津波のあとで

津波のあとで

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なぜかと問うべき時

-神の主権をどう考えるか

なぜこんなひどいことが起こるのか、と神に問うことは、非常に聖書的です。聖書は私たちに、この疑問と真っ向から取り組むように励ましています。ヨブやエレミヤ、詩篇の筆者たちがそのよい例でしょう。ヨブはなぜこんな事が自分の身に起こっているのかを理解するまで、長い間苦しみました。たいていの場合、神の民はこのような疑問との格闘の後に、こう断言します。神は主権をもって何が起こっているかをご存知なので、最も賢いことは、この神に信頼し続けることだと。これは詩篇の中によく見られます(詩篇73篇など)。

惨事の時に神の主権を信じるならば、苦しみの中にあっても私たちは希望を失いません。どのように悲惨な出来事であっても、神を愛する人々のためには、そこから益をもたらしてくださるという神の約束に信頼すべきです(ローマ8:28)。

このように神の主権を理解することは、すぐにはできないことかもしれません。時に私たちは、葛藤の中で神と格闘する必要があります。このような時には、祈りと神のみことばに聞くことが大切です(詩篇27)。災害からの復興や、被害を受けた人を助けるのに忙しい最中かもしれませんが、神と神のみことばに接する時間を見つける必要があります。どんなに難しい状況であっても、神の民がともに集まって礼拝を守らなければならない理由は、ここにあります。一緒に礼拝する時、私たちは永遠の霊的真理に目を向け、神の主権を思うことができます。霊的真理に触れることは、絶望に陥ることなく、私たちを助けてくださる神に信頼する力を与えてくれます。神とそのみことばによって慰められ、力が与えられ、それによって私たちは苦しんでいる他の人たちを助けることができるようになります。

-被造物のうめき

アダムとイブが神に対して罪を犯したため、罪がこの世に入り、この世界は本来の姿を失いました。聖書はこれを、被造物がのろいの下にあると表現しています(創世記3:17、ローマ8:20)。そのため、やがて神が新しい天と新しい地をもたらすまで、自然災害は起こり続けるでしょう(Ⅱペテロ3:13、黙示録21:1)。パウロは「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言っています(ローマ8:22)。そして彼は、キリストを知る者たちも、ともにうめいていると言います(23節)。被造物のうめき、そして神の民のうめきというものを、津波という惨事を通して私たちは明らかに感じることができました。

クリスチャンは、うめき苦しむ方法を身に付けなければなりません。そうでなければ、問題が起こってそこで働くよう神が召された時、私たちは神の御心から逃げ出して、安全な場所へ行ってしまいたいという誘惑を受けるでしょう。うめくことが、困難に対処する上で役に立ちます。

ローマ人への手紙8章で言われているうめきは、「産みの苦しみ」と描写されています(22節)。出産の痛みを耐える女性は、子供が生まれてくる喜びの瞬間を待ち望むからこそ、その痛みに耐えることができます。

同じように、私たちのうめき苦しみは、確かに来る栄光に満ちた時を思い起こさせます(Ⅱコリント5:2-4参照)。その時を待ち望むことで、神が私たちを置かれたその困難な状況から逃げ出さないでいられるのです。天において、苦しみから永遠に解放される時が確かに来ることを知っているので、私たちは困難に耐えることができます。

うめき苦しむことは、私たちが経験した痛みから来る苦い思いや憎しみを取り去ってくれます。神と神の民の前でうめくことを身に付け、心の中に苦しみをため込まないことが大切です。そうする時、私たちは感じている痛みを表に出し、悲しい経験の中で積み重なってくる心のひずみを解き放つことができます。そうすれば、苦い思いや憎しみが大きくなることもないでしょう。

私たちがうめくことは、神が私たちを慰めてくださる機会にもなります。神が直接、また友人を通して間接的に慰めてくださいます。真の慰めを得る時、私たちの経験する愛は心の苦い思いから出る怒りを取り去り、憎しみに満たされることはありません。

スリランカが国として津波の被害にうめくとき、私たちは個人としてもうめいています。そこには、なぜこんなことが起こったのですかと、神に問ううめきが含まれています。この世界を治めておられるのは神である、という確信を心の奥深くに持っていてもです。

-神のうめき

聖書が神について教えている中で最も驚くべきことは、私たちがうめく時、神も私たちとともにうめかれる、ということです(ローマ8:26)。神は私たちの痛みを感じることができないほど、遠く離れてはおられません。イスラエルが苦しんでいた時、神も苦しまれたと聖書は語っています(イザヤ63:9)。実際神は、ご自分を認めもしない人々のために嘆き悲しまれます(イザヤ16:11、エレミヤ48:31)。これは、神は遠い存在で私たちにかまってもくれない方だという、一般的な考えとはまるで違う教えです。

神であるイエスはこの地上に来られた時、この世界の痛みを見て嘆き、うめきました。ですから神がうめかれる、ということは不思議なことではありません。イエスはエルサレムのかたくなさと、やがて来るさばきのために泣きました(ルカ19:41-44)。イエスはまた、友人であるラザロの墓の前で、泣いている他の人たちとともに泣きました(ヨハネ11:33-35)。ですから私たちは、こう言うことができます。神は、泣いているスリランカの人たちとともに泣いておられます。

神は泣いておられる。だから私たちは、もっと積極的に泣いてよいのです。しかしさらに大切なのは、神が私たちとともにうめいておられることを知るなら、私たちの身に起こったことで神に対して怒りを抱くこともなくなる、ということです。また、私たちが途方にくれた時、慰めを求めて神のもとへ行く励ましにもなります。

-これはさばきか?

このような惨事が起こった時によく聞くのは、これは神のさばきなのではないか、という質問です。中には、これはクリスチャンを迫害した人々へのさばきだと言う人さえいます。未信者だけでなく何千人という善良なクリスチャンたちも犠牲になったことを考えれば、そんな主張に対しては大きな疑問を抱かざるをえません。

スリランカでは普通、教会出席者数がいちばん多いのはクリスマスの日です。津波はクリスマスの次の日、礼拝が行われている時間に襲ってきました。多くの人たちは前日にもう教会へ行っており、クリスマスのお祝い事もあって、ほとんどの教会では礼拝出席者があまり多くありませんでした。教会の建っている場所のおかげで、礼拝に出ていた人たちが助かり、家にいたために亡くなった、というケースがありました。その一方で、礼拝に出ていた忠実な人たち(ほとんどが女性と子供)が亡くなり、助かったのは3人だけ。ところが礼拝に行かなかった男性たちは助かった、という教会のことも知っています。

イエスがこの世界に来られた時、誰もが味わうのと同じ苦しみを経験されました。それこそが、イエスが人となられたことの重要な点でした。同じように、イエスに従う者たちも、手を差し伸べようとする人々と同じ苦しみを通る必要があります。津波からの復興は、私たちすべてにこの機会を与えています。津波の被害で苦しんでいる人々の中に多くのクリスチャンが含まれるということは、私たちにとって意義のあることです。私たちは彼らのうめきを通して、この国の人々とひとつになることができるからです。

イエスは当時起こったふたつの惨事についてコメントしていますが、そのみことばはとても興味深いものです。イエスがやがて来るさばきについて話しておられた時、ある人たちがやって来て、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていた時に、ピラトによって殺されたことを知らせました。多分このことを話した人たちは、これは神のさばきだとでも言いたかったのでしょう。でもイエスはそのような考えを否定してこう言いました。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:3)。それからイエスは、塔が倒れて18人が犠牲になった事故のことに触れ、もし悔い改めないなら「みな同じように滅びます」(5節)と話しました。同じ警告を3節と5節で二度繰り返すことは、この警告が差し迫ったものであることを示しています。

私たちはこのような惨事を、悔い改めないならもっと大変な事態に直面することへの警告だととらえるべきだ、というのがイエスの言っておられることです。同じように、津波のような災害も、私たちすべてに差し迫った警告を与えています。それは、私たちがいかに弱い存在であるかということを思い知らせます。私たちは、死とその後に続くさばきに直面する準備ができているだろうか。このような災害に直面する時、私たちはすべてのものを統べ治め、自然をも支配する神の前にへりくだり、この神に従うようにと導かれます。

聖書に出てくるさばきに関する記事は、そのほとんどが神の民に向けられていることを忘れてはなりません。神との契約の外にいる人々へのさばきに関する記事は、わずかしかありません。人々は、神に対する反逆のゆえにさばかれる。そのさばきから救われるためにはどうしたらよいか、そのことを何とかして彼らに知らせなければなりません。しかし、ある出来事をとりあげて、それを私たちの敵に対するさばきだと決めつけるのは危険です。聖書に明確に教えられていること、つまり、私たちを迫害する者のために祈り(マタイ5:44)、彼らを祝福しなさい(ローマ12:14)という命令にこそ従うべきです。

津波の後、クリスチャンのグループがある施設を訪ね、敷地のがれきを取り除く手伝いをしました。その施設の責任者は、このクリスチャンたちを迫害していた人でした。この人は彼らの行動にいたく感動し、クリスチャンたちに今まで迫害してきたことを謝りました。

私が聞いた話では、あるクリスチャンたちは、神に反逆しているこの国を神が打ったのだと言って勝ち誇っているそうです。彼らに対して私は言いたい。聖書によれば、神はご自分が懲らしめる人々のことを悲しんでおられます(イザヤ16:9、エレミヤ48:32-36、ホセア11:8-9)。だから、もし仮に津波が神からの罰であったとしても、私たちは嘆くべきであって、決して勝ち誇ったように言うべきではありません。

エレミヤは、ユダヤの人々が神への反逆のために罰せられることを預言しました。そのため人々は彼を迫害しました。しかし預言どおりに彼らが罰せられた時、エレミヤは決して嬉しそうに「ほら、そう言っただろう!」とは言いませんでした。彼は自分の民のために嘆いたのです(エレミヤ9:1)。実際彼は、もし人々が悔い改めなければ彼自身が悲しみに満たされるであろうことを、すでにさばきの前から分かっていました。エレミヤはこう言っています。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」(エレミヤ13:17)。

クリスチャンを迫害したり軽蔑したりする人たちを祝福するためには、エレミヤの模範にならうことです。私たちは彼らが、そして全ての人が、やがて来るさばきの日に創造主の前に立つことができるよう、あらゆる手を尽くすべきです。

専門家たちは津波を予測できたはずなのに、なぜ警報を出さなかったのかという批判の声もあります。どうか私たちが、やがて来る神のさばきについて人々に警告するのを怠りませんように。

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2004年12月26日、著者アジス・フェルナンド師の愛する母国スリランカを大津波が襲い、壊滅的な被害を与えました。この小冊子は、神を愛する一市民としての彼の考えをまとめたものです。自然災害などの渦中にいる方、支援に携わる方、そして惨状を覚えて心騒がせているすべての方の助けとなれば幸いです。「私はこの文章を、津波の数日後に書いています。……このような状況になると私たちは、聖書の中に励ましと導きを見つけようとします。そして聖書が、私たちに多くのことを語りかけていることを見出します。この小冊子は、スリランカのクリスチャンたちが今、何をすべきか、ということを聖書に基づいて私なりに考えてまとめたものです。さらに原文を改訂し、津波に限らずどのような惨事に直面している人にも役立つようにと考慮しました。」(本文より)