私たちの教会では、子どもたちは、良い行いをするとカードをもらいます。良い選択をすると褒美をもらいます。彼らはカードや褒美を集めています。私たちの教会は、子どもたちの悪い行いに注目するのではなく、良い行いに目を向けるようにしています。
あるとき教会のリーダーが、11才の少年、タイリーにカードを渡しました。すると彼は、「そんなのいらない。必要ないんだ。僕は良い態度でいたいから、そうしたんだもの。だから、ご褒美はいらないんだ」と答えました。彼にとって、正しいことができるということ自体が、ご褒美でした。この少年は、良い価値観を身に着けています。褒美がもらえるか否かにかかわらず、正しい態度で正しいことをしていきたいと願っています。
イエスを信じるクリスチャンは、いつの日か報いを受けます。コリント人への手紙第二5章10節は、「善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」と語ります。けれども、正しい生活をする動機が、報いを受けるためであってはなりません。正しい生活をすれば、救われるわけでもありません。神のために他者を愛する生き方をして、神を喜ばせることが、私たちの心の底からの願いになるべきです。
神のほうが先に私たちを愛してくださったのです(Ⅰヨハ4:19)。私たちは神を愛するなら、神に喜んでもらいたいと思うはずです。そして、純粋な動機で神に仕えたいと思うはずです(箴16:2、 Ⅰコリ4:5)。最も良い報酬は、神とともにいることです。
神に喜んで欲しいという願いが、神に従いたいという動機になる。
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報い