神は頼れる
私は迫害を体験したことはありません。自分の信仰や言動がもとで、身に危険が及んだことは一度もありません。迫害については、読んだり、聞いたりした、わずかな知識があるだけです。しかし、世界の多くのクリスチャンの状況は、そういうものではありません。ただイエスを愛しているというだけで、また、イエスをみんなに知ってもらいたいと思うだけで、毎日生命の危険にさらされて生きている人たちがたくさんいます。
肉体が危険にさらされるのではなく、心が張り裂けてしまうような迫害もあります。愛する家族がクリスチャンではなく、キリストを信じる信仰をさげすんだり、神を愛し賛美することを愚弄(ぐろう)したりすることです。こんなことが続くと、自分は家族に愛されていない、受け入れられていないと感じてしまいます。
使徒パウロは「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と警告しています(Ⅱテモ3:12)。あなたに拒絶を体験させるのが、あなたの家族である場合もあります(マタ10:34-36)。自分の家族が神を拒絶すると、神を愛する私たちは、自分が拒絶されたかのように感じます。
イエスは「迫害する者のために祈りなさい」と言われましたが(マタ5:44)、その迫害者は、私たちを嫌う他人だけとは限りません。しかし、神は特別な恵みをくださって、その迫害を耐え忍ぶことができるようにしてくださいます。
ちりの芸術
神は、ご自分の芸術作品であるアダムを造る材料としてちりを選ばれましたが(創2:7)、この材料は、足りなくなる心配がありません。「小さな塵の大きな不思議」(原書名 The Secret Life of Dust)の著者ハナ・ホームズによると、砂漠から風で巻き上げられる砂塵は1年間で10億トンから30億トンだといいます。10億トンは満杯の貨車1400万両分。1400万両の貨車を並べると、赤道を六周する長さになるそうです。
このちりをお金を出して買う人などありません。どこにでも捨てるほどあります。私は、我が家のちりは我慢できる間は見えないことにしています。そっとしておけば目立たない、というのが私の理屈なのですが、それでもちりは少しずつ積もっていき、いずれは掃除して綺麗にしなければなりません。
ちりを取り除けば、綺麗になった表面に自分の姿が映って見えます。同時に別のことも見えてきます。それは、こんな価値のないちりを使って、とても貴重なもの、すなわち、あなたや私という一人ひとりの人を、神が造り出してくださった(創2:7)ということです。
神がちりを用いて人類を創造されたことを考えると、何か(または誰か)を価値が無い、と簡単に決めつけてはならないと思います。悩みの種だから取り除いてしまいたいような人や問題こそ、実は、神がご自分の栄光を現すために素材として選ばれたのかもしれません。
荒れ地が美しい庭に
春は、物事が常に目に見えているとおりとは限らないことを悟らせてくれます。すっかり枯れ果てて絶望的にさえ見えたところに、生命が芽吹きます。寒々とした裸の森が、緑豊かな景色に生まれ変わります。
冬の間、着物を求めているかのように裸の腕をのばしていた木の枝たちが、突然、緑のドレスをまといます。しぼんで地面に落ちてしまった草花も、「死んでないぞ」と言わんばかりに、土の中からむっくりと起き出してきます。
聖書にも絶望的な状況が描かれています。そのひとつは、ヨブという裕福な人の話です。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」人でした(ヨブ2:3)。その彼を災いが襲い、すべてを奪っていきました。ヨブは苦難の中で「私の日々は…望みなく過ぎ去る」と言いました(7:6)。ヨブも彼の友人も、この災いは神がヨブに罰を当てたのだと考えましたが、それは全くの間違いでした。神は、ヨブの正しさはサタンに攻撃されても揺るがないと信じておられました。後日、神はヨブの生活も希望も回復させられました。
毎年、必ず春がやってくることは、絶望的な状況にいる人にとって慰めです。神がともにいてくだされば、絶望というものはありません。どれほど悪い状況に見えたとしても、神はそれを用いて、美しく栄光に満ちたものを作ってくださいます。
イエスのチーム
人気のファストファッションの販売員はモデルのようなもので、店に飾ってあるのと同じような服を着ています。これはブランド戦略のひとつで、その背後にある考え方は、あの人たちのように見られたいと思って客は服を買う、というものです。
消費志向の社会にいると、私たちは物を売る人たちによって、見た目が良ければみんなに好いてもらえると信じ込まされています。そして、好感度を金で買おうと誘惑されるのです。それどころか、この世の人たちの目に自分の外見が魅力的に見えるなら、彼らをキリストの救いに導くことができるのではないかと思うことすらあります。
しかし聖書は、神にとって真に重要なことは何かを明らかにしています。それは、私たちの内面がキリストに似せられていくことです。ある意味で、イエスは私たちの「ブランド」です。というのは、私たちは神のかたちに少しずつ形づくられているからです(ロマ8:29)。私たちがキリストの品性を身に着けるなら、人はキリストに魅力を感じて引き寄せられてくるでしょう。それはつまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロ3:12)であり、何にもまして「愛」(14節)なのです。
私たちは、自分のイメージを守ったり高めたりするのではなく、神のイメージを映して守らなくてはなりません。そしてそれは、キリストを通して私たちの内に完成させられます。
文脈から離れて
無造作に投げやりな言葉を言い出した人に、友だちが励ましたり、アドバイスをしたりしました。ところが、その人は、単に面白がってある歌の歌詞を文脈から離れて口にしていただけでした。親身になって助けようとした人たちは、時間を無駄にしたのです。アドバイスも不必要でした。誤解を生む発言をした人が引き起こした問題は、今回のところ大して深刻ではありませんでしたが、人騒がせな言動につき合っている間に、もっと大切なことをしたり、本当に助けが必要な人に手を差し伸べることができたかもしれません。
人の関心を引くために文脈を無視した引用をしたり、議論に勝とうと屁理屈をこねたりする人がいます。さらに悪いのは、力関係で優位に立とうと、真理をゆがめる人です。その人たちは他人の人生のみならず、たましいにまで危害を及ぼします。
言葉を巧みに操って、相手を自分の思い通りに行動させようとする人、さらには、聖書のみことばを文脈を無視して用い、不正なことを正しいと相手に信じさせて行わせようとする人がいます。このような行為から身を守る手段は、ひとつしかありません。それは聖書を知ることです。私たちは、神が聖書の中で何を教えておられるか、きちんと知らなくてはなりません。イエスは、真理によって誘惑を退けることができました(ルカ4章)。私たちにも同じ真理が与えられています。神は聖書と聖霊をくださいました。これらが、私たちを導きます。私たちがだまされたり、道を逸脱させられたりしないように守ってくれます。
雨に想う
新しく植えたペチュニアが、可哀想なことに土砂降りの雨に打たれてしまいました。できることなら、軒下に避難させてやりたいぐらいです。雨がやんだとき、ペチュニアの小さな花々は、滝のように降り注いだ雨水の重さでうなだれ、弱々しく悲しげです。しかし数時間経つと、それらはぴんと上を向き、翌日には、まっすぐに力強く立っていました。
なんという変容でしょう。雨水はペチュニアの頭を叩いたあと、枝葉から滑り落ち、土壌の中に浸み込みます。そして、ペチュニアの茎を通ってそれを潤し、まっすぐに立ちあがる力を与えます。
私は日光が好きなので、雨によって庭の植物が駄目になってしまうのが嫌いです。私には、雨を否定的にとらえる傾向がありますが、それは間違いです。干ばつを体験した人なら、雨が祝福であることを知っています。雨は地を潤し、良い人の上にも、悪い人の上にも、地の恵みを与えてくれます(マタ5:45)。
雨のみならず、人生の嵐に激しく襲われて、その大きな力にくじけそうになったときも同じです。「雨」は、私たちの敵ではありません。私たちの慈しみ深い神が嵐をお許しになったのですから、私たちをより強くするために、それが必要なのでしょう。神は、雨で私たちの外側を打たれますが、私たちの内面を強くされます。そういうわけで、私たちは、まっすぐに強く立ち上がることができます。
境界線で
ミシガン州グランドラピッツ市のフレデリック・マイヤー植物園には、蝶を孵化させる温室があります。この場所は、蝶の成育にとって最適の条件が整っています。気温や湿度が管理され、カロリーと栄養のバランスのとれたエサが準備されています。この温室の中にいれば十分です。どこかに行く必要はありません。ところが、何羽かの蝶は、ガラス張りの温室の外に広がる明るい青空にひきつけられ、豊富な食糧から遠く離れた天井のあたりを飛んでいます。
こんな蝶々に言ってあげたくなります。「君に必要な物は、みんな中にありますよ。外は寒くて厳しいの。あこがれの外に飛び出したら、数分のうちに死んでしまうわ。」
これは神からのメッセージかもしれないと思って、私は自問します。私は有害なものにあこがれていないでしょうか。不必要なものや、持つべきでない物を手に入れようと、エネルギーを費やしていないでしょうか。神の豊かな備えに目を留めず、手の届かないものを良い物と想像していないでしょうか。不信と信仰の境界線の辺りでうろうろしていないでしょうか。
神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます(ピリ4:19)。無いものを手に入れようともがく代わりに、心を開きましょう。そして、神がすでにくださったすべてのものを感謝して受け取りましょう。
感謝をささげる
よちよち歩きの女の子が猫を追って道路に飛び出し、配達のトラックにひかれました。動かない身体を抱きかかえた両親の姿を、4歳の姉は凍りついて見つめていました。この事件は、彼女の家族を冷たい虚しさの中に閉じ込めました。悲しみに打ちのめされない唯一の方法は、無感覚になることでした。すべての感情は凍りつき、逃げ場はありませんでした。
この4歳の姉は作家のアン・ボスカンプです。妹の死による悲しみは、彼女の人生感や神観に影響を及ぼしました。彼女は、恩寵という概念のない世界で育ち、「喜び」でさえ実感を伴わない概念にすぎませんでした。
ボスカンプは新米ママだった頃、聖書が「喜び」と呼ぶ捉えどころのないものを探し始めました。すると「喜び」や「恵み」という言葉は、「カイロ」というギリシャ語に由来しており、この言葉は、「感謝をささげる」を意味するギリシャ語の中心部分だと分かりました。「こんなに簡単なことなの?」と、彼女は不思議に思いました。そして、事の真偽を試してみようと、彼女は自分に与えられている千の事柄について感謝をささげることにしました。少しずつ始めると、瞬く間に「何て感謝なんだろう」という気持ちがとめどなくあふれて来ました。
イエスは、ラザロを死からよみがえらせた後ではなく、その前に感謝をささげられました(ヨハ11:41)。妹とともに失われたアンの喜びの感情も、感謝をささげることで、よみがえってきたのです。喜びは感謝をささげると、与えられます。
小さな犠牲
イースターが近づくと、イエスはご自身を犠牲にして、私と神が和解できるようにしてくださったということに思いを巡らします。そして、私のためにすべてを犠牲にされたという事実に焦点を合わせるために、自分も小さな犠牲を払います。つまり、好きな物(または事)をひとつ、我慢するのです。好きな物(事)は我慢すると、それを求める気持ちがいっそう募ります。それは、イエスが私のためにどれほどの犠牲を払ってくださったかを気づかせてくれます。
私は「〇〇断ち」に成功したいので、無理のないものを断つようにしがちですが、それでも失敗します。そんな小さなことさえ完全にできない自分の無力さは、イースターの重要性を私に思い知らせてくれます。もし私たちが完全であるなら、イエスは死ななくてもよかったのです。
イエスがユダヤを巡っておられるときに出会った若い金持ちの男性は、自分の良い行いによって永遠のいのちを得ようとしていました。しかし、人間は誰ひとり、救いにふさわしいほどの良い人にはなれない、とご存知のイエスは、「それ(救い)は人にはできないことですが、神は、そうではありません」と語られました(マコ10:27)。
イエスの犠牲を思って、何かをあきらめることが良い人や尊い人を作るのではありませんが、その行為は、神以外に尊いお方は無いということを思い出させてくれます(18節)。これは、覚えておくべきことです。この尊いお方、完全な神が犠牲を払い、私たちが救われることを可能にしてくださいました。