それでは、イエス・キリストに従う競争者の姿とはどんなものだろう。それは、イエス・キリストご自身のような姿だ。ただし、クリスチャンによって作り上げられた滅菌消毒をしたような清いイメージ、またはクリスチャンでない人々によってイメージされる白く長い衣をゆるやかにまとい、実社会には無関心で、孤立したおとなしい優男というイエス・キリストではない。これらのイメージは、実際の福音の物語とかけ離れている。例えば、祈りの家であるべき宮をまるで盗人の隠れ家のように扱った者らを追い払ったりしたイエスは、実に荒々しい。また、ユダヤの不毛の荒れ地を歩き、40日間も断食を続け、敵と真正面にぶつかったのだから、頑強そのものだ。

歴史に名高い、善と悪の闘いの場面を考えると、あることに気付く。この対決に、イエスは応援もなく、一人で立ち向かったわけではない。主イエスと敵対者との決闘の直前、イエスは、天から響く父なる神の御声によって、聖なる業を奨励された。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という神の御声が下った。

だから、誘惑が起こった時、イエスは敵に立ち向かう強靭(きょうじん)さを示されたばかりか、競争の世界でも品位を保って生きるとはどういうことか、身を持って教えてくださったのだ。

それでは、イエスを敗北させようとしたサタンの試みについて、マタイはどのように述べているか、見てみよう。

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、 神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた (マタイ4:1-11)。

このように、試みる者は、3度もイエスを誘惑しようとした。しかし3度とも、イエスは旧約聖書の申命記から適切な聖句を引用して、敵に立ち向かった。その過程で、イエスは誘惑に打ち勝っただけでなく、名誉を持って、競争社会を生き抜くための原則を教えてくださった。

誰もパンだけで生きてはいけない

悪魔は最初、石をパンに変えることで神の子であると実証するよう、イエスに迫った。 それに対してイエスは、どんな競争者の人生をも光り輝くものとするような究極の自信で応じられた。イエスは、こう言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4:4、申命記8:3)。

これは昔、神の民が40年もの間、砂漠や荒れ野をさまよったとき、神ご自身から必要なものを民に与えてくださったことを指している。

その時の原則は、今も変わらない。私たちは、自分の力だけで生きているのではない。 また、食べ物や金の力だけでは生きられない。私たちは、神のご慈悲や恵みのお陰で、減ってゆく限りある資源の世の中に生きている。その知識こそが、勝ち負けに左右されない、私たちの自信なのだ。

神の恵みに対して付け上がってはいけない

サタンの二つ目の誘惑は、神殿の尖塔上で繰り広げられた。神とのきずなを証明するために、イエスに飛び降りるよう、サタンがささやいた。要約すれば、「あなたが本当に人々の待ち焦がれた救い主、メシヤなんだったら、飛び降りて実証しなさいよ」と言ったわけだ。「神の子なんだったら、父なる神が天使を送って守ってくださるはずでしょう。」

イエスはそれに対して、「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4:7、 申命記6:16)と反論された。この引用は、ユダヤの法律の中で、モーセがイスラエルの民に対して、他の邪教の神に従っておきながら、同時に真の神の恵みを受けられると間違っても考えるな、と教えた部分だ。

その原則は、私たちの社会にも当てはまる。闘いの熱気の中で、「自分のことは自分で守らなきゃ」という悪魔のささやきに耳を傾けてしまってはいけない。

「自分をちゃんと守らなきゃ、誰もあんたの面倒なんか見てくれないんだから。大丈夫、ちょっといい加減にやったり、ルール違反したぐらい。どうせ、みんなやってるんだから。それに、神さまだってわかってくれるよ。本当に愛の神なんだったら、許してくれるってば」というのが悪魔のささやきだ。

しかし、そんなやり方が、神に対して忠実でないこと、自信と名誉を掲げて競争社会を歩んでいく生き方とはかけ離れていることを、イエスは教えてくださった。

神のみを信頼し、礼拝せよ

サタンの三つめの誘惑は、一番大きい誘惑だ。自分にひれ伏して拝めば、闘うこともなく、世界を手にすることができる、とサタンは言った。

しかし、またもやイエスは神の深い知恵とみことばだけに頼って、この誘惑をはねのけた。そして、こう言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10、申命記6:13)。

人生で特に激しい競争におかれる時期には、私たちは勝利とか、金銭、名声などといったものをついつい、神のようにあがめてしまう。世間は敗者に冷たいと知っているからだ。だから、世間で神のように扱われるものにひれ伏し、それを拝んでしまう。

しかし、愛に満ちた天の父なる神は、自分の都合に合わせて、神を信頼したり、しなかったりしてはいけない、といさめてくださる。

イエスは、主なる神のみを拝み、至高の誉れを神のみにささげることが、最大の自信につながることを教えてくださる。Dave Branon

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