目的が、神の目的と一致していなければなりません。もし、あなたの人生の目的が、快適に暮らし、みんなに好かれ、幸せで、貯金もあり、欲しいものが買えることなら、困難に希望を見いだすことはないでしょう。あなたの存在目的は、こんなものではありません。神にとって最も大切なことは、あなたの人格です。金銭や利便性、快適さではありません。他人の幸福や永遠の価値のために、あなたはどれほど貢献できるでしょうか。その実力が、神にとっての関心事です。単に幸せに過ごすことではありません。私たちの試練の価値は、私たちが困難の前と比べてイエス・キリストに似たものに変えられてきたかどうかです。私たちの痛みは、私たちを神の目的に至らせます。神は私たちの悲しみを無駄にはされません。

苦しい状況に陥ったとき、頭の中を様々な疑問が駆け巡りますが、確かなことは「誰」と「何」に関する答えです。「誰」について言えることは、「私」と「神」です。神は私の内で、また、私を通して働かれます。神は頼れるお方であり、信用できるお方です。私の成長が完了して神のご栄光が実現するまで、神は、御恵みをあふれるように注いでくださいます。

「何」について言えることは、紛れも無い真実で信頼できるものに関する私の知識です。私たちは、真実を受け止める以外の非生産的で破壊的な反応を断固として退けます。また、神の力強い御手によって、試練は最終的には喜びに変えられると信じることを選びます。私たちは、過去の体験や自分の感情に支配された反応を許しません。そして、真実だと信じていることに沿って応答をするようにします。神に関する真実に信仰によってしがみつき、試練を喜びと見なします。神の約束、神のご性質、神の御業を信じ、神のなさることに服従し、試練のもとで知恵と忍耐が与えられるように祈ります。 私の品性と実力が成長し、神の栄光が反映されるまで、そうします。

成長と栄光の原則は、聖書の中に何回も示されています。私たちを御子の姿に似たものとするために、神は必要なことをなさいます。これが、新約聖書を貫くテーマです。神の目的は、私たちを有能で役立つ者に成長させることなのかもしれません。または、神の御国にリスクを持ち込まないように困難を用いておられるのかもしれません。「自分のことは自分でする」という姿勢が、苦難によって、「神によらなければ何もできない」という姿勢に変えざるを得なくなったとき、私たちは成長するのかもしれません。神の栄光が私たちを通して輝くのは、敵の攻撃をすべて、私たちの内に働く神を証明するものに変えようと、私たちが頑張るときです。そのとき、私たちを通して神が働かれます。

真理があなたを守るー神の支え

5番目の確かな真理は、神の支えです。パウロは、コリント人への手紙第二12章7~9節で、「肉体のとげ」との闘いを語っています。これを取り去ってくださいと3度も祈りましたが、その願いは叶えられませんでした。そこで、この苦しみが生涯続くことを受け入れました。そして、自分の弱さの中に神の強さが表されるようにしよう、と前向きに決意しました。その結果、パウロは発見したのです。神の恵みは試練を生き抜くサポートとして、十分すぎるほどのものでした。

長い牧会生活の中で、私は想像を絶する苦しみの中にいる人たちの傍らに立ってきました。実際のところ、「すごいなぁ」と感心することが少なくありません。自分だったら、どうすることもできなくなってしまうだろうと思います。そんなとき、パウロの 「(神の)恵みは十分である」(IIコリント12:9)ということばが響いてきます。神の恵みは、永遠の御腕のようです。私たちを包み、私たちを支えてくださいます。倒れそうになれば、その御腕がさっと前に差し伸べられ、私たちを受け止めてくれます。

私たちが助けるに値するから、神の恵みをいただけるのではありません。神の恵みは、 苦難のとき、そこにある助けです。神の恵みはどれほどあるのでしょう。それが尽きてしまうほど、大きな問題があるでしょうか。そんなものはありません。ですから、パウロは「わたしの恵みは、あなたに十分である」と神に語られたのです。

真理があなたを守るー神の力

4番目の確かな真理は、神の力は大変な状況の中で働いているということです。すごく性能の良い車を持っている友人がいます。その車に乗せてもらうと、信号待ちのときに「エンジンをかけて」と言いたくなります。この車は、エンジン音も振動も全くないのです。私が所有者なら、エンストしたと思ってエンジンキーを何十回も壊していたでしょう。アイドリング中であることを示すタコメーターがなかったなら、動力が作動していないと勘違いします。神の力も、問題解決に向けて作動中です。しかし、私たちは往々にして気づきません。神の御業の痕跡が見えないこともあります。ところが、神の力は忙しく働いています。

神の力は、悪いものから良いものを生み出す

神の力は少なくとも三方面で働いています。そのひとつは、ローマ人への手紙8章28節が明らかにしています。神の力は、悪いものから良いものを生み出します。神の力とは、最悪にひどい状況を変化させ、最終的には益を生み出すことができる驚異的なものです。落胆したり失望したりしたときには、創世記37章から50章までに記されているヨセフの物語を読んでください。ヨセフは、自分の家族に裏切られて奴隷に売られ、エジプトに来ました。ポティファルの家に仕え、そこで地位を上げていきました。すると、主人の妻から日常的に誘惑されるようになりました。

美しく官能的な妻を持つことは、エジプト人にとって自慢でした。ポティファルは有力な官僚でしたから、妻は絶世の美女だったでしょう。夫は仕事で家を空けがちで、彼女は寂しかったのかもしれません。ヨセフは若くて凛々しく、日々、万事を取り仕切っています。ある日、彼女は彼に取りすがり、彼は逃げ出します。神は言われました。「ヨセフ、よくやった。私の心がよく分かっている。」ところが、彼は三年間も投獄され、誰からも忘れ去られてしまうのです。(神はその間、彼から高慢を取り去っておられたのかもしれません。)しかし、神は、みこころのときにヨセフを救い出し、国王に次ぐ地位につけられました。

その地に飢饉(ききん)があり、ヨセフを裏切った兄たちが食料を求めてやって来ました。彼らの生命はヨセフの手中にあります。後からエジプトにきた父が死ぬと、兄たちはヨセフが仕返しのために自分たちを殺すのではと恐れました(創世記50:15)。彼らはヨセフの前にひれ伏しますが、ヨセフは答えます。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(19-20節)。神の力は、ヨセフに起こった最悪の出来事を作り変えて、良いものになさったのです。

悪を益に変える神の力は、あの十字架ではっきりと実証されました。神の御子が犯罪者として十字架につけられました。これほど不公平で、残虐で、人として耐え難い瞬間が、人類の歴史にあったでしょうか。地獄では3日間、大喜びです。サタンが勝ちどきを上げました。勝利の御子をやっつけたのです。ところが、神はこの驚異的な悪を転じて、素晴らしく良いものにされました。それは、罪からの救いです。地獄は天国に取って代わられました。

残念なことですが、私たちは忍耐して待つことをせず、自分なりにものごとを進めようとしがちです。神が素晴らしいことをしようとしておられるのに、私たちは復讐しようとしたり、自分の意地を通そうとしたりで、神の御業の邪魔をします。私たちは「罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Iペテロ2:22-23)というキリストの模範に倣わなければなりません。

神の力は、私たちの敵を取り扱われる

次に、神の力は、私たちの敵を取り扱われると言えます。ヨセフは兄弟たちに「どうして、私が神の代わりでしょうか」(創世記50:19)と言いましたが、この態度は適切です。パウロは、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」(ローマ12:17)と教えました。神は正義を行われるのだから、兄たちに復讐するのは自分の役目ではないという姿勢は、真理の教えを実践しています。「神さま、彼らのことはお任せました。どうぞよろしく」と言えるなら、私たちの心は自分の敵から解放されます。そして、神に倣うものとなって敵を愛せるようになります。

聖書は語ります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:19-21)。私の人生にトラブルを持ち込む人がいても、神が、その人をふさわしく取り扱われると分かっているなら、大らかな気持ちになれます。そして、その人を愛せるようになります。

イエスは言われました。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:43-48)。

問題は、やはり私たちが邪魔すること、つまり自分の想いで動くことによって、神の計画を阻害することです。神は、何が正義かという判断を下したり、敵に復讐したりする能力を人に与えられませんでした。ですから、そんなことをしようとすると必ず失敗します。これをきちんとする権利や力、そして知恵をお持ちなのは、神だけです。

私のところにやって来て、夫の悪口を長々と述べ立てた婦人がいました。結婚してどのくらいになるのかと尋ねると、40年以上だと言います。私は、家庭を壊すような助言をするつもりはいささかもありませんが、ひどい夫だと言い続けるので、ついにこう尋ねました。「おっしゃることが事実なら、なぜ今まで一緒にいたのですか。別れようとは思わなかったのですか。勧めるわけではありませんが、お考えが知りたいのです。」彼女は言いました。「とんでもない。離婚なんて考えたこともないわ。」

立派なことだと感心するのは早計でした。話を聞き続けていくと、彼女が夫を憎んでいることは明らかでした。離婚してしまったら、もはや夫を苦しめることができなくなるので、別れずにいたのです。敵をたたきのめす機会をひとつとして逃したくなかったのです。私たちは、もっとましな生き方に召されています。私たちはトラブルの真っただ中で、神を信じます。神が私の敵に報いられると信じるのです。そうすれば、解放されて天の父に似た者となれます。自分をのろう者を祝福し、意地の悪い者のためにも祈り、敵を愛する自由を得ます。神の力がその人を最終的に、正しく裁かれるからです。

神の力は、私たちを離さない

さらに、コリント人への手紙第二4章7~9節には、次のように記されています。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」

嬉しいことに、私という存在は、神の目に高価で尊いものです。私は崖っぷちに立たされるかもしれません。しかし、神と正しく向き合い、試練と適切に付き合うならば、すべてを治める神は素晴らしい御力によって、どんなときも私を守ってくださいます。

詩篇にはよく、神がその右の手で私たちを支えると書かれています。「神の右の手」とは、力を表す旧約聖書的な表現です。子どもの手を引いて歩くときのことを思い出してください。子どもは理由もなく突然足を滑らせて、バランスを崩すことがあります。しかし、あなたの腕の力が、その子を「破滅」から救うのです。何と素晴らしい比喩でしょう。私たちは、神の強い右の手に支えられて人生という道を歩んでいます。足を取られて転びそうになっても、神の支えがあるので大丈夫です。神の力は確実です。私たちは結局のところ守られているので、完全な破滅に至ることはありません。

真理があなたを守るー超自然的な方法

3番目の確かな事実は、神には私たちを超自然的な方法で救い出す選択肢もあるということです。コリント人への手紙第一10章13節の後半は、「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と語ります。ペテロの手紙第二2章9節は「信仰のあつい人を試練から救い出す」(新共同訳)と述べていますが、私はこのみことばが好きです。八方ふさがりで逃れる窓も扉もないという困難な状況に追い込まれても、神は私を救う道をすでに備えておられます。神は脱出路を作るエキスパートなのです。サウルに追われていたダビデは、冷たい洞窟の中で神に叫びました。「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」(詩篇13:1-2)。

ダビデのように神に忘れられたと感じるとき、私たちは自分で脱出の道を作りたくなります。「そうだ、こうしてみよう。いや、だめだ。うまくいかない。ああしてみよう。いや、これもうまくいかない。」八方ふさがりで出口が見つからないように思えます。目を見張るような神の奇跡によって、イスラエル人たちはエジプトから救出されました。しかし、紅海まで来たところで、追いかけて来るエジプト軍の砂埃を地平線の上に見たのです。彼らの反応はどうだったでしょう。「エジプトでは想像すらできなかった方法で、神は救ってくださるに違いない。あのときの十の災いを覚えているか?あのような形で救済されるなど、我々は考えもしなかった。今度はどんなことをしてくださるのだろう。きっとすごいぞ!」このように言ったでしょうか。いいえ。実際は、「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かった」と言ったのです(出エジプト14:12)。

ところが神は、彼らが夢にも思わなかったご計画を持っておられました。神はモーセに言われました。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」(15-16節)。この続きはご存じの通りです。海が分かれ、イスラエル人は渡りました。エジプト軍が後を追って入ると、海は元に戻り、彼らは石のように沈みました。神の民は解放され、困難は去りました。 神は正しい者を難局から救い出す方法をご存じなのです。

クリスチャンになったばかりの婦人の相談に乗ったことがあります。神に喜ばれる女性になりたいという願いを持っておられたので、妻が夫のリーダーシップに寛大な態度で協力するということについて、聖書のあちらこちらから学んでいました。ある時、彼女が言いました。「先生、大きな問題があります。ダイニングセットを買おうと思い、自分のお金を今まで貯めてきました。義母の持っているのと似たようなものが欲しいので、中古品家具店を夫と一緒に見て回っているのですが、彼は上の空です。気に入ったものがいくつかあったのですが、夫は、『ぼくは嫌いだ』なんて言うんです。」私は、神の御業を忍耐強く待ちましょう、と励ましました。ところが次の週になると、事態はかえって悪くなったと言います。「夫は家具のことなんて、どうでもよいのです。フランス製の高級家具でも、安物のリサイクル品でも同じです。夫の興味は、ソファーに座って新聞やテレビを見ることだけですから。」

ところが、二週間ほどたって、彼女はこう言いました。「先生。信じられないことが起きました。義母がダイニングセットを新調したから、古いものをいらないかと尋ねてきたんです。」神がいつもこのように働かれるわけではありませんが、神の救済策が何通りもあることは明らかです。私たちが苦しくても主に忠実であり、忍耐をもって待ち続けるなら、神のみこころのときが来ます。そして、神の救済策は、私たちが夢にも思わない方法です。

真理があなたを守るー許容範囲内の原則「耐えられるからこそ」

ふたつ目の現実は、許容範囲内の原則という真理です。コリント人への手紙第一10章13節は、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません」と続きます。ここに、耐えられない試練は与えられないことが保証されています。小川に架かる橋の手前に「重量制限5トン」という標識があるようなものです。神は、私たちの「重量制限」をご存じですから、私たちの荷を制限されます。

私が以前に住んでいた州には、ビンの回収条例がありました。空きビン1本を返却すると10セントになりました。しかし、度々返却に行くのは面倒です。というわけで、空きビンがガレージに山積みとなり、これ以上放っておけなくなってきました。ある日の夕方、ついにスーパーへ持って行くことにしました。すると、就学前だった息子のマシューがガレージまでついて来て、立派なことに「パパ、ぼくが手伝うよ」と言ったのです。(幼くて助けにならない時には手伝いたがり、頼りになる年頃になると手伝いに興味を示さない。子どもはなぜそうなのでしょう。)私は「じゃあ頼んだよ」と答えました。彼は、ビンの入った箱をふたつ抱えて、苦労して車に入れました。

ふたりしてスーパーに出かけました。私はカートを持って来てビンを山積みにし、腕にも少し抱えて歩きました。マシューはビンをふた箱抱えていましたが、駐車場を半分横切ったところでそれを地面に降ろし、私を見上げてつらそうに言ったのです。「パパ。無理だよ。重すぎて。」それに答えて私が、「いいかい、マシュー。君が言い出したんだから、元気を出してきちんとやるんだ。ビンを持ち上げろ。5つ数える間に」と言ったと思いますか。言うわけありません。父親ですから、息子の限界は分かります。私はマシューの箱を拾い上げて、カートに乗せました。さて、罪人である私が自分の息子にこうするのなら、私をよくご存じの天の御父は、私に耐えられないような荷を負わせられるでしょうか。答えは言うまでもありません。神があなたの人生に許される苦難は、あなたにとって耐えられるものなのです。

これには耐えられそうもない、と思うことがないわけではありません。しかし、私たちのことを私たち以上に知り尽くしておられる神が許されたのなら、その問題は、私たちの許容範囲を超えていないはずです。この保証の中には、私たちは曲げられることはあるが壊されることがない、という約束も含まれています。私たちの人生がもろくも崩れてしまうのは、私たちが試練に対して不適切な応答をするからです。自分の不適切な応答によって、敵意や恨みなどという荷を自ら追加してしまうからです。この原則には、見逃してはならない重要な点があります。神は長いこと「私」のためには何もしてくださらない、と感じる時が、誰にでもあります。神は他の人のためには色々されているのに、私の人生には超自然的なことがほとんど起こらないと。私たちはふてくされて、神はどこかで働いておられるだろうが、「私の人生には働かれない」と思ってしまいます。

しかし改めて考えれば、もし、神が罪から贖う以外には何もしてくださらなかったとしても、私は神から身に余るものを受けています。罪の贖いだけでも、残りの人生を神の栄光のためにささげる十分な理由です。けれども、神はそれ以上のことをなさっています。私という存在の門番として毎日、すべてを計り、私の許容範囲を超えるものが入り込まないように、未然に削除しておられます。私の知らないうちにです。時々、私は床に就く時に、私の知らない間に神がしてくださったことを感謝することがあります。何も感謝することがないと思ったら、あなたの問題が耐えられるものであること、そして致命傷になるものから神があなたを守ってくださっていることを感謝してください。

真理があなたを守るー共通性の原則「自分だけではない」

パイロットは、嵐や暗闇の中を自分の感覚に頼って飛ぶと、方向感覚を失うと言います。視界ゼロで飛行すると、自分ではまっすぐ前進していると感じても、実際は周回している場合があると経験者は語ります。このような場合、パイロットの体感と計器の表示は正反対です。安全に飛行するには、計器に頼らねばなりません。計器こそが、パイロットに事実を正しく告げてくれるからです。

困った状況になったとき、確実なものは、自分の感じとは無関係に真実を伝えてくれる計器類です。傷ついている人たちは、私によくこう言いました。「頭の中では何が正しいか分かっている。でも何かしっくりこないんだ。」私たちは、頭でしか分からないなら助けにならない、と考えがちですが、そんなことはありません。

痛みから抜け出すプロセスのひとつは、頭で理解していることを逃がさないようにすることです。心が傷ついて機能していない時は、脳から感情への情報伝達が途絶えてしまったかのように感じますが、それはそれで良いのです。ただ、頭で解っていることを無視してはいけません。これこそが、困難を乗り切る鍵です。神のみことばが「それをこの上もない喜びと思いなさい。...あなたがたは知っているからです」(ヤコブ1:2-3)と言っているのは、まさしくこのことです。

私たちは試練の中で何を知ることができるのでしょう。困難の真っただ中にいるとき、首尾よく脱出に導いてくれる、信頼できる計器は何でしょう。

揺るがされない真理は、ヤコブの手紙1章3~4節によるなら、「信仰がためされると忍耐が生じる」ということです。また、「その忍耐を完全に働かせ」るべきだということ、そうすれば、「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となることができるというものです。つまりヤコブは、痛みは目的を果たすための過程だと言っているのです。このことを知っているなら、私たちの応答は喜びとなり得ます。

私たちが困難に見舞われたとき、自分の心をしっかりつなぎ留めてくれる碇(いかり)は、聖書の中に少なくとも6つあります。

共通性の原則「自分だけではない」

この6つの碇のうち、「頭で理解できる」3つの真理は、コリント人への手紙第一10章13節にあります。最の部分はこうです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。」残念なことですが、英語の「試練」(temptation)という単語は、罪の誘惑という意味でのみ使われる傾向にあります。確かにそれは、この単語の意味のひとつですが、それだけにしてしまうなら、このみことばの教えを著しく狭めてしまいます。この「試練」(temptation)という単語は、興味深いことに、ヤコブの手紙1章2節の「試練」(trial)と同じ語群の中にあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

つまり、コリント人への手紙第一10章13節は、「あなたがたの会った困難は、みな人の知らないものではありません」と読むことができます。ここから、困難に直面した際によりどころとなる、第一の原則を導き出すことができます。それは、「自分だけではない」ということ、すなわち共通性の原則です。

その種の問題に遭遇したのは、あなたひとりではありません。これは確かです。神が人類の歴史の中からあなたひとりをお選びになって、このような状況を体験させられているわけではありません。あなたの前にも後にも、あなたのような人がいます。

「同病相憐れむ」と言いますが、実は、悲しむ者には友が必要です。それは、ひどい孤独感から私たちを守り、同じ苦しみと戦った人たちを捜し出す力をくれ、その苦しみに未だ遭遇していない人たちを助けるために役立ちます。現代の日本の教会は、昔にはなかった恵みがあります。そのひとつは、良質のキリスト教書籍が豊富にあることです。今日、キリスト教書店は、苦しみを体験した人々の良い証を見つけることができます。それは、苦難を忍んだ英雄たちの伝記、突然の悲劇、虐待、家庭崩壊、失望など、色々な問題を具体的に取り扱った文書です。

あなたが今、試練の中にあるならば、同じような苦しみを通って恵みを知り、成長し、 栄光を見るに至った人を見つけることができるはずです。支えてもらったり、洞察を与えてくれる人たちとつながることは、大変役に立ちます。最後まで戦い抜いて、勝利を収めた英雄たちを捜してください。あなたの苦しみは、あなたひとりのものではありません。神は、ご自身の恵みとあなたの成長を、みこころのときにひとつにされ、「私も同じ経験をしました。私にできることはありますか?」という声かけを待っている人のために用いられます。こうしてあなたは「共通性の原則」という真理を実現させるのです。牧師としての大きな葛藤は、ひどい苦しみの中にある方々のそばに立つことでした。軽々しく「お気持ちは分かります」と言うべきではないことを、私は早くに学びました。私には分からないからです。経験がないのですから。ところが、現にそういう経験のある人がそこに現れて、苦しんでいる聖徒の肩に手を置き、「分かりますよ。話しましょう」と言うことがあるのです。