窓に映るもの
アラスカで休暇を過ごしましたが、移動中の車の窓からたくさんの風景を見ました。暖かく、雨や霧に濡れることもない車内から、美しい景色を見ることができるのは感謝なことです。しかし、窓ガラスには課題もあります。雨が降ると、窓にしたたる水滴で視界がぼやけます。また、気温の変化によって窓の内側に結露ができ、外が見えづらくなるのです。
道路工事
私の暮らすミシガン州には、ここの季節はふたつ、つまり冬と道路建設だ、というジョークがあります。厳しい冬の間に路面が傷みます。そして、凍っていた地面が溶けるとすぐに、道路工事の人たちは仕事を開始します。私たちはこの作業を「建設工事」と呼びますが、その大半は道路を壊しているようです。道路に開いた穴は、詰め物をするだけでは用に耐えず、古い道路を壊して、新しい道路に作り換える必要があるからです。
辛い鍛錬
ダイヤモンドは美しく価値のある宝石ですが、もとは黒くて汚い可燃性の炭素です。それが高熱と高圧に長い間さらされて、強く純粋な石になります。このことは、霊的に強くなることを説明する良い例です。神は強い外からの力を用いて、私たちの心の不純な部分を取り除き、神の力が私たちの内に完全に現れるようにされます。
しっかりと立つ
高校の地学の最終授業の自由研究で、私は友人と一緒に水路の実験をする箱を作りました。父にたくさん助けてもらい、中央に蝶番のある長い合板の箱を作りました。そしてビニールで防水加工し、砂を詰めました。箱の片方の端にホースを付け、反対側には排水口を作りました。実験箱が完成すると、片方の端を持ち上げ、水を流しました。すると、反対側の穴へ向かってまっすぐな水の筋ができました。次に、水路の途中に石を置いて、水の筋がどのように変わるのかを観察しました。
欲張りな 鳥たち
毎年、ハチドリのためにえさ場を作ってあげます。すると、せわしない小鳥たちがやって来て、えさ場を取り合います。「テーブル」には4つの席を設けてあるのですが、彼らは先客の席が気になるようで、それを横取りしようとしてけんかになります。それぞれの「席」には、下にあるひとつの容器から同じシロップが提供されています。すべての席に同じ食べ物があるのですから、私は、この鳥たちの強欲な負けん気にあきれるばかりです。
神に栄光あれ
主日礼拝をささげようと訪れた教会で、ジェイソンは突然、特別賛美をするように頼まれました。礼拝開始直前に頼まれたのですが、彼は快く引き受け、誰もがよく知る「おおみ神をほめまつれ」を賛美することにしました。これは彼にとって、特別な意味を持つ歌でした。ジェイソンは、教会の地下室で何度か練習し、礼拝ではアカペラで歌いました。
見せて伝える
文章教室や文筆家たちの会議に参加すると、「見せなさい。説明ではダメだ」と必ず言われます。これはつまり、起こった事柄を説明するのではなく、読者自身が現場にいて自分で見ているかのように感じさせなければならないということです。伝える側は、やっていることを描写するのであって、説明するのではありません。
移り気な信奉者たち
世論とはなんと移ろいやすいものでしょう。過越しの祭りのとき、エルサレムに入城したイエスを民衆は喜んで迎え、王にしました(ヨハ12:13)。しかし、その週の終わりには、イエスを十字架につけるようにと求めたのです(19:15)。
この移ろいやすい民衆の中に、私は自分の姿を見ます。私は、勝っているチームを応援するのが好きです。チームが負け出すと、私の気持ちも離れていきます。新しくて刺激的な動きがあると、それにかかわりたいと思います。しかし、熱気が別のものに移っていくと、私の気持ちもそれにつられて移っていきます。私は、イエスが不可能を可能になさっているときは、喜んで主に従います。けれども、イエスに難しいことをするように言われると、尻込みして動くことができません。勝ち馬に乗るようにイエスに従うのはワクワクします。イエスが頭の良い人を出し抜いたり、権力者を打ち負かしたりなさるときにイエスを信頼するのは簡単です(マタ12:10、22:15-46を参照)。しかし、イエスが苦難や犠牲、死について語られると、私は戸惑ってしまうのです。
私は、自分だったら十字架までイエスに従って行っただろうと思いたいのですが、実は、あやしいところです。結局のところ、安全な場所にいてもイエスのために堂々と語れないのですから、大勢の敵に囲まれたら、いったい何ができるでしょう。
私は本当にイエスに感謝しています。こんな移り気な信奉者たちのために、イエスは死んでくださいました。そのことがあったので、私たちは、献身的な弟子になっていけるのです。
どんな人になるか
私の故郷は小さな町で、著名人はいませんし、華やかな場所もありません。これといって、することもない所です。けれども私は、この素朴で静かな土地で育ったことを、いつも感謝しています。
ある夜、私たち夫婦は仕事関係の夕食会に出席したのですが、そこで初対面の人に、出身地はどこかと尋ねられました。その人は私の答えを聞くと、「そんな場所の出身だなんて恥かしいですよね」と言いました。彼女が本気なのか冗談を言っているのかは分かりませんでしたが、私は「いいえ」とだけ答えました。
私の故郷は洗練された町ではないので馬鹿にされたのかもしれませんが、なくてはならないものはきちんとありました。町には教会があって、私の両親は「主の教育と訓戒によって」(エペ6:4)私たちを育ててくれました。
イエスもナザレという小さな町で育ちました。ナタナエルという男は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハ1:46)と言いましたが、そこからイエスが出られたのですから、「いいえ、出ます」が正しい答えです。イエスの故郷は、取るに足らない集落だったかもしれませんが、イエスは歴史上で最も重要な人になりました。
どこで育つかが問題ではなく、どう育つかが問題だということは、個人的な経験からも、聖書の記述からも明らかです。出身地を比べられて落ち込むこともあるかもしれませんが、私たちは神にとって大切な人です。神は私たちを霊的に強め、神の知恵で満たしてくださいます。