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Joe Stowell

Joe Stowell

ジョーストウェル氏は、ミシガン州のコーナーストーン大学の学長です。Jesus Nation(「イエスの民」邦訳なし)をはじめとする数多くの著書も執筆しています。妻マーティとの間に、成人した3人の子どもと孫が数人あります。

寄稿一覧 Joe Stowell

常にアップグレード

家を出て仕事に向かおうとすると、「そんな格好で行かないで!」と妻のマーティに呼び止められることがあります。そして大抵の場合、ネクタイの色がもうひとつだとか、ジャケットとズボンが合っていないなどと言われます。自分の服装に疑問を呈されると、ファッションセンスに文句をつけられているようで良い気分はしませんが、妻の助言は正解だということはもう分かっています。それは、私をアップグレードさせてくれるのです。

確かな居場所

父はふるさとの思い出をたくさん話してくれました。子どもの頃は、毎年夏になると帰省する父に連れられて、わくわくしながら家族で出掛けて行き、そこで休暇を過ごしました。父と一緒にセントジョセフ川で釣りをしました。また、父が少年時代を過ごした農場を訪れると、父から聞いていた話の数々が鮮明によみがえってきて、それらを追体験することができました。今でも子どもや孫たちと一緒にそこを訪れることがあります。その場所は、私のふるさとではありませんが、自分の居るべき場所のような、懐かしい気持ちになります。

忘れないで

物質的な豊かさを罪悪視して、物を所有すること自体が悪だという考え方に、私は賛成できません。また、自分には消費者的志向があることも認めざるをえません。私は、個人的な感情で「欲しいもの」を「必要なもの」にしてしまう誘惑にしばしばかられます。

脱水症を防ぐ

ここ数年の間に、二度も脱水症になりました。もう決してしたくない体験です。一度目は、クロス・カントリー・スキーをしていて太ももが肉離れを起こしたとき、次は、気温46度のイスラエルの砂漠で起こりました。二度とも目まいやかすみ目、意識障害など、多くの不快な症状に見舞われました。健康を維持するために水が欠かせないことを、私は痛い経験を通して学びました。

ひとかたまりになろう

雪の持つ驚くべき性質は、世界中の多くの人にとって馴染み深いことです。ひとひらの雪片は氷の結晶から成っていて美しく、ふたつとして同じものはありませんが、手のひらの上ですぐに溶けてしまう、なんともはかないものです。ところが、大きなかたまりになると、大都市の機能を麻痺させる脅威にもなり、注意すべきです。樹木に降り積もった雪は、美しい景観を生み出し、芸術作品のモチーフになったり、カレンダーの写真になったりします。雪があるので、スキーを楽しめます。子どもたちは雪だるまを作ったり、雪を丸めて雪合戦をしたりして遊びます。これらすべては、雪が互いにくっつく性質を持っているからです。

ゆっくりと味わって

妻のマーティーは、「ジョー、もう少しゆっくり食べたら。食事は味わって食べるものよ」とよく言います。私は、彼女よりだいぶ早く食べ終えます。彼女は、ひと口ひと口味わって食べているからです。

黙れ、静まれ

友人のエルイーズは、ものごとを正しい視点でとらえる賢い人です。あるとき、「調子はどう?」と尋ねたら、「悪くないわ」といういつもの返事のかわりに、「イエスさまを起こしに行かなくっちゃ!」と答えました。どういうことかと思ってさらに尋ねると、「あら、聖書に書いてあるでしょ」とにっこり笑います。そして、「弟子たちが嵐に遭ったとき、イエスさまを起こしに行ったでしょう。私も助けてもらいに行くところなの」と言いました。

抜き差しならない状態に陥って、逃げ道が見当たらないという場合、あなたならどうしますか。生命の危険さえ感じる嵐の中にいた弟子たちのように、私たちもイエスに助けを求めて走っていくかもしれません(マコ4:35-41)。けれども、時には、問題の発端となった人を中傷したり、復讐しようとしたり、もしくは嘆きの渕に落ち込みながら、恐れて身を隠したりして、問題を切り抜けようとします。

そんな私たちは、イエスを唯一の助けとして逃げ込んだ弟子たちから学ばなければなりません。たとえ、イエスが即座に問題を解決してくださらなかったとしても、イエスは同じ船に乗っていてくださいます。それが分かっているのといないのでは、雲泥の差です。

ありがたいことに、イエスは私たちが人生の嵐に遭遇するとき、いつもともにいて、「黙れ、静まれ」(39節)などとおっしゃってくださいます。ですから、嵐に遭ったらイエスを探してすぐそばにおられることを確認しましょう。そして、イエスがおられることの平安で心を満たしていただきましょう。

食べそこなったランチ

食事は私にとって、ただの必要でなく、人生の大きな楽しみのひとつです。食卓について美味しいご飯をいただくのは、本当に嬉しいのです。お腹がすいているときにはなおさらです。

さて、イエスの弟子たちは戻ってきて、先生がサマリヤ人の女性と井戸端で話しているのを見ました。彼らは昼食を食べていなかったので、お腹がすいていたのでしょう。イエスに、「先生。召し上がってください」と言いました。ところが、主のお答えは「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」だったので、彼らは「だれか食べる物を持って来たのだろうか」といぶかったのです(ヨハ4:31-33)。

弟子たちは食事にこだわるあまり、自分たちが楽しく時を過ごすこと以外は思いつかず、井戸端で行われていたことの重大性を認識できなかったのでしょう。主イエスにとって最も重要なことは、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げること」(34節)でした。ですからイエスは、この女性の霊的な必要に焦点を合わせていました。彼女が渇望している霊の満たしを与えることができるのは、主イエス以外にはおられないからです。

私たちは、目下の必要にとらわれがちです。しかし、自分にとって「おいしいもの」ばかりに気を取られるのではなく、しっかり目を開けて、心を満たすものを求めて探している人がいることに目を向けなさい、とイエスは教えておられます。 

井戸端にイエスとともに立ちましょう。そして主イエスに用いていただいて、主だけが与えることのできる霊の糧があることを人々に語っていきましょう。

価値あるもの

今までの人生で集めたものや、捨てずにとっておいたものがたくさんあります。その中には、以前は大切だったけれど、今では当時の輝きが失せた物も多くあります。それなのに私は性懲りもなく新しいものを見つけ、自分のコレクションを増やしていくことにワクワクしてしまいます。

私たちは、これも大事、あれも大事と色々なものをため込んでしまいます。ところが、本当に価値のあるものはごくわずかです。事実、人生で最も価値あるものは、物ではないでしょう。私は年とともに、そのことが分かってきました。人生で何よりの宝は、私を愛し、私の人生に関わってくれた人たちです。「あの人がいなかったら大変だ」と心の中で言える人たちこそが、何よりも大切な存在なのです。

ペテロはイエスが「選ばれた石、尊い礎石」だと語りましたが(Ⅰペテ2:6)、そのことばに、私たちの心も共鳴すべきです。イエスこそが本当に価値あるものです。何物にも、何人にもまして大切なお方なのです。もしイエスがいつも一緒にいてくださらなかったなら、私たちは大変なことになっていたでしょう。イエスの賢明なアドバイス、絶対的な導き、慈愛のこもった忍耐、変革を促す叱責がなかったなら、私たちはどうなっているでしょう。イエスなしで、どうやって生きていけるでしょうか。そんなことは、想像すらできません。