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C. P. Hia

C. P. Hia

ヒア・チェック・プァン氏は、妻リン ・チョーとシンガポールに住んでいます。みことばを愛するプァン氏は現在、RBCミニストリーズのシンガポール事務所で、特別顧問として仕えています。プァン氏夫妻には、子どもひとりと孫がふたりいます。

寄稿一覧 C. P. Hia

奉仕の賜物

ふと気づいたのですが、オートマチック車を運転するとき、ペダルを踏むのはいつも右足です。右足だけでアクセルとブレーキを操作し、その間、左足は何もせずじっとしています。これでは不公平なので、左と右の足を半分ずつ使い分けて運転しようと思ったならどうでしょう。こんなことは絶対にやってはいけません。

身体の部分には、そんな不公平があってよいのに、教会の中では皆が公平でなければならないと考えるのはどうでしょう。これが、ローマの初代教会が直面していた問題です。一部の人たちは、自分がある特定の奉仕(他の人はしていない)をしているということで、身の程知らずに思い上がっていました(ロマ12:3)。しかし、パウロは「すべての器官が同じ働きはしない」と書いています(4節)。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っています(6節)。神は他の人に仕えるために、その賜物をくださいました(6-13節)。私たちは人にではなく主に仕えているのですから、勤勉で霊に燃えつつ仕えるべきです(11節)。

ですから、あの人は〇〇をしているのに、私はそれができないとか、逆に、私ばかりが〇〇をして、あの人はしないなどと気にするのはやめましょう。そして、神があなたをどのように用いることができるかを考えましょう。今、神の国で、どのように用いていただけるかを考えるべきです。神は、御心のままに、あなたに賜物を与えられたのですから(3節)。

救われて

マヌエル・ゴンサレス氏は、2010年のチリ鉱山落盤事故の際、地下に69日間も閉じ込められた33名の作業員のところに最初に下り立った救助隊員です。彼は自らの命を危険にさらしながら、閉じ込められた人々を連れ戻すために先陣を切って、地下およそ700メートルまで降下しました。その後、作業員がひとり、またひとりとカプセルで地上に引き上げられてくる様子を、世界中がかたずを呑んで見守り、感動しました。

さて聖書には、これ以上に感動的な救出劇が記されています。アダムとエバの背信行為によって、すべての人は罪に捕らわれました(創2:17、3:6、19節、ロマ5:12)。人は罪から解放されない限り、「死」と向き合わなければなりません。それは肉体の死であり、永遠の死です。しかし神は、ご自身の御子イエス・キリストという救助隊員を送られました。イエスの死と復活によって「救い」が提供されました。これを受け入れる人は、罪の支配から解放され、罪の結果としての死から自由になれます(ロマ5:8-11、10:9-11、エペ2:1-10)。

キリストは、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリ15:20)。イエスは死からよみがえった最初の人であり、再び死ぬことのないお方です。キリストを信じる人は誰でも、このように永遠のいのちを与えられます(ロマ8:11)。

あなたはまだ、罪の捕らわれ人ですか。イエスの贈り物である「救い」を受け取りましょう。そうして永遠に、キリストと共に生きる人生の自由を楽しみましょう(使16:31、エペ2:1、コロ 2:13)。

空から見る目

車や飛行機、船舶を空から見ているように、位置を知らせて誘導するシステムがあります。これは、非常に高い技術です。例えば、多くの人に馴染みのあるGPSは、24から32の衛星が約2万キロメートルの高度を常に回っているからこそ機能します。正確な位置測定のためには、これらの衛星が絶えず一定のスピードと、高度を保たなければなりません。

満ち足りる

満足感を手に入れるのは簡単ではありません。信仰の英雄と目される使徒パウロでさえ、「満ち足りること」を習得しなければなりませんでした(ピリ4:11)。それは元々の性格ではなかったのです。

すべての状況において満ち足りているとパウロが手紙に書けたのは、非常に驚くべきことです。これを書いた時、パウロはローマで投獄されていました。パウロは、暴動を先導した罪や国家への反逆罪といった重罪で訴えられ、最高権力者であるローマ皇帝に直訴していました。彼には法に則った支援も、高い地位にいる友人もありませんでした。ですから、自分の訴えが取り上げてもらえるのを待つしかありませんでした。イライラしたり落ち込んだりしても当然だったでしょう。にもかかわらず、彼は満ち足りることを学んだと、ピリピ人への手紙に書いています。

では、どのように学んだのでしょう。きっと、過酷な状況にあっても満ち足りていられるように、徐々になっていったのでしょう。彼は、あらゆる境遇をも受け入れ(12節)、クリスチャンが差し出すどんな支援も感謝して受けました(14-18節)。何よりも神がすべての必要を満たしてくださると信じました(19節)。

自然に満ち足りたと思える人はいません。うらやましがる心が自分を人と比べさせ、不満を抱かせ、もっと欲しいと思わせます。パウロほどの窮地に陥る人は多くありませんが、私たちはみなそれぞれ、困難に直面します。そんな時こそ神を信頼し、満ち足りることを学びましょう。