1年で聖書を!
◆ エゼキエル書27-29
◆ Ⅰペテロ3

 
主は、私のいのちのとりで。―詩篇27:1


私たちは生活を聖俗に区分しがちです。一日の多くの時間を仕事や用事、家事や子どもの世話などに取られる中で、何とかして「霊的」な時間、すなわち、個人のデボーションやスモールグループ、また教会のための時間を確保しようとします。

けれども、詩篇にはそのような分け隔てがありません。ダビデや他の詩人たちは、神を生活の主軸にしていたので、すべてのことは神とつながっていました。彼らにとって、神を拝することは生活の中心でした。礼拝は、諸々の活動を再開するために、まずやっておかなければならない、という類のものではありませんでした。生活のあらゆる細部に「神に入っていただく」、そのプロセスを学ぶ必要が私たちにはあります。
 

神の真の居場所はすべての中心だ、と私が認識していく過程において、詩篇はひとつのステップになりました。詩篇の作者たちには、神を求める強く切迫した思い、飢え渇きがあります。一方、私の神に対する求めは、貧血症であるかのように弱々しいのです。彼らは、疲れきった鹿が水をあえぎ求めるように、舌を突き出して神を求めていました(42:1-2)。夜は「主の麗しさ」を夢見ながら横になりました(27:4)。他の場所で千年過ごすよりも、むしろ神の御前で1日を過ごしたいと思っていました(84:10)。

詩篇の作者たちは、「信仰の上級コース」に入っていました。私たちも詩篇を読むなら、彼らの影響を幾分なりとも受けることができるかもしれません。

(Philip Yancey)

神に心を寄せるために、あなたの心を完全に神に差し出そう。