境界線に感謝しよう
これまで多くの人々と出会いましたが、神の命令に従ったために人生がめちゃくちゃになったという人に会ったことはありません。ところが、自分の生き方を神の道に合わせて変えていくべきだと語ろうものなら、今は個人の自由は不可侵の権利という時代ですから、「権利を侵害している」と見なされてしまいます。
天は宣する
夜の空を少し眺めるだけで、神の御手の業はすごいのだと十分に分かります。私たちは、神の御業に感嘆し、畏敬の念を抱きます。私たちは、広大に広がる銀河や天の川の銀の帯を見るにつけ、神がこれを創造し、治めておられること、そして、万物が御子イエスによって成り立っていること(コロ1:16-17)を思わずにはいられません。それはまるで、神の創造を見せる劇場の最前列で、その迫力を感じるような体験です。
どの道を選ぶ?
私は道に迷っても、なかなか誰かに尋ねようとしません。何とか頑張れば、最終的には目的地にたどり着けると思うからです。一方、妻のマーティーはすぐに誰かに尋ねます。そして、どうしようもなく道に迷っているのに、それを認めたがらない夫の態度が理解できずにいます。結局のところ、彼女の方が賢いのです。彼女のほうが早く、そして平安な心で目的地に着きます。一方、私はいつまでも道に迷っているのです。
恵みに満ちた神をたたえる
最近あるホテルに行った時のことです。ロビーには、目を見張るほど大きな生け花が飾ってありました。完璧とも言うべき色鮮やかなアレンジからは、優雅な香りが漂っています。私は足を止めて、しばしその美しさに見とれていました。それから、「ふんだんにある、満ちあふれる」ということには、どこか私たちの心を捉えるものがあると思いました。
注意書き
電化製品から玩具に至るまで、今日ではさまざまなものに注意書きが付いています。医薬品の説明書にも、ありとあらゆる使用上の注意が小さな文字で書かれています。
恐れに直面して
子どもの頃、寝室の灯りを消すのが嫌でした。椅子にかけた服がお化けのように見えて、とても怖かったことを覚えています。私は恐怖で眠れませんでした。この幼い日の経験から、人生に問題が起こったとき、恐怖は私の味方ではないと学びました。恐れは、前に踏み出す力を奪います。萎縮してしまい、すべきことができなくなります。イエス・キリストを見つめ続けていなければ、そうなってしまいます。
新鮮な目で見る栄光
ニュース番組「グッド・モーニング・アメリカ」は、毎夏、「アメリカで最も美しい場所」を選ぶ視聴者投票を行います。2011年にはミシガン州のスリーピング・ベア砂丘国立湖岸が選ばれました。私は近くに住んでいるので、大変うれしく思いましたが、国中で一番美しい場所という栄冠を射止めたのが我が家の近所というのは意外でした。それで思い出したのは、私たち夫婦がナイアガラ大瀑布を訪れたときのことです。そばにいた男性が、私たちの典型的な観光客の振る舞いを見て、皮肉っぽく言いました。「大したことないじゃないか。こんなの毎日見ているよ。」
私たちはいとも簡単に自分を取り巻く環境に慣れてしまい、なじみの場所や体験を色あせさせています。初めは嬉しかったにもかかわらずです。神の栄光に取り囲まれていることは明らかなのに、日々の生活の忙しさにかまけて、そこに目がいかないことがあります。その上、神が人生に驚くほど介入してくださることを当たり前のように思います。十字架の死と復活に感激する心を失い、神の子どもとされたありがたさを忘れています。さらに、私たちは神のご臨在を喜ぶことを止めてしまい、創造の御業の美しさを見逃しています。
詩篇の作者は次のように宣言しました。「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます」(詩145:5)。何と素晴らしいことでしょう。今日、神の「奇しいわざ」に思いを巡らす時間を取りましょう。そして、神の栄光を新鮮な心で感じましょう。
手を休める
母は礼拝中、指の跡が残るかと思うほど私の脚をぎゅっと押さえ、「じっとしていなさい」と小声で、しかしはっきり分かるように注意したものです。私は、教 会のような場所では落ち着きがないという典型的な男の子でした。そのため、長い間「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10 口語訳)というみことばを読むと、「そわそわするな!」と教えているのだと思っていました。
しかしヘブル語の「静まれ」という単語は、頑張るのをやめることです。自分の手を休めて、神に介入していただき、神におまかせすることを意味しま す。私たちは、物をかき分けて進んだり、自らを守ったり反撃したりするのに手を使うので、これは興味深い表現です。手をだらんと落とすと、神を信頼しない かぎり、無防備で危ういように感じます。しかし「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(1節)です。また「万軍の主はわれらととも におられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」(7節)は真理です。つまり、じたばたせずに、神が御業を成されるのを待ちましょう。
人生のどんな場面で困難に出会ったとしても、神の救いを祈りつつ辛抱強く待つなら、神の臨在と御力を信じて平安を体験することができます。神の御手があなたに代わって、忙しく働かれます。あなたの手を休ませましょう。