頭からこころへ
子どもの頃のピアノの先生は、暗譜にこだわる人でした。一曲を間違わないで弾くというだけでは十分でなく、何曲かを連続して弾いて、どれも完璧でなくてはいけませんでした。その理由は、ピアノを弾いて欲しいと人に言われたときに「ごめんなさい、楽譜がないから弾けません」と言わなくても良いように、ということでした。
子どもの頃、聖句の暗記もしました。詩篇119篇11節も覚えました。私は幼かったので、聖書を暗記すれば罪を犯さないのだと信じ、一生懸命暗記しました。暗唱聖句で表彰され「ムーディ・バイブル・ストーリー」の本をもらったこともありました。
聖書を暗唱することは良い習慣ですが、覚えるだけで罪を犯さなくなるわけではありません。私も表彰されてまもなく、聖書のみことばを頭に叩き込んだけれども、私の態度や行動にはあまり反映されていないと気づきました。知識があるというだけでは罪に打ち勝てるはずもなく、むしろ罪悪感ばかりが募りました。
やがて、私は主のみことばを全人的に理解すべきだと気づきました。つまり、音楽家が演奏曲を自分のものにするように、私もみことばを自分のものとし、心にたくわえるのです。私たちは聖書のみことばを引用するのと同じぐらい、聖書のみことばを行わなければなりません。みことばが私たちにとって、単なる頭の知識から心の宝へと変化するにつれ、罪の影響力は失われていきます。
地図の真実
カーナビは目的地までの最適な経路を教えてくれる新しい機器ですが、私たち夫婦は、いまだに地図を用いて道を探しています。たいていは夫のジェイが運転するので、当然、地図を見るのは私の役目です。私は普段は方向音痴ではないのですが、動いている車の道案内は得意ではありません。
未使用のギア
初めて乗った自転車には、ギアはひとつだけでした。スピードが速くても遅くても、登り坂でも下りでも、同じギアだけです。次の自転車には、3つのギアがありました。平坦な道、上り坂、そして下り坂用です。3台目の自転車には10個のギアがついているので、いろいろな選択をすることができます。しかし、いくつもギアがあるからといって、全部のギアを毎回使うわけではありません。スタート時や上り坂に最適なギアがあり、加速したいときに使うギアがあり、ゆっくり走りたいときに使うギアもあります。ですから、ギアに関して言えることはこうです。すべてのギアが常に使用中なのではありません。あるギアは、今はいりません。しかし、今は不要だからといって、今後も不要だとは言えません。
私たちの霊の賜物や、奉仕に用いる技術についても同じことが言えます。以前は〇〇の賜物を用いてうまく仕えていたのに…と思うようなとき、自分はもう役に立たなくなったとか、ありがたいと思ってもらえない、などと考えてはいけません。今、使っている「ギア」を神に感謝しましょう。ひとつの賜物が今は必要とされていないからといって、それがずっと不要だとは限りません。
状況やニーズには常に変化が伴い、予測不能です。また、必要とされる霊の賜物はその折々に違ってきます。使徒パウロはテトスに「いつでも良いわざをする用意が」あるようにと勧めました(テト3:1 口語訳)。私たちも、そのようにしていましょう。
必要なのは従順
子どもの頃、親の家で生活するのは犠牲が多いと思っていましたが、今思えば、そんな不平は何とばかげたことでしょう。親から家賃を請求されたことはありません。私に必要とされたのは、親の言うことを聞くという従順さだけでした。自分の使ったものの後片付けをする、礼儀正しく、嘘をつかない、教会へ行くという、我が家の規則に従うことです。決して難しいことではないのに、従えなかったこともあります。しかし、だからといって、私は家を追い出されたりしませんでした。両親は、家の規則は束縛するのが目的ではなく、私を守るためにあるのだと、何度も教えてくれました。そして、私の自我から私を守るために、時には規則を厳しくしたりもしました。
イスラエルの民が約束の地で必要とされたものも、やはり従順でした。モーセは人生の最期に、神が祝福してくださるか否かは、民が神に従うかどうかにかかっていると言いました(申30:16)。モーセは以前にも「気をつけて…聞き従いなさい。それは…永久にしあわせになるためである」(12:28)と語り、主に従うことで良い人生を送ることができると教えました。
聖書は規則だらけだという人もいますが、それは私たちのためだと分かってほしいと思います。神の命令は、人間関係を良好に保ちつつ暮らすためです。神は、地球という輝かしい星を創造され、私たちをそこに住まわせてくださいました。従順とは、私たちが神の家族としてこの星で暮らしていくための、必要条件なのです。