寄稿者

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Herbert Vander Lugt

Herbert Vander Lugt

ルート師はデイリーブレッドにとってなくてはならない執筆者でしたが、2006年12月2日、主のもとに召されました。1966年にデイリーブレッドの3番目の執筆者となり、その後、特別研究員としてRBCミニストリーズに尽くしてきました。デボーションのためのエッセーだけでなく、「探求の書シリーズ」の冊子も多く執筆し、RBCの出版物全般の監修に携わってきました。ルート師は6つの教会で牧会し、1989年の退職後も協力牧師として3つの教会に仕えました。

寄稿一覧 Herbert Vander Lugt

音と沈黙

いろいろな意味で、教会は沈黙の場所ではありません。様々な音楽が、会堂いっぱいに響き渡っています。熱の入った説教が、聖堂にこだまします。教会のあちこちが、人々の笑い声や話し声であふれています。けれども、こうした様々な音のただ中で、人々を不安にさせる静けさがあります。ジョン・ストットはそれを、「我々の罪深い沈黙」と呼んでいます。信者同士で頻繁に言葉を交わしているにもかかわらず、救いや平安というような信者が持っているものを切望している未信者に対しては、言葉をかけることがほとんどない。そんな現実が、いかに多く見られることでしょう。しかも、本当ならば私たちがそんな人々のもとに出向いて行かなければならないのに、私たちは逆に、彼らが教会に来ることを期待しているのです。

有能な教会設立者であり伝道師でもあるラルフ・ネイバー師は、自分の仕事に落胆していました。彼が設立した26の教会が、会堂を建て、牧師の生活を支えられるようになってから間もなく、教勢不振に陥ったのです。彼が伝道集会を催した大きな教会でも、出席者の中に未信者はほとんどいませんでした。これらの教会は「教会に来ていない人々と関わりを持とうとしない、地域の中で孤立した小さなクリスチャンの群れ」だという疑いが十分ありました。教会指導者も一般信徒も、未信者に手を差し伸べる余裕がなかったのです。

そこでラルフ・ネイバー師は、ある行動に打って出ました。それは、これまでとはまったく違ったやり方で教会を打ち立てようとする試みでした。まず手始めに、彼はいわゆる「ハッピー・アワー」(酒類が割引きになるサービスタイム)にバーへ行き、自分はソフトドリンクを飲みながら、ビールを飲んでいる未信者たちに話しかけたのです。

さらに、自宅の裏庭でバーベキューパーティーを開き、隣人たちを招待しました。また古家を借り、40人の教会員に手伝ってもらって、24時間体制で売春婦やその客引き役、薬物依存者などに伝道しました。第一段階として、彼らの社会復帰の手助けをし、その後、自分の家に招待したのです。ひとり、またひとりと、彼らはキリストのもとに来るようになりました。

これは、紀元1世紀のコリント教会で起こったことと同じでした。主のもとにやって来た人々の多くは、いわゆる下層階級の人々です。彼らのほとんどは、教育も受けておらず、貧しく、社会的には何の力も持たない人々でした(Iコリ1:26-31)。しかし彼らは、キリストの言われた条件を満たしていました。というのもキリストは、善良な人々ではなく、罪人を救うために来たのだ、とおっしゃったからです(マタ9:13)。その基準からすると、コリントの人々は十分資格を持っていました。彼らはキリストにある赦しといのちを見いだす以前は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男色をする者、盗む者として生きていました。(Iコリ6:9-11)。

悲しいことに、キリストの福音を携えて、しいたげられた人々に手を差し伸べる、という手本に私たちが従っていないという現実は、しばしば起こっています。実際、裕福な人々にも、貧しい人々にも、教養のある人にも、ない人にも、手を差し伸べてはいません。教会内では互いに喜びを分かち合っているのに、キリスト不在の(かつての私たちのような)人々に対しては、近づこうとしません。もしそれが事実であるならば、これこそが「我々の罪深い沈黙」なのです。

母親としての人生

聖書のみことば:ルカ2:1-7、25-35

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべ ての営みには時がある。—伝道者の書3:1

私は牧師として、子育て中の多くの女性とともに歩んできました。病院に足を運び、この世に生を受けた赤ちゃんの誕生をともに喜びました。反抗期のティーン・エイジャーの娘や息子を心配して相談に来る母親たちには、神は子どもたちをしっ かり見守ってくださると話し励ましました。また、病気やけがの子どもたちが眠るベッドの脇に母親たちとともに立ち、その心の痛みを受け止めました。子どもを亡くし、悲嘆にくれる母親たちとともに泣きました。

イエスの母マリヤも、この喜びと悲しみを経験しま した。イエスがお生まれになったときは、どれほど嬉しかったでしょう(ルカ 2:7)。羊飼いや博士たちが拝みに来たとき、心が踊ったでしょう(8-20節、マタ2:1-12)。「剣が心を刺し貫く」とシメオンが預言したときは、どれほど不安だったでしょう(ルカ2:35)。そして 自分の息子が十字架の上で死んでゆくのを見て、胸をえぐられるような悲しみを体験しました(ヨハ19:25-30)。しかし、そんなひどい体験で彼女の母親としての人生が終わったわけではありません。イエスが墓からよみがえられた時、マリヤは喜んだこと でしょう。彼女はイエスを自分の救い主と信じました。そして、今は主とともに天の御国にいます。

母親は素晴らしい喜びと深い悲しみを経験します。しかし、それだけではなく、もし自らの人生を神に委ねるなら、子育ては、神の永遠の目的に仕える奉仕となります。

母親業は、神との聖なる共同作業だ。

恨みを癒す

聖書のみことば:ヨハネ21:18-25

イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」—ヨハネ21:22

すべての人は平等に造られた、という考えに、ためらうことなく同意するでしょう。しかし、人生は不公平だと気づくのに、それほど長い時間はかかりません。私たちはこの現実を、恨まず受け入れられるように、努力しなくてはなりません。

人生の不公平は色々な形で現れます。子どもの身体が癌にむしばまれる一方で、酒浸りのヘビースモーカーが長生きします。健康な人もいれば、病弱な人もいます。五体満足な人もいれば、重い障害を抱えている人もいます。一生懸命働いても貧しい人がいる一方で、生まれながらに裕福で、何不自由なく暮らしている人もいます。

イエスが、あなたは殉教する、と告げられたとき、ペテロは、それなら別の愛弟子ヨハネはどうなりますか、と尋ねました。ペテロは、ヨハネが同じ死に方をしないのは不公平だと思ったようです。しかし、ヨハネに起きることはペテロが心配することではなく、神がお決めになることだ、とイエスは言われました。ペテロの果たすべき責任は簡潔明瞭です。それは、キリストに従うことでした。

周りの人を見て人生の不公平さを恨みたくなるとき、視点を変えてみましょう。イエスを見上げて、このお方について行きましょう。人生の不正義は、つかの間です。私たちは、天国で完全な正義と公平を永遠に楽しむことができます。

他の人を見ると恨んでしまうが、神を見ると心が満たされる。

死の良い部分

聖書のみことば:ヨハネ17:20-26

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。—ヨハネ17:24

イエスを信じることが天国への唯一の道です。 日曜学校の先生はそのことを教えるために、子どもたちにこんな質問をしました。「先生が持ち物を全部売って、教会に献金すれば天国へ行けますか。」子どもたちは「いいえ」と答えました。「では、教会でたくさん奉仕をすればどうですか。」答えはまた「いいえ」です。「もし、家族を大切にして、動物を可愛がって、みんなにキャンディーをあげたらどうでしょう。」全員そろって「いいえ」と答えました。そこで先生はたずねました。「では、どうすれば天国に行けるんですか。」ひとりの男の子が大声で答えました。「先生、死ななくちゃ、天国へ行けないよ。」

これは、先生が期待していたものではありませんが、正しい答えです。聖書は、血肉のからだは神の国を相続できないと教えています(Ⅰコリ15:50-52)。私たちが生きている間にイエスが再臨されないかぎり、死を経験せずに天国へ行くことはできません。

英国の説教者チャールズ・スポルジョンは説教の中で、一人ひとりのクリスチャンが死んだとき、イエスがヨハネの福音書17章24節で祈った祈りがかなえられる、と語っています。人は、死を迎えると肉体を離れ、キリストの栄光を見るために主のもとへ行きます。キリストを信じる者にとって、何という慰めでしょう。これが、死の良い部分です。あなたはそう確信していますか。

クリスチャンは死んだときに生き始める。

人生の四季

私は、牧師として子育て中の多くの女性とともに歩んできました。病院に足を運び、この世に生を受けた赤ちゃんの誕生をともに喜びました。反抗期のティーン・エイジャーの娘や息子を心配して相談に来る母親たちには、神は子どもたちをしっかり見守ってくださると話して励ましました。また、病気やけがの子どもたちが眠るベッドの脇に母親たちとともに立ち、その心の痛みを受け止めました。子どもを亡くし、悲嘆にくれる母親たちとともに泣きました。

イエスの母マリヤも、この喜びと悲しみを経験しました。イエスがお生まれになったときは、どれほど嬉しかったでしょう(ルカ2:7)。羊飼いや博士たちが拝みに来たとき、心が踊ったでしょう(8-20節、マタ2:1-12)。剣が心を刺し貫く、とシメオンが預言したときは、どれほど不安だったでしょう(ルカ2:35)。そして、自分の息子が十字架の上で死んでゆくのを見て、胸をえぐられるような悲しみを体験しました(ヨハ19:25-30)。しかし、そんなひどい体験で母親としての人生が終わったのではありません。イエスは墓からよみがえり、マリヤは喜びました。

母親をはじめすべての人は、人生において素晴らしい喜びと深い悲しみを経験します。しかし、自らの人生を神に委ねるなら、人生におけるすべての四季が、神の永遠の目的に仕える奉仕となります。