喜びを広める
ジャネットは外国の学校で英語を教えていましたが、職場の雰囲気は重苦しいものでした。各々が黙々と自分の仕事をして、互いに手伝ったり、励ましたりもせず、誰も幸せそうに見えません。しかしジャネットは、神が自分にしてくださった全てのことに感謝しているので、その思いが行動に表れます。彼女は、いつも笑顔で人なつっこく、面倒がらずに他人を助けます。そして、鼻歌を歌ったり、賛美歌を口ずさんだりするのです。そんなジャネットに感化され、学校の雰囲気が少しずつ変わってきました。笑顔の人が増え、助け合いも増えました。教育委員会の人がやって来て、何が変わったのかと尋ねると、校長はクリスチャンではないのに、「イエスが喜びを運んで来ました」と答えました。ジャネットはイエスの愛で満ちていて、それがみんなの上にこぼれ落ちたのです。
木々が目覚めるとき
春が来るという望みが、寒くて雪の多い冬のあいだ、私たちミシガン州の住民の心を支えます。そして5月になると、その忍耐が報われます。月初には裸だった大きな枝が、月末には、緑の葉の茂った枝になります。日々の変化は小さくて気づかないのに、我が家の庭の木々は、灰色から緑になっていました。
蜜のようなみことば
エジプトのツタンカーメン王の墓所が1922年に発掘された時、墓の中には、たくさんの物品が詰まっていました。古代エジプト人が死後の世界で必要だと考えていた物で、金の神棚や宝石、衣装、家具、武器のほか、蜂蜜の壷もありました。その蜜は、3,200年を経てもなお、食べることができたのです。
日光が必要
分かっていたのに、あきらめきれませんでした。ラベルには、日光を好むとはっきり書いてあります。我が家の庭は日陰なので、この木には適しません。けれども、その色や葉の形、それに香りが気に入ったのです。それで、家に持ち帰って庭に植え、大切に世話をしました。けれども、その木は元気なくしおれています。その木には陽の光が必要なのですが、私には、それをあげることができません。十分に世話をすることで日照不足を補えるかもしれないと思いましたが、だめでした。結局、必要なものは、必要なのです。
着目する
特別なことがあって家に人が来るとき、掃除するのは憂鬱です。きれいになったところは気づかれず、汚れが取れない所は目立つと思うからです。信仰かつ哲学的な疑問のひとつは、「なぜ人は良いことではなく、悪いことに目を留めがちなのか」です。私たちは、人の親切より無礼を覚えていがちです。慈善より犯罪の方がニュースになります。自然の美しさより自然災害の方が、人の心を捕えます。
天国のヒント
私の集う教会から通りを挟んだ所に、世界的に有名な植物園があります。そこで地域の教会の親睦会が催されました。私は園の中を歩き、植物を熟知する人たちが丹精込めて育てた木や花を見ながら、昔からの知り合いに挨拶をしたり、久しぶりに会う人たちと近況を分かち合ったりしました。その催しは、天国はこういうところかしらという、教会のあるべき姿を象徴するものに富んでいたように感じました。
最高の幸せ
子どもの頃、「みんながしている」という台詞には説得力があると思っていましたが、違いました。私の両親はどんなに頼んでも、良くないと思うことは絶対に許しませんでした。大人になると、我を通すための言い訳も増えます。人に迷惑をかけない、法律に違反しない、相手が先に仕掛けた、決してバレない…。そこには、自分の思いが何よりも大切、という信念が隠れています。
完璧への道
クリスマスは完璧を求める気持ちが大きくなるときです。私たちは、最高のクリスマスを実現するために食事の献立を考え、プレゼントやカードを選び、メッセージを添えて送ります。しかし、まごころを込めたプレゼントに「ありがとう」の一言もなかったり、クリスマス料理がうまくできなかったり、カードを送ったあとで文字の間違いに気づいたり、パーティの最中に子どもたちがおもちゃの取り合いをしたり、家族が昔のことをむし返して口論したらどうでしょう。あまりにも完璧を思い描きすぎて、それを実現できないと、頑張りの終着点は失望です。
完全な贈り物
毎年、近所の植物園で世界のクリスマスという展示をしています。私のお気に入りは、キリストの降誕を表したフランスのミニチュアです。通常のミニチュアは、黄金と乳香と没薬を手にした東方の博士たちが、羊飼いといっしょに飼い葉おけを取り囲んでいますが、これはフランスの村人たちが、パンやワイン、チーズや花など、神に守られて作った生産物を赤子のイエスにささげています。ここから連想するのは、神の家に初穂の最上のものをささげるという旧約聖書の命令です(出23:16-19)。またそれは、すべては神から来るので、ささげ物は何もかも、神にいただいた物だという事実を示しています。