人生で最良の時
人生は、まるで移り変わる季節のようです。私たちは、自分が望むか否かに関係なく、次の季節へと押し出されます。そして、次の季節に何が待ち受けているのだろうかと不安になったり、恐れることさえあります。
特に老年になると、そうではないでしょうか。自分は一人っきりになるのだろうか。元気でいられるだろうか。お金に困ることはないだろうか。認知症にならないだろうか等々。私たちは、人生の節目節目で選択しなくてはなりません。悪いことばかり考えて時間を無駄にするのか、それとも、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペ5:16)というパウロの励ましに応答して生きるかです。
どんな季節であっても、神の誠実は変わりません。神は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われます(ヘブ13:5)。ですから、私たちは、「主は私の助け手です。私は恐れません」と大胆に言うことができます(ヘブ13:6)。
あなたには神の臨在と神の備えがあるので、人生のどんな場面でも、イエスに忠実に従い、イエスのみことばと祈りの中に身を置き、かつてないほど自由に愛したり赦したりして、喜びと寛容をもって人に仕えることができます。こうして、あなたは機会を十分に生かすのです。
神は、今という季節をもって私たちを祝福しておられます。さあ、これを最大限に生かしましょう。
過去の回復
後悔をしたことはないという人はいないでしょう。誤った選択を繰り返し、人生の歯車が狂っていくということがしばしば起こります。そのような状態が続く期間は人それぞれですが、間違った選択をすれば、その影響を心や身体に感じながら生きていかなければならないかもしれません。
私の友人に長年アルコールと薬物を乱用していた人がいます。神は、彼に驚くべき御業をなさいました。彼はアルコールと薬物中毒から解放され、もう25年、どちらにも手をつけていません。先日、25年間守られたお祝いをしました。彼は今や、繁盛する店の店主です。また、慈善団体で奉仕し、心優しく賢明なカウンセラーとして、人生の泥沼から這い出して更正しようとする人たちを支えています。夫思いの妻にも恵まれ、子どもたちはイエスを愛しています。
神は私たちを決して見捨てられません。たとえ間違った道を選んで悔やんでいたとしても、今をどう生きるかは、新しく選ぶことができます。後悔するだけで何も改めず、自分を傷つける生き方を続けることもできますが、「いなご、ばったの食い尽くした年々を償おう」(ヨエ2:25)と言われる聖書の神を信じて、キリストにすがることもできます。悔い改めて、神の癒しの力と解放の力を求めるならば、神はあわれんでくださいます。
過去の過ちが原因で今ある現実を帳消しにできない、というのは事実かもしれません。しかし、神はご自分を信頼する人たちに、ご自分の栄光を現す素晴らしい未来をくださいます。私たちは、それを確信することができます。
私を手放さない愛よ
良い関係の中心には愛があります。聖書は、人を愛する人間になるようにとはっきり言っています。心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛し、敵すらも愛しなさいと教えます。しかし、愛されていないのに愛するのは難しいことです。親にかまってもらえない子ども、夫または妻は自分に無関心だと感じている人、わが子に疎遠にされている老人などは、愛のない人生の苦しみを知っています。
ですから、愛されたいと思う人は思い出しましょう。神が豊かに愛されていることを。そして、その喜びを受け止めましょう。あなたのために十字架の上から注がれた神の愛によって、どれほど人生が変わったか考えましょう。神を信じるなら、神の愛があなたの欠点や失敗をおおって、一点の汚れもない義で包んでくださることに思いを巡らせましょう(ロマ3:22-24)。何ものもあなたを主の愛から引き離すことができないことを喜びましょう(ロマ8:39)。永遠に神の愛と過ごす場所が準備されていることを信じましょう(ヨハ3:16)。
ヨハネは「互いに愛し合うべき」だと語っていますが、そのとき彼は、「(神の)愛する者たち」と私たちに向かって語りかけています(Ⅰヨハ4:11、3:2)。神にどれほど愛されているかがしっかりと分かったなら、神のみこころどおりの愛に富んだ人になることは、今よりずっと簡単です。たとえあなたに愛を示さない人に対してでもです。
バンパーカー
人生は遊園地にある「バンパーカー」によく似ています。衝突されることは承知で車に乗り込みますが、その衝突が、どの程度になるかは分かりません。そして、衝突されると、アクセルを踏んで相手の車を追いかけ、もっと強く当たろうとします。
これはバンパーカーならば面白いかもしれませんが、人生の戦略としてはいただけません。「衝突されたら仕返しをする」ということなら、その態度は問題を悪化させるだけで、結局のところ、みんなが苦しむことになります。
イエスはより良い戦略をお持ちでした。つまり、相手を赦すのです。私たちはペテロのように、「いったい何度、赦さなければならないのか」と疑問に思うかもしれません。ペテロが「七度まででしょうか」と尋ねると、イエスは「七度を七十倍するまで」と答えられました(マタ18:21-22)。言い換えれば、「恩寵」に限度はないのです。私たちは常に赦す姿勢でいなければなりません。なぜでしょう。イエスが借金を免除する主人のたとえ話で教えられたことによると、人を赦す理由は相手がそれに値するからではなく、自分が赦された存在だからです。たとえ話の主人は、「おまえがあんなに頼んだから…赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と語っています(32-33節)。
私たちは多くを赦された者ですから、問題の悪化をとどめ、人々と祝福を分かち合いましょう。
土の器
高価なアクセサリーは普通、黒など濃い色のベルベットを貼った箱に収められています。そのようにデザインされているのは、宝石の美しさをきわだたせ、人を惹きつけるためでしょう。もし、外箱のデザインも華やかだったなら、宝石の美しさと張り合ってしまいます。
このことは、私たちを通してなされるイエスのみわざについて思い出させてくれます。使徒パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と語りました(Ⅱコリ4:7)。私たちは、イエスのみわざが宝であり、自分は器にすぎないことを簡単に忘れてしまいます。そして、自分という土の器を飾って、自分がキリストのためにしたことを自分の手柄にしてしまいます。自分が誰かを赦したり、他人に親切にしたり、たくさんの献金をしたりすると、人に認めてほしいと思います。けれども、良いことをしたので認めてほしいとか、褒めてほしいと求めるのは問題です。それは、輝く宝(私たちを通して神が働いておられるということ)と張り合うことだからです。
私たちがキリストのためにしたことはすべて、私たちに関することではなく、キリストの栄光に関することです。自分の姿を少しでも見えなくすることで、神の栄光は輝きを増します。ですからパウロは、神が栄光を受けるように、宝は土の器の中に入れると言ったのです。土の器が尊いなどと聞いたことはありません。大切なことは、その中に何が入っているかではありませんか。
聖なる方向転換
自分のこだわりを貫こうとするほうなので、決められたスケジュールに何かが割り込んでくると、私の心中は穏やかではありません。それ以上に困るのは、人生の進路が大きく転換させられることです。それは時として痛みや不安をもたらします。しかし、神は、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」と言われます(イザ55:8)。こうおっしゃる神は、私たちには転換が必要であり、もし、自分の考えに固執し続けるなら、より良い人生を送ることができないことをご存知です。
ヨセフについて考えてみましょう。神はヨセフをエジプトに送られました。神の選びの民を飢饉から救うためです。モーセはどうでしょう。彼は、パロの家の華やかな生活から方向転換させられ、荒野で神と出会いました。神の民を約束の地へ導く準備をするためです。
ヨセフとマリヤはどうでしょう。このふたりは、この世で一番重大な方向転換を天使によって告げられました。マリヤの産む赤子は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」だというのです(マタ1:21)。ヨセフは、自分の存在の目的が自分の思いをはるかに超えた大きいものであることを信じて、この大転換を受け入れました。そして、命じられたとおり「その子どもの名をイエスとつけ」ました(25節)。後に続くのは、素晴らしい歴史の真実です。
自分の思い以上に大きな神のご計画を信頼することは、私たちにもできます。神のご計画は、私たちの思いをはるかに超えた良い働きを、私たちの人生に刻んでくださるからです。
お話の時間
子どものころ、私は母に絵本を読んでもらうのが大好きでした。母の膝に乗ってページの絵を細部までしっかりチェックしながら、彼女のひと言、ひと言に聞き入りました。次のページに何が出て来るか、それはもうわくわくしたものです。
ところで、私たちの人生もまた、絵本の読み聞かせのようなものだと考えてみたことはありますか。良い時も、悪い時も、どちらでもない時も、周りの人々は「私たち」という絵本を見たり聞いたりしています。私たちの物語は、その口から出る言葉だけでなく、態度や行動を通して伝えられます。順風や逆風、その時々の状況にどう応答するかを、私たちの子どもや孫たち、配偶者や近所の人、同僚などが観察しています。
使徒パウロは、イエスに従うクリスチャンの人生は手紙だと述べています。それは、「すべての人に知られ、また読まれ…キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」た手紙です(Ⅱコリ3:2-3)。
周りの人たちは、この手紙を読み、私たちの人生を知るのですが、それは果たして何を語るのでしょう。赦しでしょうか、あわれみでしょうか。寛容、忍耐、もしくは愛でしょうか。
もしあなたが、神の恵みに満たされた人生の喜びを聖霊によって体験しているなら、素晴らしい神の語り部になる喜びも、どうぞ味わってください。
逆さま
イエスには、「不思議だなあ」と思わされることがいくつもあります。イエスの働きに驚かされたり、当惑させられたりします。それは、イエスの人生に対する教えが、世の常識とは真逆の場合があるからです。
人生の旅が長くなると、大体のことは分かっていると思うようになります。そして、人生の舵取りや物事に対する応答がパターン化してしまいがちです。しかし、イエスは私たちの平凡な日常生活に介入され、新しくてより良い道に導こうと声をかけてくださいます。でも、ご注意ください。「イエスならばこうなさる」という方法は、私たちに大きなチャレンジを与えます。
いのちを得るために死ぬ(マコ8:35)、得るには与えよ(マタ19:21)、悲しむ人は幸いだ(5:4)、治めるには仕えよ(ルカ22:26)、苦しみには目的がある(5:10-11)という逆説的なことばについて考えてください。キリストはおかしい、ずれている、と思われるのは、こうした発言があるからです。しかし、ずれているのは、実は私たちです。キリストが逆さまなのではなく、私たちがそうなのです。私たちは、何がベストかは親より自分のほうが分かっている、と思っている子どもに似ています。
神が私たちに「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」と言われました(イザ55:8)。ですから、私たちの直感は頼りになりません。神の方法に倣えるよう助けてください、と祈りましょう。
人とうまくやる
私は人付き合いの良いほうです。特に、気の合う人たちと一緒にいるのは嬉しいものです。しかし、好きな人たちとだけ付き合っている訳にはいきません。中にはとげのある人もいます。「人というものを知れば知るほど、ペットの犬が好きになる」という皮肉も分からないわけではありません。そんな私たちは、人間関係がうまくいかないと相手の責任にする傾向があります。
使徒パウロは、クリスチャン同士がうまく付き合うことについて述べています。「…一致を保ち…」、「…他の人のことも顧みなさい」、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」と教えています(ピリ2:2-5)。
考えてもみてください。イエスは私たちのために、ご自分の立場や特権を捨てられました。しもべとして生きて、ご自分のいのちを犠牲にすることを選ばれました。神と人の関係を喜びに溢れたものにするために、そうしてくださいました(ヘブ12:2)。私たちがどうしようもない存在であったにもかかわらず、そうしてくださったのです(ロマ5:8)。
ですから、付き合いにくい人と一緒に何かをすることになったら、その人に愛を示すことができるように助けてください、と祈りましょう。そうすれば、主があなたの対人関係に対する態度を少しずつ変えてくださり、いずれは驚くほどになるでしょう。