競争願望は、放っておけば紛争になって、ごうごうと燃え盛る炎のように広がっていく。だからといって、競争を避けるべきだというのではない。しかし、人を押しのけたり、自分の人格(人としてのあるべき姿)を失ったりしても勝ちたいと願うようなら、自分の動機を見直す思慮深さが必要だ。
競争の危険な面をきちんと考察することで、競争の負の面を避けることができる。
貪欲という危険
誰だって給料をもらえばうれしい。これは自分がつぎ込んだ時間や努力、技術、献身などに対する金銭的な報酬だ。同じ給料をもらうにしても、ある人たちにとっては、うれしさの度合いもけた違いだろう。この競争社会において、一部の人は、信じられないほどの金持ちになるのだ。例えば、ある服飾関係企業のCEOは、 2007年に2,600万ドル(約24億5,200万円)も稼いだそうだ。これは、単純計算で毎月の給与明細が約2億円というのと同じだ。この人は、競合各社を徹底的に打ちのめした報酬として、巨額の給料をもらっている、といってもよいだろう。
これほどもうける人がいると、資本主義社会には「貪欲(どんよく)」という危険が存在すると、改めて気づかされる。最低賃金で働く人が、2千年働き続けてようやく手にするのと同じ額の報酬を、たったの一年で稼ぐ企業の野獣たち。彼らの心がどんなものか、私たちはもちろん、知る由もない。しかし、競争の世界で貪欲が台頭することは知っている。
それでは、 スポーツ界の競争について考えてみよう。 ここでも貪欲さと競争心がごちゃまぜになった例がある。あるメジャーリーグの投手は、「僕に大金を払って、失望した人はいないはずだ」と発言した。このように、より多い報酬を求めてばかりいると、いつか人間は、契約交渉に対する考え方までおかしくなってくるのかもしれない。
プロスポーツ選手向けのある雑誌は、何千万円もする腕時計や一泊数百万円のリゾートホテルの特集などを組む。こうして裕福な選手たちの貪欲さを刺激して、売り上げを伸ばそうとするのだ。
もちろん、金持ち選手たちの多くは、貪欲さを動機にしてスポーツをやっているわけではない、と反論するだろう。そうかもしれないが、選手とチームの間で繰り広げられる契約交渉をいくつか取り上げれば、「異常なまでの金銭的欲求」という「貪欲さ」の定義が、ある程度当てはまると一目でわかる。
人は競争によって、今以上の何かを手に入れようとするが、これは、お金に限ったことではない。例えば会社員なら、より高い役職、より良い待遇、より長い有給休暇などの優位性を得ようとする競争がある。フェアな姿勢を求められるスポーツの世界でさえ、プレーする時間やコーチに注目されることに貪欲になる。また試合中は、観客の称賛を得ることでやっきになる。
ルール違反の誘惑
近年、競争と言えばルール違反をして汚名を残した人たちを思い浮かべる、というのが大方のところだ。
ビジネスの世界では、裕福な企業のトップが罪を犯して、重役室から一転、刑務所の独房行きになってしまった例もある。競争で一歩先を行こうとすると、法律上の一線がぼやけてしまうことがあり(多分、先にも述べた貪欲さのせいだろうか)、優位な立場を得ようとして不正行為を働いてしまうことがある。スポーツ界では、選手たちが身体能力を飛躍させる薬物を使って、使わない選手たちを出し抜いたというスキャンダルが絶えない。彼らは、正々堂々とプレーするライバル選手たちの裏をかき、ずるいやり方で勝とうとした。
競争者たちは、周知のリーグ規則や明文化された法律があったにもかかわらず、一線を越えてしまったのだ。彼らは競争したが、競争自体がこのような違法行為を招いたのではない。また競争が告発のもとだったわけでもない。彼らは、正当な競争をせず、抜けがけを選んだ。問題の原因は、彼らが置かれていた状況ではない。彼らが判断を誤ったことだ。
不正行為があまりにも当たり前になってしまった一部のスポーツでは、「ズルくない奴はやる気がない」とまで言われる。これでは、ルールを守って戦おうとする選手たちの負担がさらに大きくなってしまう。
競争に勝った時の報酬があまりにも大きいので、ルールを曲げようが、 不当であろうが、とにかく優位な立場を得ようという衝動に、ついかられてしまう。
優先順位を間違える危険性
フランシス・A・シェーファー財団のウド・ミデルマンによると、スポーツは多くの人にとって、人生で最も魅力を感じるものになってきたそうだ。
頑張って競争していると、こうなりやすい。男女を問わず、競争したり、人が競争するのを応援したりするのが好きな人は大抵、非常に勝気な性格だ。大切な人との時間や、お互いを尊重した付き合いや、競争よりもっと重要な活動に関わることを犠牲にしても、 とにかく成功したいと考えるようになる。
ビジネスマンのグレッグ・ブルゴンドの説明によると、競争の真っただ中にいる人は、まるで勝利自体が神でもあるかのように、どんなものでも平気で犠牲にできるそうだ。彼はこう書いている。
「私の娘は、高校の時、バスケットボールの試合を見に来て欲しいと、何度も私に言ったものです。当時、娘は学校を代表するチアリーダーでした。そして私は、ある企業のゼネラルマネージャーでした。娘に対して、どうしても行けないと、もっともらしい理由をいろいろ並べ立てたのを覚えています。しかし、それらが何だったのか、今では思い出せません。覚えているのは、行ってやれなかったという事実だけです。その頃の私にとって、業界における自分の影響力より大切なものはありませんでした。」
さて、競争の場で、自分の意見だけが正しいと思って行動すると、大恥をかく。レフリーの判定に逆らって、立派なスーツを着込んだ大人が、かんしゃくを起こした子供のように振る舞うのを見て、がっかりした経験は誰にでもある。選手やコーチ、マネージャーが、試合が思い通りに運ばないことがあったからといって、わめいたり、暴れ狂ったり、腹の底から怒りを吐き出しているのをYouTube(ユーチューブ)で見たことがあるだろう。ビジネスや教会の役員会でもそうだ。メンバーたちが、自分の意見に固執したり、言い争ったり、恨みがましく意見をひっこめたりした様子を聞いたことがあるだろう。
競争に関わったがために、もっと良いことに関われない場合もある。例えば、野球観戦に夢中になること自体には何の問題もないが、一日に何時間もそれにかまけて、家族としての責任をないがしろにしたり、もっと価値のあることに時間をかけないような人は、優先順位を間違えている。試合観戦や応援にのめり込んだスポーツ・ファンが、日常生活をおろそかにし、家族との大切な時間を失っているという例が、実に多い。
競争は放っておくと、まるで悪い薬のように、私たちの心身をむしばんでいき、秩序正しい生活のリズムを乱し、優先順位を狂わせてしまう。そして、自分の人生をコントロールできなくなってしまう。Dave Branon
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