約束の場所に向かうために電車に乗り込んで、ふと、この電車でよかったのかしらと思いました。その方面に行ったことはなく、事前に道順を尋ねていません。確信が持てず、とうとう次の駅で降りてしまいましたが、結局、正しかったのです。

この一件で、疑念とは確信や平安を奪うものだと改めて思いました。かつて私は、自分の救いに確信が持てずに苦しみましたが、神はその問題を解決してくださいました。その後、自分の救いの体験と天国に行けるという確信について、話す機会がありました。すると「どうしてそれが分かるのですか」と尋ねる人がいました。私は聖書のみことば、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(Ⅰヨハ5:13)を、説教じみた口調にならないよう気をつけながら示しました。

聖書は、「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」(11節)と語り、御子イエスを信じる信仰によって、私たちはすでに永遠のいのちを持っていると教えます。そう断言する神のみことばによって、私たちの信仰ははっきりします。気落ちしても、力づけられます。疑念がわいても、勇気を出して乗り越えることができます。