見返りを求めない奉仕
カフェテリアで朝食チャリティイベントを主催する朝。一人の女性客が未開封のままの食材をちらっと見、人手も時間も明らかに足りていないのを察して、「手伝いましょうか」と笑顔で申し出てくれました。
パンケーキを作りながら話すうちに、この女性客アニータは認知症の母親を在宅で介護していることが分かりました。この日は朝からヘルパーに来てもらって自分の時間を作るつもりだったけれど、代わりにこのイベントを手伝うことにした、と言いました。
自分のことを脇に置いて手伝ってくれたアニータから、この世で人々に奉仕されたイエスのことを思いました。最後の晩餐では、ご自分の不安をさておき弟子たちの足を洗われました。迫りくる究極の苦しみを予見しつつも、弟子たちの一番の必要に心を留め、大切なことを教えられました。
この時、イエスは人に仕えてもらう権利をいとも簡単に放棄されました(ヨハネ13:4)。場の主役であり、知恵ある先生、受肉した神であるイエスが、ご自分の権利を手放し、ひざまずいて弟子たちの汚れた足を洗い流されたのです。そして、「 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(14節)と言われました。
キリストは、単に善行を勧めたのではありません。大小を問わず、他者のために自分を捨ててこそ意義ある奉仕だと示されたのです。神の力によって、人の話に耳を傾け、受け入れ、養い、イエスを指し示すことができますように。イエスは「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」(マルコ10:45)方なのですから。
どうすれば主のように人に仕えられるでしょう。今月は、もっと人に目を向け、イエスの愛と力によってよりよく仕えるにはどうしたらよいかを考えてみました。このトピックは、11月1、8、15、22日のエッセーでも取り上げています。