イエス:まことの羊飼い
リーバンクス家は代々、羊飼いの家系です。ジェームス・リーバンクスは、著書『羊飼いの暮らし』の中で、トゲのある毒草が生い茂るわずかな土地をみんなで牧草地にした、と振り返ります。誰にでもできることではありません。リーバンクス家の人々は、手塩にかけて羊を育てます。病気や野生動物から守ることはもちろん、長い冬には霜や日照不足で牧草が乏しくなるので、餌の確保に奔走します。一家は、たゆまず羊たちの世話をします。羊に惜しみない愛情を注ぐ彼らは、人生を羊にささげていると言えるでしょう。
この本を読むと、羊飼いという言葉から連想するのんびりした牧歌的なイメージは壊れます。羊飼いは、かわいい羊さんたちと緑の牧場で戯れてはいません。常に危険と隣り合わせです。これが、詩編23編の世界です。多くの人に親しまれる祈りと慰めの詩編には、ひとつの前提があります。それは、羊飼いが守ってくださる、という真理です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)という冒頭の一行は、詩編23編全体が成り立つために必要な土台です。また、キリスト者にとっての土台とも言えます。これは現実逃避ではありません。むしろ、良い羊飼いがおられるので必要なものは全てそろっている、という大胆な宣言です。良い羊飼いは、緑豊かな牧草地、渇きを癒やす穏やかな水のほとりへと導かれます。不安や悲しみで疲弊したたましいに活力を与えてくださいます。
とはいえ、現実には依然「死の陰の谷を歩く」(4節)ような体験があります。 それでも、私たちは恐怖に屈しません。自力で対処し解決できるからではなく、羊飼いが共にいてくださると知ったからです。このお方の頼もしいご臨在は、恐れを完全に締め出します。 「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)と詩編の著者が語るとおりです。
親切で強い羊飼いがおられるから恐れる必要がないのです。羊飼いの持つむちと杖(つえ)は慰めです(4節)。むちは迷子になった羊を崖からすくい上げる道具、杖は獣を倒すための道具です。羊飼いの優しさと強さが表れています。
さらに、羊飼いである主は問題やトラブルの真っ只中でごちそうを用意してくださいます。それは、豊かさを意味します。必要最小限ではなく、満ちあふれるほど下さるのです(5節)。 私たちの最善のために絶えず配慮し、全ての悪から守ってくださいます。
イエスを信じた初期の信者たちは、詩編23編がまことの羊飼いイエスを指し示していることを理解していました。そのつながりについては、イエスご自身が 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と説明しておられます。詩編23編に記された羊飼いは、現代のキリスト者にとっても、イエスそのものです。主が良い羊飼いなので、足りないものはありません。主は私たちを休ませ、傷心を癒やし、背負って死の陰の谷を突き進まれます。(回り道するのではなく、ど真ん中を通られるのです。) 私たちが迷うとき、イエスは優しく親切に導いてくださいます。恐ろしい牙をむく敵には容赦せず、私たちを守ってくださいます。
イエスがどのようなお方かを知る一つの方法は、詩編に描かれた羊飼いの姿を知ることです。 イエスは、決して私たちを見捨てられない誠実なお方です。 常に必要を満たされる気前良いお方です。 知恵に満ちあふれる主は、本当に必要なものをご存じです。 不安で震える心を優しく気遣ってくださいます。 力強い主は、私たちに危害を加えるものから守ってくださいます。 傷つける要因が自分自身のうちにあったとしても、そうです。
羊飼いたちには各々独自の呼び声があり、その呼び声で羊は羊飼いが近くにいることを察知します。 イスラエルを旅した時、羊飼いたちの様子に見とれました。 羊と土地を知り尽くし、きびきびと動いて群れを制する姿に感激しました。 群れに優しく接する一方で、脅威を察すれば瞬時に行動する気合いが感じられ、頼りがいがありました。羊飼いの目が行き届いた羊の群れは、安全に守られ、安心しきった様子でした。
良い牧者と共にいるなら、私たちも安心です。
キリストに倣って生きていくためには、キリストのご性質を知る必要があります。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 天の父の愛
8日 人の世話をする
15日 完全な救い主
22日 イエスを愛した記憶