フランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝わったのが1549年。16世紀後半を通じてその布教活動は順調に進んでいきましたが、豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令が1587年に発布されたことにより、迫害の時代が幕を開けます。

1596年、スペイン船サン・フェリペ号が浦戸に漂着すると、秀吉は積み荷の没収を命じます。サン・フェリペ号に乗船していたフランシスコ会士は積み荷の返還を求めましたが、この動きに端を発して、秀吉のキリスト教に対する弾圧は激しさを増していきます。

秀吉は、京都奉行の石田三成に、フランシスコ会員・キリスト教徒全員を処刑するように命じます。結果、大坂・京都で、24人が捕らえられ、処刑場である長崎へ向かう途中捕縛された他の2人とともに、計26人が長崎の西坂の丘にて処刑されました。十字架につけられた26人は讃美歌を歌い、死の直前、パウロ三木はキリストを証ししたと言われています。

江戸時代に入ると、1614年に徳川家康が禁教令を発布。さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは、幕府による徹底したキリシタン取り締まりが行われました。

それでも、日本におけるキリスト教信者は途絶えることなく、「潜伏キリシタン」となって、少人数でひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続けました。慈母観音像を聖母マリアに見立てたり、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったりして信仰を守りつづけたのです。

幕末開国後の1865年、長崎の大浦天主堂をある信者が訪ねてきたことから、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになりました。キリシタン禁令は開国後、そして明治時代に入ってもつづきました。しかし、政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、1873年、ようやく「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められることとなりました。

前述の日本26聖人は、1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられました。また、2018年6月30日には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)が世界文化遺産に登録されました。

秀吉の伴天連(バテレン)追放令から数えると、約280余年におよんだ日本の禁教。「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネの黙示録2:10)という聖書の教えに忠実に生きた名も無き人々は今や天国で「命の冠」を授かり、私たちを雲のように取り巻く証人となっています(へブル書12:1)。