愛によって生きる
ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の中に、私の好きなシーンがあります。主人公テヴィエは、何十年も前に見合い結婚した妻ゴールデに、「愛しているかい?」と突然尋ねます。「何ですって?」と驚くゴールデ。そこから長いやりとりが始まり、最終的には、25 年間も生活に子育てに二人三脚で頑張ってきて、それが愛でないはずがない、という結論に至ります。そして、ずっと愛されていたのだと気付いて二人で幸せな気分に浸る、というシーンです。
そのシーンは、愛されていることに気付く喜びと、人生を共にするという決意の中で育まれていく愛を美しく描いています。誰かに寄り添い、その人のために生きるなら、ことさら愛を論じなくても、そこには確かな愛があります。
それは、パウロが「愛によって」と呼ぶ献身的な愛です(Ⅰコリント14:1、エフェソ5:1-2)。私たちキリスト者が愛によって生きる日々は、ずっと愛されてきたことに気付くところから始まります。キリストの犠牲が、その道を永遠に確立し、そこからすべてが変わりました。
愛によって生きる道の起点は神の愛です。神がまず愛されたのです(Ⅰヨハネ4:19)。自らをささげて愛する対象を心底喜ぶ愛は、神の本質そのものであり、その愛を土台として天地が創造されました。父・子・聖霊の神は、永遠に互いを自分自身として愛し合い交わっておられます。その豊かな愛があふれ出し、世界は造られました。この神の愛は、私たちの心を他の人々へと開かせてくれます。
そういうわけで、使徒パウロは、クリスチャンの共生についてキリスト者のコミュニティーに教える際、まずキリストにある神の赦しと憐(あわ)れみと愛を思い起こさせることから始めました。あなたたちはずっと愛されてきた、だから愛されたように人を愛しなさい、と(エフェソ5:1-2)。
とはいえ、犠牲をいとわず他者の最善のために尽くす生き方は、容易ではありません。もしそうなら、聖書の紙幅を割いて説く必要はなかったでしょう。
私たちは深い愛で無条件に愛されているのに、そのことを忘れてしまった子どものようです。思い出したとしても、なかなか信じられません。「私なんて……」とか「あんな人を?」といぶかります。
ですから聖書は、キリストという贈り物が愛の神について示したことを繰り返し思い出すようにと促します。また、クリスチャン同士が一緒にそうすることを勧めます。
結婚式でよく読まれるコリントの信徒への手紙一13 章には、麗しい愛の描写があります。ここで忘れないでほしいのは、この手紙はもともと信仰者のコミュニティーに向けられたものだということです。この種の愛を育むべき対象は、配偶者という限定された相手ではなく、共に生きるキリスト者全員でした。皆で一つの体となるようにされていたからです(12:13)。
そこを土台にするなら、ねたみ、怒り、自分勝手、保身といった負の動機を手放していけるでしょう(エフェソ4:31)。自分で自分を守らなくてはならないと考えていた時は、自衛手段として、そのように生きてきたかもしれません。愛されていることを知った今、それを続ける必要はないのです。
私たちが「愛に根ざし、愛にしっかりと立」ち、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」、「人の知識をはるかに超える(キリスト)の愛」で満たされ、「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずか」るとき(3:17–19)、なぜ愛こそが「最高の道」であり(Ⅰコリント12:31)、それ以上に大切なものはない(13:3)のかをようやく理解するでしょう。
そうすれば、救い主が開いてくださった愛によって生きる道という恵みと自由を喜んで選ぶことができます。それは「自分の利益を求めず」(5節)、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(7節)愛の道です。
Monica La Roseデイリーブレッド寄稿者
どうすれば心から人を愛せるのでしょう。今月は、愛に満ちたイエスのご性質を体験することと、人との関わりの中でその愛を示すことに注目しました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 豊かに育つ愛
8日 愛が現れる時
15日 心して愛する
22日 愛を学ぶ