無謀なまでの寛大さ
69歳のブレンダ・ジョーンズが生体肝移植の登録をして以来、1年以上が経っていました。移植が間に合わないかもしれない、という不安な日々を過ごす彼女のもとに、適合するドナーが現れたという知らせが来ました。しかし喜びもつかの間、移植を待つ別の女性が、生死をさまよっていることを知ったのです。その女性がまだ23歳だと聞き、ブレンダは自分の身を顧みず、移植の順番を譲りました。「その若い女性をそのまま死なせていたら、移植は一生の汚点となっていたでしょう」とブレンダは言います。幸い、ブレンダにも別のドナーが見つかり、2人とも必要な移植を受けることができました。
己を顧みず自分を差し出す人には、誰もが驚きます。だからこそ、自分を殺そうとした人々のために命をささげ、何のお返しもできない私たちに惜しみなく赦しを与えたイエスの話を、人はにわかに信じられないのです。これこそ、無謀なまでの寛大さを伝える究極の物語です。これほどの寛大さは、人の理解を超えています。
そんなイエスに従い、その生き方に倣って生きるようにと、イエスが繰り返し促されることに、私たちは戸惑います。しかし聖書は、イエスのように、人のために自分の人生を謙虚にささげなさい(ピリピ2:1-11)、寛大な心で愛しなさい(ヨハネ15:9-17)、と随所で私たちに求めます。このような呼びかけに答えるとは、お金も時間も余裕のない中で与えることを意味するでしょう。自分の評判や将来設計について、完全に主に明け渡すことにもなるでしょう。不可能に思えるかもしれませんが、勇気を振り絞ってイエスに従うとき、私たちは無謀なまでの寛大な人生へと踏み出せるのです。
神は私たちにいのちと赦しをはじめあらゆる恵みを与えて、驚くべき寛大さを示してくださいました。今月は、神と人の前で寛大に生きるとはどういうことかを考えてみました。このトピックは、6 月1、8、15、22 日のエッセーでも取り上げています。