指示を与える
◆ エゼキエル書22-24
少し前のことですが、家内の車を牽引してもらうことになりました。業者に電話をして、我が家への道を説明し、カーナビは使わないようにと運転手に伝言して欲しいと言いました。なぜなら、同じ名前の道路が畑を隔てて存在するので、カーナビ頼りでは道に迷ってしまうからです。電話の相手は運転手に必ず伝えますと言いました。
ところが、家の前に立ってレッカー車の到着を待っていると、運転手から電話があり、カーナビを見ながら来たが道に迷ってしまったと言いました。「やはり」と思いながら道案内をしたところ、ようやくレッカー車が到着しました。
クリスチャンは、天国への行き方に関する正確な情報、つまり、「イエスと個人的な関係を結ぶことによって天国に入ることができる」という事実を提供しなければなりません(ヨハ3:16、Ⅰコリ15:1-5参照)。善行を積むとか、できるだけ良い人になる、というような自分勝手な宗教観に従っていっても天国には行けないことを、きちんと教えてあげなければなりません。相手の宗教に配慮しつつ、私たちは、キリストの死、埋葬、そして復活という真の福音を伝えなくてはなりません。イエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)と、はっきりおっしゃったのですから。
救いは人の力で到達できるものではなく、キリストの贖罪によって与えられる恵みだ。
馬のアイマスク
◆ エゼキエル書19-21
私たちの家からさほど遠くないところに、多くの馬を飼育する牧場があります。ある季節になると、目にマスクをかけられた馬を見かけます。私は長い間、目隠しをされるなんてずいぶん可哀想だと思ってきましたが、最近、そうではないことが分かりました。実は、目にかけられたアイマスクは網状の布で作られていて、目隠しではないのです。馬は見ることができます。一方で、馬の眼病の原因になるハエは、目にたかることはできません。アイマスクは、馬の視界を遮るためではなく、馬が病気で盲目になるのを防ぐためのものでした。
クリスチャンでない人は、聖書に関して同じような誤解をしがちです。この人たちは、世の楽しみを見せないように、神が聖書というアイマスクを人の目にかけるのだと考えます。そして、人生をエンジョイできないクリスチャンは可哀想だと思います。私が馬のアイマスクについて本当のことを知らなかったように、彼らは聖書について本当のことを知りません。聖書は、良いものを見ることを妨げるものではありません。うそ偽りに侵されて霊の目が見えなくならないように、私たちを守ってくれているのです。聖書は人生をエンジョイさせないのではなく、最高の人生を可能にしてくれるものです。
聖書は、真実を知るのを妨げるのではなく、うそを信じさせられることを防いでくれます。
神のみことばのフィルターを通してこの世を見れば、神と世についての真理が学べる。
あなたの心
◆ エゼキエル書15-18
まだ7歳になったばかりのマルコムが、教会のみんなの前で祈りました。彼は100人の子どもたちの前に立ち、「イエスさま、僕たちがサッカーをして、教会に来れたことを感謝します。車で来る間、守ってくださったこと、僕たちの罪を赦してくれたこと、永遠のいのちをくださったことを感謝します。イエスさま、大好きです。僕たちが、こんなにイエスさまを愛していることを、決して忘れないでください」と祈りました。素晴らしい祈りでした。
彼が自分の気持ちをストレートに神に伝えているのを聞いていると、涙がこぼれました。大人は、神、もしくは周りの人たちを気にして、聞こえの良い祈りをしようと言葉を選びがちです。しかし神は、ご自分の子どものストレートな思いを聞くことを喜ばれるはずです。
ネヘミヤは、郷里エルサレムの状況が心配でたまりませんでした。なぜなら、町の城壁は壊され、人々はひどく困窮していると聞いていたからです(ネヘ1:3)。彼は何かしたいと思って、神にそう語りました。彼は神の品性をほめたたえ(5節)、罪の赦しを請い(6節)、ご自分の民になさった約束を思い出してください、と祈りました(9節)。そして、ペルシヤ王があわれんでくれるように祈りました(11節)。神は、ネヘミヤたちがエルサレムの城壁を再建する間中、彼らを見守ってくださいました。
あなたの心の内には何がありますか。感謝ですか、それとも重荷ですか。どちらであったにせよ、いつくしみ深い神は、あなたの心の思いを聞きたいと思っておられます。
最高の祈りというものは、謙虚な心から生じる。
空の雲を考えてみよう
◆ エゼキエル書12-14
ずいぶん昔のことですが、息子たちと一緒に庭に寝そべって、雲の流れるのを見つめていたことがありました。「お父さん、どうして雲は浮いているの」と、ひとりが尋ねました。私は、「それはね…」と教養のあるところを見せようと思ったのですが、口ごもってしまいました。そして、「分からないなあ」と知らないことを認め、「でも、調べてあげるよ」と付け加えました。
調べて分かったことは、こうです。凝結した水蒸気が地球の引力で下降すると、地上から昇る温かい空気にぶつかります。そして、再び霧状の水蒸気となり、上昇するのです。これが、この自然現象の説明です。
しかし、自然現象の説明は、究極の答えではありません。雲が浮くのは、神が、その英知によって自然を司る法則をつくり、「完全な知識を持つ方の不思議なみわざ」(ヨブ37:16)を示されたからです。ですから、雲はひとつの象徴、すなわち、神が恵みとまことをもって天地を創造されたということを表すしるしなのです。
いつか、「あの雲は何に見えるだろう」などと思いながら、のんびり雲を見ることがあったら、思い出してください。万物を美しく造られたお方が、上空に雲を浮かばせておられることを。また、その理由は、私たちに驚き敬う心を呼び起こさせるためであることを。大空は、積雲や層雲、巻雲さえも、神の栄光を宣言しています。
被造物は、創造主を指し示すしるしに満ちている。
耳を澄ませる
◆ エゼキエル書8-11
すべての夫婦に当てはまるかどうか分りませんが、どういう訳か、私は考えごとをすると周りの音が聞こえなくなります。妻のマーティが大切な話をしているときでもそうなので、彼女はイライラします。遠くを見ているような私の目に気づくや、妻はしばしば言います。「あなた、私の話をちゃんと聞いているの?」
「聞く」ということは、どんな人間関係にも大切なことですが、神と人との関係にとってはなおさらそうです。神に属している人には、聖書のみことばや聖霊の働きを通して、神と対話する特権が与えられています。神の御声によって、義、愛、恵みなど、イエスの品性や神のみこころと整合性のあるものに導かれていくなら、私たちは真の牧者に注意を向けていると言えます。イエスがご自分を「良き牧者」と言われて明らかになさっているように(ヨハ10章)、イエスの御声に忠実に耳を傾けている人が、イエスの献身的な従者であり(4節)、キリストに似た者に変えられていく人です。
配偶者や友人の話にきちんと耳を傾けることが、「あなたは大切な人です」という無言のメッセージであるように、イエスの御声に注意深く耳を傾けることは、「私の人生にとって神はとても大切なお方だ」ということを証するのです。ですから、生活の雑音ではなく、イエスの御声に耳を澄ませましょう。そして、神がおっしゃることを実行する恵みが与えられるように、祈りましょう。
イエスの言われたことに耳を傾けることが、イエスに従う第一歩だ。
隠れた扉
◆ エゼキエル書4-7
その種の事件はスポーツ界で前代未聞というわけではありません。これが最後でもないでしょう。しかし、この事件に言及することで、恥ずべき過ちを繰り返さないように、自分たちを戒めることができるかもしれません。
クリスチャンで人格者だと思われていた大学フットボールチームのコーチが、全米大学体育協会の規則に対する明確な違反が発覚して、辞任に追い込まれました。ある雑誌は、「彼を公明正大な人としてきたこと自体、大学フットボール界の大いなる神話だったのではないか」とまで述べています。
これは彼にとって何とも恥ずべき事態でしたが、それ以上に、誰にでも起こりうることだという私たちへの警鐘でもあります。人生に秘密の扉をこっそり作り、その向こうで主の御名を汚すような行為をするという誘惑に、人は絶えずつきまとわれます。誠実さと正しさを忘れ、キリストの名をはずかしめてしまうリスクは、誰にでもあります。私たちは皆、誘惑に弱いのです。
誘惑に負けないためには、どうすればよいのでしょう。まず、誘惑が常にあることを認識し(Ⅰコリ10:13)、罪の恐ろしい結末を理解しましょう(ヤコ1:13-15)。そして、クリスチャン同士で説明責任を果たしましょう(伝4:9-12)。それに加えて、転ばないように神の助けを祈りましょう(マタ26:41)。なぜなら、神の恵みと力のみが、私たちを転落から守ってくれるからです。また転んだときでも、助け起こしてくださいます。
どんな罪にも入り口がある。その扉を決して開いてはいけない。
準備を整える
◆ エゼキエル書1-3
常に準備を整えている人というと、子どもの頃、隣家に住んでいたニーンハウス氏を思い出します。彼は、自分の車を必ずバックで車庫に入れていました。そのあたりでは、自宅の車庫入れは前方駐車が一般的なので、子ども心に変わった人だなと思っていました。しかし、母の説明でその理由が分かりました。実は、ニーンハウス氏は町の消防団の一員でした。呼び出しがかかれば、すぐさま消防署に駆けつけねばなりません。一刻たりとも無駄にせずに出動するために、彼は常にバックで駐車していました。
用意周到さは、人生のあらゆる場面で重要です。例えば、アブラハム・リンカーンは「木を切るのに8時間もらえるのならば、私はその内の6時間を斧を研ぐために使う」と語りました。私たちは将来の職業のために勉強し、万一の事故や災害に備えて保険に入ります。また、家族に遺産を残すため、遺書を準備したりさえします。
聖書は、霊的にも準備を整えなさいと教えます。霊の闘いから自らを守るために、御霊の武具を身に着けなさい(エペ6:10-20)。心を引き締め、身を慎みなさい(Ⅰペテ1:13)。私たちの内にある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしなさい(3:15)。約束されたイエスの再臨に備えて準備を整えなさい(マタ24:44)と勧めています。
あなたの将来に対する準備は万全ですか。不安ならば、主の助けと導きを求めましょう。
霊の闘いに備えている人だけが霊的勝利を得る。
なぜ、働くのか
◆ 哀歌1-5
クリストファー・レン卿は、1660年後半、ロンドンのセント・ポール大聖堂の再設計を委任されました。伝説によると、この大事業の工事現場を訪れたとき、現場の労働者は誰ひとりとして、彼がクリストファー・レンだとは気づかなかったそうです。彼は、一人ひとりに何をしているのか尋ねながら歩きました。最初の人は「石を切っています」と答え、2人目は「5シリングと2ペンスの日銭を稼いでいます」と言いました。しかし、3人目の見解はかなり違っていました。「私は、神の栄光のために偉大な大聖堂を建てようとしているクリストファー・レン卿の手伝いをしています」と答えました。何ということでしょう。この人の態度や意欲は、他の人とは大違いでした。
なぜそれをするのか、ということは非常に重要です。それが自分の職業ならば、特にそうです。そういうわけで、パウロはエペソの教会の人たちに、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と、仕事について教えたのです(エペ6:6-7)。
単に給料を稼ぐためや上司に認められるために働いているのなら、その職業意識はクリスチャンのあるべき姿ではありません。職場は、神への献身の証拠として自らの最善を尽くす場です。前述の労働者が語ったように、私たちは「主の栄光のために」働きます。
雇い主が誰であろうと、あなたは実際には神の下で働いている。
聴いて応答する
◆ エレミヤ書50-52
自分のことばかり話す人に会ったことがありますか。礼儀で相手のことを訪ねると、その人は自分のことばかり話し、あなたについて尋ねようとはしません。ふたりの会話は、その人のことだけ、あなたの話題は皆無です。
さて、私たちのデボーションはどうでしょう。私たちはまず、神のみことばをいくらか読みますが、祈る段になると、さっさと自分のニーズに焦点を移して、あの問題を解決してください、生活の必要を満たしてください、病気を癒してください、助けてください、と祈ります。しかし、たった今読んだ神のみことばに対する応答はありません。神がたった今、語りかけてくださったことについては、ほとんど無視しているのです。
詩篇119篇の作者の態度は、このようではありません。この人は、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」と、神のみことばを理解できるように助けてくださいと祈りました(18節)。彼にとって、神のみことばがどれほど大切であるかを告白し、「私の喜び」(24節)だと、祈りの中で述べています。
祈りの中でみことばに応答する習慣を身につけましょう。そうすれば、私たちのデボーションの質が大きく変わります。聖書を読むことと祈ることは、聴いて応答するというきちんとしたコミュニケーションであるべきです。
神のみことばに耳を傾け、それについて祈ろう。