息子が18歳になって運転免許を取得し、自分ひとりで財布を持って出歩くようになってから一年くらいの間、彼が置き忘れた財布を見つけたという電話が何度もかかってきました。私たちは息子に、財布を置きっぱなしにしないように気をつけなさいと注意しました。

けれども、置きっぱなしは常に悪いとは言えません。ヨハネの福音書4章に登場する女性を見てください。彼女は水を汲んでいこうと思っていたのですが、イエスに会うとその目的が変わりました。持っていた水がめを置きっぱなしにして、急いで村に帰りました。イエスのことを伝えるためです(28-29節)。この人のことをみんなに伝えなければという思いが、生きていく上での水の大切ささえ、色あせさせたようです。

ペテロとアンデレも、同じようなことをしました。彼らはイエスに召されました。すると彼らは、生活の糧を得るための道具であった漁網を置きざりにして、イエスに従っていきました(マタ4:18-20)。またヤコブとヨハネに至っては、漁網や舟、父さえも残して、イエスに従いました(21-22節)。

イエス・キリストに従って歩む新生した人生とは、様々なもの(永遠には満たしてくれないものを含む)を置き去りにし、後にして歩むことなのかもしれません。しかし、自分が望んでいたものでさえ、イエスが「あなたにあげよう」と言われている「いのち」や「生ける水」と比べると、大したものでないことが分かるでしょう。