◆ エレミヤ書27-29
◆ テトス3
あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
― ルカ10:33
私たちは愛の少ない者です。なぜでしょう。親切にできない最大の理由のひとつは、相手の値踏みをするからです。私たちには「私の親切を受けるにふさわしい人とは、かれこれしかじかの人」という固定観念があります。イエスに「では、私の隣人とは、だれのことですか」と質問した人がいました(ルカ10:29)。つまり、「私の親切を受けるのにふさわしい人は誰ですか」という質問です。イエスはその答として、たとえ話をなさいました。
それは、非常に危険だと悪名高い、エルサレムからエリコにつづく道で起こった出来事です。旅人が強盗に襲われました。身ぐるみをはがれて殴られ、瀕死(ひんし)で置き去りにされました。そこに、信仰の人であるはずのユダヤ人(祭司とレビ人)が通りかかりましたが、この人たちは反対側を通り過ぎていきました。多分、宗教的に汚れることを恐れたのでしょう。しかし、サマリヤ人が通りかかり、見知らぬ人が苦しんでいるのを見て、純粋に気の毒だと思いました。
ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑(けいべつ)していたので、聴衆はイエスの話に息をのんだことでしょう。サマリヤ人は、この人にあわれみをかける必要はありませんでした。彼は自分たちを軽蔑しているユダヤ人だったからです。しかしこの人は、相手の値踏みをしませんでした。助けの必要な人だったので、手を差し伸べてあげたのです。
あなたは人を選んで親切にしていませんか。イエスに従う者ならば、みんなに親切にしましょう。特に、無視しがちな人たちに、隣人愛を実行する良い方法を見つけましょう。 (Marvin Williams)
キリストを愛する愛の本気度は、隣人を愛する愛によって計られる。