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Lawrence Darmani

Lawrence Darmani

ローレンス・ダーマニ氏は、 ガーナ人作家です。 彼の処女作 「悲しみの子」は、 英連邦作家賞アフリカ部門にて新人賞を受賞しました。 ダーマニ氏は家族とともにガーナ ・ アクラに住んでおり、 Step Publishers の代表および編集者です。

寄稿一覧 Lawrence Darmani

橋を架ける

私の町の住宅は防犯用の高い塀で囲まれています。塀の上に電気柵を取り付ける家もあります。一方、この国では停電が日常茶飯事なので、呼び鈴が作動せず、訪問者が炎天下や大雨の中、塀の外で待たされたりします。居留守を使われる場合もあります。防犯用の塀は、それなりの効果がありますが、悪意のない訪問者に対して差別の壁になることもあります。

主は私をご存じだ

夜中に160キロメートル離れた自分の村に帰ろうとしていました。神はそんな私を見ておられたでしょうか。その時の気持ちは複雑でした。私は高熱と頭痛で「主よ、あなたはここにおられるのでしょうが、とにかく私は痛いのです」と祈っていました。精根尽き果てて小さな集落の近くで車を止めました。少しすると「どうかしましたか?」と親切な人が声をかけてくれました。

解放される

村の子だった私は、鶏の習性を知っていました。鶏を捕まえて押さえ、その後ゆっくり放すと、鶏は逃げられるのに、うずくまったまま動きません。まだ捕まっていると思い込んでいるのです。

神のいつくしみをたたえる

聖書をいっしょに学んでいるグループのひとりが、自分たちの詩篇を書こうと提案しました。文才がないと反対する人もいましたが、大丈夫と励ますと、神が自分のために働いてくださったことを賛美する詩をおのおのが書きました。それは感動的な詩の数々でした。苦難からの解放、守り、備え、そして痛みや涙でさえ語るに値するメッセージであり、私たちの賛美になりました。各人の詩篇は、詩篇136篇と同じく、神の愛はとこしえまで、という真理を表していました。

苦しみの中の強さ

サミーが18歳でイエスを信じたとき、家族に勘当されました。家は伝統の宗教を信じていたからです。そこでキリストの教会は彼を受け入れ、励ましたり、学費を援助したりしました。その後、サミーの救いの証が雑誌に載ると、家族の迫害はさらにひどくなりました。

黙々と前進する

職場の近くで塀際の道のコンクリートの割れ目に植物が育っていると気づきました。悪条件にも関わらず、乾いた割れ目に根を張って、花を咲かせたのです。ふと見ると、真上にはエアコンの室外機があって水滴が落ちていました。厳しい環境下でも上からの水という助けを得ていました。

村のクリスマス

恵みの賜物:神が新しい人生をくださる

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」—ヨハネ10:10

子供の頃の一番古いクリスマスの思い出は、カカオ農場と見上げるようなマホガニーや椰子の木々に囲まれて点在する小さな村々の記憶に遡ります。小学生くらいの子供たちは、両親がクリスマスに着せてくれた新しい服を着て、幼子イエスを探し求める東方の三博士のように、村から村へと歩き回りました(マタ2:1-2)。

みどりごイエスは、そこにはおられませんでしたが、村には親しみと善意が溢れていました。クリスマスの午後になると、母親たちが用意したご馳走の入った器を子供らが隣人に届けました。その村では、クリスマスとは、博愛の時を意味しました。

しかし、真のクリスマスの物語が欠けていたのです。楽しさや喜びが先行して、クリスマスの意味を考えもしませんでした。村に教会はなく、神が「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3:16)というクリスマスのメッセージを伝えてくれる人もいませんでした。当事者抜きの誕生会を祝っていたようなものです。

それとは違って博士らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタ2:2)とイエスを何よりも探し求めました。そして遂に辿り着くと、「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて…贈り物としてささげ」(11節)ました。最初に主を見つけ、拝んでから、贈り物をしたのです。

子供にとっても、大人にとっても、真実はひとつです。お祭り以上に、キリストこそがクリスマスの真意です。神の御子は、私たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つため」(ヨハ10:10)にいらしたからです。 LAWRENCE DARMANI

イエスこそクリスマスを祝う理由である。


聖書のみことば:マタイ2:1-11

1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

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村のクリスマス

聖書のみことば:マタイ2:1-11

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。—ヨハネ10:10

子供の頃の一番古いクリスマスの思い出は、カカオ農場と見上げるようなマホガニーや椰子の木々に囲まれて点在する小さな村々の記憶に遡ります。小学生くらいの子供たちは、両親がクリスマスに着せてくれた新しい服を着て、幼子イエスを探し求める東方の博士のように、村から村へと歩き回りました(マタ2:1-2)。

みどりごイエスは、そこにはおられませんでしたが、村には親しみと善意が溢れていました。クリスマスの午後になると、母親たちが用意したご馳走の入った器を子供らが隣人に届けました。その村では、クリスマスとは、博愛の時を意味しました。

しかし、真のクリスマスの物語が欠けていたのです。楽しさやうれしさが先行して、クリスマスの意味を考えもしませんでした。村に教会はなく、神が「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3:16)というクリスマスのメッセージを伝えてくれる人もいませんでした。当事者抜きの誕生会を祝っていたようなものです。

それとは違って博士らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタ2:2)とイエスを何よりも探し求めました。そして遂に辿り着くと、「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて…贈り物としてささげ」(11節)ました。最初に主を見つけ、拝んでから、贈り物をしたのです。

子供にとっても、大人にとっても、真実はひとつです。お祭り以上に、キリストこそがクリスマスの真意です。神の御子は、私たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つため」(ヨハ10:10)にいらしたからです。

イエスこそクリスマスを祝う理由である。

天国の名簿

聖書のみことば:ルカ10:17-24

あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。—ルカ10:20

ケニア航空のチェックインカウンターでパスポートを差し出すと、私の名前は乗客名簿に無いと言われました。予約再確認をしなかったからです。その日、帰宅する望みは露と消えました。

ここから連想するのは、もうひとつの名簿、すなわち「いのちの書」です。イエスは弟子たちを伝道旅行に送り出しました。彼らはその成功を喜びつつ戻ってきましたが、主は「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました(ルカ10:20)。私たちも成功だけでなく、自分の名前がそこにあるか否かを気にするべきです。それは確実でしょうか。その答えは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)というみことばの中にあります。

ヨハネの黙示録21章には、神を信じる人々を待つ輝かしい聖なる都が描かれています。しかし、「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる」とも語ります(27節)。

「いのちの書」は天国の名簿です。あなたの名前はありますか。

神は、心を神に向けて開く人に向かって、天の門を開いてくださる。