至福の教え

御国の価値観

マンスリートピック
品性 | 2023年2月のトピック

山上の垂訓の中で、イエスは御国に関する根本的な考え方を示されました。そこに表された御国を象徴するコンセプトは、世間でもてはやされる生き方とは正反対です。そういうわけで、この教えを「逆転の王による逆転の御国」と呼ぶ聖書学者もいます。

しかし実際には、逆さまなのは人間の世界です。世俗の思考パターンや価値基準に影響された結果です。

私たちの物の見方は上下反転していて矯正が必要です。イエスは、山の上で教えられた時、まず「至福の教え」から語り始めました(マタイ5:3-12)。その内容は、私たちの考え方や価値観の正当性に疑問を投げかけます。イエスが祝福と呼ばれるものを世間は愚かだと呼ぶでしょう。貧しい者、悲しむ者、迫害される者を幸いだと誰が呼ぶでしょうか。しかし、イエスはそう言われました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

これらの祝福の言葉は、神との関係や御国に入る権利を保証するものではありません。むしろ、真の王なる唯一のお方のもとで生きる人の描写です。ですから、「悲しむ者は幸い」と言うとき、悲しいことが幸いなのではありません。神が悲しむ人を慰めてくださるので、その人は幸いなのです。これは、単なる原因と結果の記録ではなく、期待して待ち望むことを表現しています。悲しんでいても、神が全ての慰めの神であることを確信しているのです。

イエスが治める御国では、どんな場面でも必ずイエスご自身が共にいてくださいます。そして、一つ一つの課題に向き合い乗り越えるために十二分な助けや導きを与えてくださいます。私たちを「幸い」にするものは、恵まれた環境ではなく、民を思いやる王の誠実だと分かるとき、正しい御国の価値観で生きる一歩を踏み出せるでしょう。

デイリーブレッド寄稿者Bill Crowder

山上の垂訓でイエスが「幸い」と言われた生き方とはどういうものでしょうか。今月はマタイの福音書5章3-12節にある「至福の教え」から、神が幸いと呼ばれるものの特徴について考えました。このテーマは、2月1日8日15日22日のエッセーでも取り上げています。