働くべき時
クリスチャンにとってはどんな災害も、行動するようにとの神の呼びかけです。私たちは神の愛によって強められ(Ⅱコリント5:14)、聖霊によって力を受けるので(使徒1:8)、苦しむ人々に対して大きな影響を与えることができるように特別に整えられます。
惨事に際してクリスチャンは、ただちに働き始めるべきです。初代教会のクリスチャンたちは、自分たちの間にある必要を知った時、すぐにその必要を満たすために働きました(使徒4:34-37)。アンテオケで生まれたばかりの教会が、エルサレムで起きたききんのことを聞いた時、彼らはすぐに、自分たちのできることをして助けました(11:28-30)。このようにして、クリスチャンたちは歴史を通していつも救援活動の最前線で活躍してきました。
今私たちは、あまりにも大きな必要がある状況に直面しています。第二テモテ2章でパウロはテモテに、クリスチャンとしての奉仕の働きについて教えています。これは私たちにとっても大切な教えだと思います。この個所を見ながら、私たちの置かれている状況に当てはめて考えてみましょう。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(Ⅱテモテ2:3)。パウロはここで、テモテの奉仕の働きを苦しみと表現しています。福音のために苦しむことがパウロの日常であったことを考えると、彼がこう言うのもうなずけます(Ⅰコリント15:30-31、コロサイ1:24-29参照)。そしてこれは、苦しみに満ちたこの世の中に生きるすべてのクリスチャンに対する呼びかけであり、自分たちの国に仕え、苦しむようにという呼びかけです。
忠実なクリスチャンは神と自分の国に仕えようとする時、様々な苦しみに遭います。その苦しみの多くは間接的なものです。例えば、救援活動に従事する夫を持つ妻は、彼がその働きに専念することを許す必要があるでしょう。しかしこれは結婚生活に影響を及ぼし、彼女にとっても大きなストレスとなることがあります。
救援活動で連絡係として、電話やメールのやり取り、報告書を書くことで忙しくしている女性の婚約者は、彼女と一緒にいる時間があまり持てないかもしれません。一緒にいる時でも、彼女は疲れてイライラしているでしょう。
でも、私たちの苦しみが神への奉仕のためであると気づく時、それは痛みをやわらげ、怒りを静める助けになります。苦しみの中には、もっと直接的なものもあります。体の疲れ、睡眠不足、働きの動機に対する批判や、働きの方法に対する非難などです。
3節から後でパウロはテモテに、苦しみに対する心構えを説明しています。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません」(Ⅱテモテ2:4)。このような時、人々に奉仕する働きにつくためには、一般の人たちが必要だと思っている何かをあきらめなければならないでしょう。非常事態においては、非常手段が必要です。この危機に際して人々のために働こうとするなら、皆が何かを犠牲にしなければならないことを、家族に対しても話しておく必要があります。
もちろん、家族生活は大切です。家族とのつながりは、どんなことがあっても欠かしてはなりません。しかし危機に直面している時には、いつもとは違うやり方が求められるかもしれません。
例えば、私の結婚記念日は津波の数日後でした。疲れ果てている中、私の子供たちも夜遅くまで救援活動のために働いていました。この国で多くの人々が困窮の中にいる時に、記念日だからといってお金をかけることを私の妻はためらいました。でも夕食のため何とか家族全員を集め(夜9時半頃!)、安いけれどおいしい食事を出すレストランへ行くことができました。おいしい食事を4人で食べても、全部で600円ほど。このような状況の中で高いレストランへ行くことは、ふさわしくないと思ったのです。それでも家族と一緒にお祝いをすることができました。
パウロはこの苦しみを、農夫が一生懸命働くようなものだと言っています(Ⅱテモテ2:6)。またパウロは、「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1:29)と言いました。滅び行くこの世界でキリストを証するよう召されていることの緊急性を考えると、私たちはこの地上で生きている間は、常に熱心に神に仕えて働く必要があります。やがて私たちは、天において全き休息に入ります(黙示録14:13)。今は働く時です。
インドで恵まれない子供たちのために働いた、偉大な宣教師であるエミー・カーマイケルはこう言っています。「私たちには勝利を祝うのに永遠の時間がありますが、彼らを勝ち取るために残されているのは、日没前のたった数時間だけです。」津波の直後である今、スリランカのクリスチャンの多くはとても疲れています。けれどもそれは、仕方のないことです。この国がこれほど大きな緊急事態に直面しているのですから。
私たちにとって今は、母国の民のために苦しみ、一生懸命に働き、何も持たない人たちを助けるために、自分の持っている何かをあきらめる時です。今、この時にたゆむことなく働かなければ、それは大変な間違いとなるでしょう。アモスは自分の国が危機的な状況にあるのに安楽に遊んでいた人たちに対して、さばきを宣告しています(アモス6:1-6)。ダビデは本来、王として戦いに出ているべき時に罪に陥りました。彼はその時、家にとどまっていたのです(Ⅱサムエル11:1)。
第二テモテ2章の8~13節でパウロはテモテに、神への奉仕の働きで苦しむなら、どんな祝福が待ち受けているかを教えています。11節と12節を見てみましょう。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」しかしここには、警告もあります。「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:12b13)。
このみことばは、やがて来るさばきが厳然たる事実であることを思い起こさせます。奉仕の業には報いがあり、不従順には罰がある。この真理は、クリスチャンとして生きる上で私たちが行うあらゆることに影響を与えます。
やがて、私たちが個人的な犠牲を払って行った、あらゆることが報われる日が来ます。あとの者が先になります(ルカ13:30)。私たちが行ったことが、他の人たちの功績のように言われる時でも、腹を立てたりしてはいけない理由がここにあります。この世で何の報いも受けられないようなことでも、喜んで行う理由がここにあります。どんなに取るに足らないと思える仕事であっても、小さすぎる仕事はありません。神が私たちに、しもべとしてそれを行う力を与えてくださるからです。それは汚いトイレを掃除することかもしれません。膿んだ傷口を処置することだったり、ゴミを片付けることかもしれません。私たちはそれをする力を持つだけでなく、このようなことを素晴らしい特権だと思うことができます。
津波の直後、多くのクリスチャンがすすんで、世間では卑しい身分の人々がするとされている仕事をしました。私は大きな喜びをもって、それを証することができます。実際、何人かは身分差別を支持する人たちから冷たくあしらわれました。彼らは傷付き、私も怒りました。しかし彼らは働きをやめず、私は神を賛美しました。他の人のしたがらない仕事をし、しもべとして仕えることができるのも、キリストの愛が私たちのうちにあるからです。私たちは神の国の王子、王女であり、さばきの日に誉れを受けることを知っています。災害の時こそ、クリスチャンがしもべであることを証する時です。
2004年12月26日、著者アジス・フェルナンド師の愛する母国スリランカを大津波が襲い、壊滅的な被害を与えました。この小冊子は、神を愛する一市民としての彼の考えをまとめたものです。自然災害などの渦中にいる方、支援に携わる方、そして惨状を覚えて心騒がせているすべての方の助けとなれば幸いです。「私はこの文章を、津波の数日後に書いています。……このような状況になると私たちは、聖書の中に励ましと導きを見つけようとします。そして聖書が、私たちに多くのことを語りかけていることを見出します。この小冊子は、スリランカのクリスチャンたちが今、何をすべきか、ということを聖書に基づいて私なりに考えてまとめたものです。さらに原文を改訂し、津波に限らずどのような惨事に直面している人にも役立つようにと考慮しました。」(本文より)