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寄稿一覧 有限会社デイリーブレッド

成功と勝利

私たちは競争社会に生きています。その中で失敗者、敗北者になりたいと思っている人は、ひとりもいないはずです。どうすれば人生で成功できるのか。勝利者とはどういう人なのか。そもそも、全員が成功者、勝利者になれるのか。そういう問いが心に浮かんだことはありませんか。聖書のみことばの中に、その答えがあります。デボーション5日プラン「成功と勝利」を使って、聖書と向き合ってください。あなたの心の問いかけに、神のみことばが直接答えてくださるでしょう。

チャンスはある

聖書のみことば:Ⅱコリント4:16-18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。—Ⅱコリント4:18

女子ワールドカップ・ドイツ大会(2011年)で澤穂希選手は、キャプテンとしてチームを優勝に導いただけではなく、自身も得点王に選ばれました。日本は強豪アメリカを相手に最初劣勢でしたが、チャンスをつかんで同点に追いつき延長戦に持ち込みました。そして延長前半の失点にもくじけず後半に追いつき、PK戦に持ち込んで勝ったのです。勝利の鍵は何かという質問に、澤は「チームワークと、決してあきらめない精神」だと答えました。

さて、「神をあきらめた」という人がいます。彼らは言います。神に助けてほしいと願ったとき、神はそばにいなかった…叶えてください、導いてください、信仰をくださいと必死で叫んだのに、応えてくださらなかった…。神はこうして、自分は存在しないか、存在していたとしても頼りにならないと証明したのだ…。

疲労困憊(こんぱい)の中で、日本はチャンスを物にしました。ここに示された信仰のレッスンは、シンプルです。強い信仰が欲しいと祈るなら、信仰を働かせるチャンスとして困難が与えられ、その中で信仰は強くなります。問題だと思っていたそのことは、実はプラスにつながっています。困難が栄光につながると使徒パウロが語っているのは、このことです(Ⅱコリ4:16-18)。神はそれを示してくださいました。

問題が起こってもぶつぶつ言わずに、目を高く上げ、神を信じてチャンスをつかみましょう。永遠に意味あるものを獲得しましょう。

問題の中から成長が育まれる。

神と出会った人のうた

クリスチャンが人口の1パーセントに満たないと言われる日本で「アメージング・グレイス」というキリストのあがないの愛をたたえる歌が、なぜこれほどまでに歌われるのでしょう。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの人生は、神と出会ったことで麗しく変えられました。ニュートンに限らず、神と出会った人の歌は、人の心に普遍的な感動を与えます。デボーション5日プラン「神と出会った人のうた」は、ゴスペル(讃美歌)の作者やそれを歌う人たちの人生を振り返りつつ、聖書に向き合うことを願って作られたものです。

暗闇の歌姫

聖書のみことば:ルカ1:67-80

日の出がいと高き所からわれらを訪れ、—ルカ1:78

夜明け前、小鳥のさえずりを聞いて、日の出が近いことを知ります。今は暗くても、輝く太陽がすぐに昇ると分かっています。

ファニー・クロスビーは「暗闇の歌姫」と呼ばれていました。幼くして視力を失いましたが、霊性溢れる多くの賛美歌、特にイエスとの再会に想いを馳せる数々の歌を書きました。彼女は子どもの頃、天国の光景を夢で見ました。そして、それをテーマにして多くの作品を書きました。生涯で8千曲以上作詞しました。今日でも「罪とがを赦され」(新聖歌266)や「おお御神をほめまつれ」(新聖歌18)などがよく歌われています。

ザカリヤは、救い主を期待しつつ神をたたえましたが、そのとき、霊的な意味での夜明けを待っていました。彼は、マラキ書4章2節を引用して、「日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」と語りました(ルカ1:78-79)。

救い主は来てくださり、私たちの罪のために死なれました。そして、死からよみがえり、天にのぼり、再臨されることを約束されました。

今は暗い状況の中にいると感じていても、御子にまみえる明るい未来を思って、神を賛美しましょう。クロスビーが愛した「罪とがを赦され 神の子となりたる わが魂の喜び 比べ得るものなし」の歌詞は、あなたを勇気づけ、キリストと再会する栄えあるその日を、楽しみにさせてくれます。

クリスチャンならば、地上の暗い悲しみは、いつの日か天国の明るい歌声に変えられる。

アメイジング・グレイス

聖書のみことば:エペソ2:1-10

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。—ローマ5:20

ジョン・ニュートンは18世紀の人で、父と一緒に商船で海に出ていました。父が引退したあと軍艦勤務を強要されましたが、耐えられなくなって逃げ出し、アフリカに向けて出航することになっていた奴隷船に乗り込みました。

彼は、冷酷にも人身売買を生業にし、ついには自ら奴隷船を持って船長になりました。ところが1748年5月10日、彼の人生は全く変わりました。その日、彼の船は恐ろしい暴風雨に遭遇しました。そして、船が今にも沈没するというとき、ニュートンは大声で「主よ、あわれんでください」と叫んだのです。

その夜、ニュートンは船室で神のあわれみについて深く考えました。自分のためにキリストが犠牲になられたことを信じるに至って、神のアメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)を個人的に体験しました。やがて彼は奴隷交易から身を引き、キリストを教える働き人になりました。ジョン・ニュートンは牧師になりましたが、それ以上に、多くの人に愛されている賛美歌「アメイジング・グレイス」の作者として知られています。この賛美歌は、彼の驚くべき経験の告白です。

聖霊は、私たちに罪を自覚させ、それを捨て去る力をくださいます。キリストを救い主として心に迎えましょう。そうすれば、自分ではできないことも、主の力によって成し遂げることができます。それが「アメイジング・グレイス」です。

神は愛される資格のない人を、ご自身の恵みによって自分のものとして愛される。

イエスの愛

聖書のみことば:ヨハネ19:17-24

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。—ヨハネ3:16

あまりないことですが、一日に3度同じ歌を聴きました。まず、昼過ぎに高齢者施設の合唱クラブに出席しました。祈って集会を終わろうとすると、入所者のウィリーが、「『主我を愛す』をいっしょに歌ってください」と言いました。夕方にはユースグループの集会に出席しました。そこで青年たちは、手拍子をしたり、足を打ち鳴らしたりして同じ曲を歌いました。その夜遅く、携帯電話にメールが届きました。メールには添付ファイルがついていて、それを開くと、2歳半になる姪の娘が可愛い声で「主は強ければ、我弱くとも…」と歌っていました。その日、90代、10代、そして幼児が、ひとつの歌を歌っていました。

このシンプルな曲を3回も聴いたので、神は何か伝えようとされているのかしらと、ふと思いました。実際、「私はあなたを愛している」というメッセージを、神はずっと昔にくださいました。ヨハネの福音書19章には、主イエスは人々にいばらの冠をかぶせられ、あざけられ、打たれ、裸にされ、十字架につけられたとあります(1-6節)。イエスにはそれを止めさせる力がありましたが、黙っておられました(11節)。私たちの罪の代価を払い、私たちを永遠の滅びから救うためです。愛のためにそうなさったのです。

神はどれほど私たちを愛しておられるでしょう。イエスはご自分の腕を広げ、十字架につけられました。私たちのために死なれ、よみがえられました。この愛をあなたも受け取りませんか。

神の愛を正確に計ろうとすると、それは計りきれない、ということが分かる。

天国からの癒やし

聖書のみことば:Ⅱコリント1:1-10

慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。—Ⅱコリント1:3

トマス・ムーアはアイルランドの詩人であり、作詞家、そして歌手です。多くの人たちが彼の歌を聴き、また歌いました。彼の才能は、多くの人たちに喜びを与えました。しかし悲しいことに、彼の生活は、5人の子ども全員に次々と先立たれるという不幸に見舞われ、とても困難なものでした。ムーアの賛美歌は、「なやむものよ、とく立ちて、めぐみの座にきたれや。天のちからにいやしえぬ、かなしみは地にあらじ」(讃美歌399番)と語っていますが、彼の心の痛みを思うとき、この言葉は一層重みを帯びてきます。心に響くこの歌詞は、祈りの中で神にお会いするならば、私たちの痛んだ心も癒やされていくことを思い出させます。

使徒パウロは、コリントのクリスチャンたちに次のように書きました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(Ⅱコリ1:3-4)。彼もまた、天の御父が傷ついた心を慰めてくださると知っていました。しかし、私たちは時として、自分の悲しみにとらわれてしまって、そればかりを見つめるので、慰めてくださるお方を遠ざけてしまいます。私たちは思い出さなければなりません。神の慰めと癒やしは、祈りを通して与えられます。

神に思いのたけを打ち明けるなら、心に平安が与えられます。そして、傷ついた心が少しずつ癒やされていきます。「天のちからにいやしえぬ、かなしみは地にあらじ」。まさに、そのとおりだからです。

祈りは、希望と癒やしが育つのに最適の土壌だ。

計画の変更

聖書のみことば:箴言16:1-9

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。—箴言16:9

それは1818年のクリスマスイブ、オーストリアの村、オーベルンドルフの教会で起こりました。副牧師のヨゼフ・モールはイブ礼拝用にと新しい賛美歌の歌詞を書き、オルガン奏者のフランツ・グルーバーがメロディーをつけました。ところが、教会のオルガンが壊れてしまいました。グルーバーは急きょギターを手に取り、モールの歌の伴奏をしました。これが世界で最初の「きよしこの夜」の演奏でした。

話はこれで終わりません。壊れたオルガンを修理するために来た修理人は、グルーバーが試し弾きしたその曲を大変気に入り、楽譜の写しを自分の村に持って帰りました。村では、手袋職人の四人の娘がその歌を覚え、その地方のいたるところで開かれたコンサートで歌いました。オルガンの故障のおかげで、新しいクリスマス・ソングはオーストリア中の人々の祝福となり、やがては、世界中の人々に祝福を与えるようになりました。

物が壊れたり、計画が変わったりするとき、どう対応すべきでしょう。望むように物事を進められないと、私たちはいらいらして心配しがちです。そんな時こそ、自分は後ろに下がって、神を信頼しましょう。そして、神がご栄光のためにその状況をどう用いられるか、見届けるまで待ちましょう。私たちの人生に見られる変更は、「きよしこの夜」のような素晴らしい結果を世界にもたらさないかも知れません。しかし、神が全てを支配してくださっているおかげで、すべてが静かで、すべてが輝いていると確信できます。

人生というドラマでは、神が見えない監督だ。

神と出会った人の風景

古今東西、多くの人たちは自然の雄大さ、荘厳さ、繊細さ、その不思議に驚き、神が存在されることを感じてきました。神が世界を創造されたのですから、作品の中に作者を垣間見るように、人は自然の中に神を垣間見てきたのです。一方、神と出会った人たちは、それだけに留まりませんでした。神を知り、畏れ、敬愛し、礼拝しました。そして、神の作品をより深く理解していきました。デボーション5日プラン「神と出会った人の風景」は、豊かな自然を味わい感謝しつつ、聖書に向き合うことを願って作られたものです。

関連トピックス

> キリストの再臨

主を愛するから

夫が出張から帰る前日、息子が「ママ、パパが早く帰ってくるといいね」と言いました。私は「なぜ?」と尋ねながら、「お土産を買って来てくれるから」とか、「いっしょにボール遊びをしたいから」などと答えるだろうと思っていました。ところが息子は真顔で、「パパが大好きだから、早く帰って来て欲しいんだ」と言いました。

神を待ち望む

飛行機を乗り継ぐためにシャトルバスに乗っていると、運転手にバスを止めて待つようにと連絡が入りました。飛行機に乗り遅れるかもしれません。乗客のひとりは我慢できず、すぐに発車しなければ訴えてやると運転手に怒鳴りました。しかし、その時です。空港職員がブリーフケースを持って駆けてくると、怒っていた客に向かって、それを高々と掲げたのです。彼は嬉しそうに言いました。「お客さま、お忘れ物ですよ。先ほど、重要な会議に出るとおっしゃっていたので、きっと必要だと思いまして。」

先を見つめる

オランダの著名な画家レンブラントは、未完成の絵をイーゼルに残して、63歳で急死しました。その絵は生後40日のイエスを抱いた、シメオンの表情を描いています。背景と細部が未完でした。シメオンは、自分の死期を悟り世を去る準備ができていましたが(ルカ2:29)、レンブラントも同様だったと言う美術評論家もいます。

> キリストの死

敷石との出会い

現代のエルサレムは、何世紀にも渡って戦争と破壊が繰り返された、瓦礫の上に建てられた都市です。私たち家族は、イエスがここを通って十字架刑に向われたと伝承されるヴィアドロローサ(悲しみの道)を歩き、途中にあるシオン女子修道院の地下も見学しました。そこには、近年の建設工事で発掘された古い敷石が展示されています。その石にはローマ兵が暇つぶしにゲームをした跡も残っていました。

完璧な平安

何年も平安と満足を求めてきたと友人は言いました。彼女は夫婦でビジネスを成功させ、大きな家、高価な宝石や服を手に入れ、影響力のある人たちと交友するようになりました。しかし、それらによって心の平安を得ることはありませんでした。そんなある日、心が塞いで絶望的になっていた彼女に、友だちがイエスの福音を伝えました。そして「平和の君」に出会ったのです。その日を境に、平安や満足についての考え方が全く変わったそうです。

十字架を覚えて

教会の礼拝堂の正面に大きな十字架があります。人間の罪と神の聖(きよ)さが交差した、あのイエスがかかられた十字架の象徴です。私たちの悪い行為、発言、態度、考えなどすべての罪を贖うために、全く罪のない神の御子が死なれました。私たちが当然の報いとして受けるべき永遠の死から救われるために、神の御業が完成しました(ロマ6:23)。

> デイリーブレッド

安全な場所

娘は私といっしょに親戚の集まりに出かけることになり、長旅に不安そうでした。そこで運転手役を買って出ると、彼女は「そうね。でも、私の車の方が安心なのだけれど… お母さん、運転できる?」と言いました。私は、娘が自分のゆったりした車で行きたいのかしらと思って「私の車じゃ狭苦しい?」と尋ねました。すると彼女は「そうじゃないけれど、自分の車は私にとって安全な場所なの。守られているみたいに感じるのよ」と言いました。

終わることのない美しさ

グランドキャニオンを見るのが大好きです。キャニオンの縁に立つと、神の御手の新しい御業を発見し感動します。

力をもらった!

パチパチという大きな音にドキッとして、慌てて台所に駆け込みました。コーヒーメーカーを誤って空焚きしていたのです。私はコンセントを抜いてポットの持ち手を掴みました。それから、タイルのカウンターの上に置いても大丈夫かしらと、ポットの底を指で触ったのです。当然、指に火傷を負い、水ぶくれができてしまいました。

> 人間関係

離れても見捨てない

姪が別れを告げに来たとき、こみ上げてくるものがありました。ボストン大学の大学院に通うために引っ越すのです。大学の4年間も家を離れていましたが、同じ州にいて2時間半ほど車を走らせれば会うことができました。ところが今度は千キロ以上も離れた所に行くのです。頻繁に会うことはできません。彼女を神の御手に委ねるのみです。

怒りの管理

あるとき夕食を共にした友人が、実は、家族のひとりにうんざりしていると言いました。その人には彼女を無視したり、馬鹿にしたりという悪い癖があるのですが、彼女はそれを指摘できないと言います。以前、思い切って意見したところ辛辣な言葉を返され、堪忍袋の緒が切れてしまいました。そして口喧嘩になり、ふたりの溝が深まったからです。

最初の一歩を踏み出す

タム・ダシュは人生で何かが欠けていると感じ、娘が通っている教会に行くことにしました。しかし、娘といっしょには行きません。以前、彼女を怒らせたことが、ふたりを疎遠にしていたからです。タムは賛美が始まる頃に会堂に来て、礼拝が終わるとすぐに帰りました。

> 信仰

新鮮な信仰

息子がヘロイン中毒だったとき、同じ苦しみを抱える家族のために神が用いてくださると言われても、信じる気にはならなかったでしょう。神は困難から良いものを生むお方ですが、渦中にいてそう思うのは至難の業です。

喜びと苦しみ

幼い息子が初めてレモンをかじったとき、鼻にしわを寄せて目をつぶり、舌を出すと「すっぱ〜い!」と叫びました。私は笑いながらレモンを捨ててあげようと手を伸ばしました。しかし、彼は「だめ!」と言って逃げ出し、顔をしかめながら全部食べると、皮だけを私に渡して去っていきました。私の顔も酸っぱさにゆがみました。

しばらくとどまる

指輪物語の三部作について話していたとき、10代の男の子が、映画より本の方が好きだと言いました。理由を聞くと「本ならば、その世界の余韻に好きなだけ留まれるから」と答えました。本の余韻に浸る、特に聖書の場合は、みことばを思い巡らし、そこに記されている物語の中に入り込むことは有益です。

> 神の働き

伴走者

姉のキャロルが乳がんだと診断された時、私たち家族は心配し、みんなで彼女のために祈りました。その後の数ヶ月間、キャロルは手術や治療、そして闘病について正直に報告してくれました。ですから、良くなったとの知らせを受けたときは、みんなで祝いました。キャロルは、全快に向かっていました。

> 神の助け

全部は出来ない

ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。

神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。

けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。

神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。

大いなることを期待せよ

ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。

聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。

歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。

金を選別する

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。そうすると、金は重いので、それだけがなべの底に残るのです。私たちは熟練の業を見てからまねをしようとしましたが、ほとんど上達しませんでした。というのも、金が混じっているかもしれないと思うと、価値のない土を思い切って捨てられないからです。

この体験は、何かを持っていると真に価値ある物を見つけられないことがあるという真理を表しています。このことが当てはまるひとりの金持ちと、イエスは出会われました。この金持ちにとって、この世の富は、精神的な宝よりも重要でした(ルカ18:18-30)。その様子を見て、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われました(24節)。

金銭は、それ自体は悪いものではありません。しかし、蓄財が人生の目標になってしうことがあります。そうなったなら、人は本当の豊かさを手にすることはできません。一生懸命にお金を貯めるのは愚かなことです。なぜなら、試練を耐えて、神を賛美し、神に栄光や栄誉を帰すように私たちを支えてくれるのは、お金ではないからです。それは純粋な信仰です(Ⅰペテ1:7)。

> 神の赦し

泥の水たまり

友人のエドには幼い息子がいます。彼は息子が泥の水たまりの中に立っていたので、そこから出なさいと言いました。すると、息子は水たまりの中を走り始めました。「走るな」と言うと、歩きました。「歩くな」と言うと、水たまりに立ったまま、不満そうに父親を見ています。男の子は、父親の言うことをとにかく聞きたくなかったのでしょう。私にもこの子と同じような頑固さがあります。自分の行いが神に喜ばれるものでないと知りながらも、結局そうしてしまいます。神はイスラエルの民に「あなたの神、主の御声によく聞き従」うように言われましたが(申28:1)、イスラエルは何度も失敗してしまいました。「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように」と、詩篇の作者も葛藤しています(詩119:5)

> 試練

岩の中に隠れる

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記38-40
聖書のみことば 詩篇18:30-36
 
主はわが巌、わがとりで、―詩篇18:2

オーガスタス・トプラディーという若い伝道師の物語があります。トプラディーは、イギリスの田舎を散歩していて突然の嵐に見舞われましたが、大きな岩のくぼみを見つけて逃げ込みました。そしてどしゃぶりの雨の中、嵐が過ぎ去るのを待ちながら、自分が逃げ込んだところと人生の嵐における神の助けについて思い巡らしました。

それでも私は喜ぶ

1年で聖書を!
◆ ゼカリヤ書9-12
◆ 黙示録20
聖書のみことば ハバクク書3:11-19
 
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
―ハバクク書3:18

この世の人生は楽ではありません。ふと「神はどこにいるのだろう」と思ったことはないでしょうか。不正義が行われているのに神は黙っておられる、と思ったこともあるかもしれません。私たちは、困難に対する応答の仕方を選ぶことができます。預言者ハバククの態度を模範にしましょう。彼は、「喜ぶ」という選択をしたのです。

満たされて待つ

1年で聖書を!
◆ ゼカリヤ書1-4
◆ 黙示録18
聖書のみことば Ⅱコリント4:7-18
 
私たちは勇気を失いません。―Ⅱコリント4:16

ロジャーはリストラで職を失い、何ヶ月も求職しました。彼は祈り、友人にも祈ってほしいと頼み、神を信頼しました。しかし、彼と妻のジェリーの心は揺れていました。その時どきの必要が思いもよらない方法で満たされることもあって、神のあわれみを体験しましたが、再就職は無理ではないかと不安になることもありました。彼らは15ヶ月間、待ち続けました。

> 贖い

リーアムと買物に

息子のリーアムは母のためにタンポポを摘むのが大好きです。ある人にとっては雑草でも、彼にとってはすてきな花なのです。そして妻は、タンポポをもらうことに全く飽きていません。ある日、私たちは父子で買物に行きました。花売場を通り過ぎようとすると、息子は黄色のチューリップの花束を指さし、大声で「パパ。あのタンポポをママに買わなくちゃ!」と興奮気味に言いました。私は大笑いし、ママはその話をフェイスブックのネタにしました(もちろん、そのチューリップは買いました。)

> 霊的な豊かさ

金を選別する

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。そうすると、金は重いので、それだけがなべの底に残るのです。私たちは熟練の業を見てからまねをしようとしましたが、ほとんど上達しませんでした。というのも、金が混じっているかもしれないと思うと、価値のない土を思い切って捨てられないからです。

この体験は、何かを持っていると真に価値ある物を見つけられないことがあるという真理を表しています。このことが当てはまるひとりの金持ちと、イエスは出会われました。この金持ちにとって、この世の富は、精神的な宝よりも重要でした(ルカ18:18-30)。その様子を見て、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われました(24節)。

金銭は、それ自体は悪いものではありません。しかし、蓄財が人生の目標になってしうことがあります。そうなったなら、人は本当の豊かさを手にすることはできません。一生懸命にお金を貯めるのは愚かなことです。なぜなら、試練を耐えて、神を賛美し、神に栄光や栄誉を帰すように私たちを支えてくれるのは、お金ではないからです。それは純粋な信仰です(Ⅰペテ1:7)。

金を選別する

1年で聖書を!
◆ エレミヤ書40-42
聖書のみことば ルカ18:18-30
 
あなたがたの信仰の試練は、……金よりも尊く、―Ⅰペテロ1:7

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。