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Lawrence Darmani

Lawrence Darmani

ローレンス・ダーマニ氏は、 ガーナ人作家です。 彼の処女作 「悲しみの子」は、 英連邦作家賞アフリカ部門にて新人賞を受賞しました。 ダーマニ氏は家族とともにガーナ ・ アクラに住んでおり、 Step Publishers の代表および編集者です。

寄稿一覧 Lawrence Darmani

神に近づく

ある女性が祈ろうとしていました。彼女は椅子を持って来て、その前にひざまずき、涙ながらに「親愛なる天の父よ、ここに座ってください。お話があります」と言いました。そして、誰もいない椅子を見つめながら一心に祈りました。彼女が神を信頼し、そこに座って彼女の訴えに耳を傾けておられるお姿を思い浮かべながら、心から祈っていることは明白でした。

伝えずにはいられない

裁判の証人は傍聴人とは違います。彼らは判決を左右する裁判の積極的な参加者です。同じことがキリストの証人にも言えます。私たちは、イエスの死と復活という絶対的に重要な真実に関する積極的に証言する参加者であるべきです。

どんなに辛くても

自宅のある地域が頻繁に停電するので困ります。週に3回もあったり、丸一日復旧せず、辺りが真っ暗だったりすることもあります。家電製品が使えないのも非常に不便です。

あなたの荷を下ろしてください

田舎で軽トラックを運転していた人が、重い荷物を背負った女性を見かけました。車を止めて乗っていくよう勧めると、彼女は感謝して荷台に乗り込みました。ところが奇妙なことに、女性は車に乗ってもまだ、重い荷物を背負っているのです。運転手は言いました。「お願いですから、荷物を下ろして、ゆっくりしてください。このトラックは、あなたも、あなたの荷物も運べます。」

別の側面

聖会の主題は「私の民を慰めよ」で、各講師は安心を保証するメッセージを語りました。しかし、最後に奉仕した講師は、「目を覚ませ」と題して、まったく語調の違うメッセージを語りました。優しい態度ながらも言葉を濁さず、エレミヤ書7章1~11節から、目を覚まして罪を離れなさいと語ったのです。彼は、「私たちは、自分は神に愛されている。だから悪を恐れないと言いながら、様々な悪を行います…神の恵みに隠れて密かに罪を続けてはいけません」と、預言者エレミヤのように忠告しました。

集中して

私は会堂に座って、牧師をじっと見つめていました。その姿勢は、彼の話を漏らさず吸収しているように見えたはずです。しかし突然、みんなの笑い声や手を打つ音が聞こえ、私は驚いて周りを見ました。牧師が面白いことを言ったようでしたが、何のことかさっぱりわかりません。熱心に聞いているように見えて、実は、私の心は別の所にあったのです。

警戒を怠らない

書斎の窓から、木々にやってくる鳥たちを眺めることができます。中には、網戸の隙間に挟まった虫を食べようと、窓のところまで来る鳥もいます。しかし彼らは、用心深く警戒し、聞き耳を立て、周囲に目を配ります。危険がないと分かると、ようやく安心してエサを食べますが、それでも、数秒ごとに周囲を見回します。

わたしはあなたとともにいる

キリスト教出版社のインターンだったとき、クリスチャンになった人の証を雑誌に書きました。劇的な救いを通して以前の生活と決別し、喜んでイエスを人生に迎えた人の話です。ところが発刊の数日後、「気をつけろよ!お前は監視されているぞ。あんなことを書くなら命の保証は無いぞ」と、脅迫電話を受けたのです。キリストを示して脅されたのは、そのときだけではありません。トラクトを配っていて、「それを持って失せろ!さもないと…」と脅されました。2回とも恐ろしい経験でしたが、単なる脅迫でした。一方、脅迫だけでは済まなかったクリスチャンも大勢います。場合によっては、敬虔な生き方をしているというだけで、迫害されることもあります。

他人のために死ぬ

私は鳥が大好きなので、かごに入った6羽の鳥を買いました。娘のアリスが世話をしましたが、しばらくすると、一羽が病気で死にました。私たちは、かごに入っていなければ元気だったかもしれないと考え、生きている5羽を放しました。鳥が喜んで飛び立っていった時、アリスは言いました。「パパ、気づいている?一羽の死によって、残りの鳥は自由になったのよ。」何と、これは主イエスのなさったことではありませんか。アダムという一人の人の罪が、世に死をもたらしたように、イエスという一人のお方の義が、信じる人たちみんなに救いをもたらしました(ロマ5:12-19)。イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました(ヨハ10:11)。

関連トピックス

> キリストの再臨

主を愛するから

夫が出張から帰る前日、息子が「ママ、パパが早く帰ってくるといいね」と言いました。私は「なぜ?」と尋ねながら、「お土産を買って来てくれるから」とか、「いっしょにボール遊びをしたいから」などと答えるだろうと思っていました。ところが息子は真顔で、「パパが大好きだから、早く帰って来て欲しいんだ」と言いました。

神を待ち望む

飛行機を乗り継ぐためにシャトルバスに乗っていると、運転手にバスを止めて待つようにと連絡が入りました。飛行機に乗り遅れるかもしれません。乗客のひとりは我慢できず、すぐに発車しなければ訴えてやると運転手に怒鳴りました。しかし、その時です。空港職員がブリーフケースを持って駆けてくると、怒っていた客に向かって、それを高々と掲げたのです。彼は嬉しそうに言いました。「お客さま、お忘れ物ですよ。先ほど、重要な会議に出るとおっしゃっていたので、きっと必要だと思いまして。」

先を見つめる

オランダの著名な画家レンブラントは、未完成の絵をイーゼルに残して、63歳で急死しました。その絵は生後40日のイエスを抱いた、シメオンの表情を描いています。背景と細部が未完でした。シメオンは、自分の死期を悟り世を去る準備ができていましたが(ルカ2:29)、レンブラントも同様だったと言う美術評論家もいます。

> キリストの死

完璧な平安

何年も平安と満足を求めてきたと友人は言いました。彼女は夫婦でビジネスを成功させ、大きな家、高価な宝石や服を手に入れ、影響力のある人たちと交友するようになりました。しかし、それらによって心の平安を得ることはありませんでした。そんなある日、心が塞いで絶望的になっていた彼女に、友だちがイエスの福音を伝えました。そして「平和の君」に出会ったのです。その日を境に、平安や満足についての考え方が全く変わったそうです。

十字架を覚えて

教会の礼拝堂の正面に大きな十字架があります。人間の罪と神の聖(きよ)さが交差した、あのイエスがかかられた十字架の象徴です。私たちの悪い行為、発言、態度、考えなどすべての罪を贖うために、全く罪のない神の御子が死なれました。私たちが当然の報いとして受けるべき永遠の死から救われるために、神の御業が完成しました(ロマ6:23)。

私のために捨てられた

バージニア大学の研究者が、痛みに襲われる時の脳の反応を調べました。ひとりの場合、知らない人が手を握ってくれた場合、親しい人が手を握ってくれた場合で違いがあるかを調べたのです。数十組のペアで実験し、一貫した結果が得られました。ひとり、または、知らない人が手を握っている場合は、危険を処理する脳の領域が活発に活動していましたが、友人の場合は静かでした。友がそばにいると、痛みは軽減するようです。

> デイリーブレッド

喜びと苦しみ

幼い息子が初めてレモンをかじったとき、鼻にしわを寄せて目をつぶり、舌を出すと「すっぱ〜い!」と叫びました。私は笑いながらレモンを捨ててあげようと手を伸ばしました。しかし、彼は「だめ!」と言って逃げ出し、顔をしかめながら全部食べると、皮だけを私に渡して去っていきました。私の顔も酸っぱさにゆがみました。

日々の祈り

歌手で作曲家のロベルト・ハムレットの母親は、毎朝、息子たちがバス停に向かう前に必ず祈っていました。ハムレットは「私のために祈る人」という曲を作り、母親にささげました。この歌を聴いた女性が、息子を送り出す前に彼と祈るようにしたところ、ある朝、嬉しいことが起こりました。息子は出かけて5分ほどすると、数人の友だちを連れて戻って来ました。びっくりして何事かと尋ねると「この子たちはまだ、祈ってもらっていないんだ」と答えたのです。

レースを完走しよう

リオ五輪でふたりの選手が世界中を感動させました。陸上女子5千メートルでニュージーランドのニッキー・ハンブリン選手とアメリカのアビー・ダゴスティーノ選手は、およそ3200メートル地点で接触し転倒しました。アビーは先に立ち上がりましたが走り去らずにニッキーを起こしました。しかし転倒で右足を痛めたので、走り出すとよろめきました。すると今度はニッキーが立ち止まり、アビーを励ましました。そして、よろめきながらゴールした彼女をしっかりと抱き止めたのです。何と麗しい姿でしょう。

> 人間関係

怒りの管理

あるとき夕食を共にした友人が、実は、家族のひとりにうんざりしていると言いました。その人には彼女を無視したり、馬鹿にしたりという悪い癖があるのですが、彼女はそれを指摘できないと言います。以前、思い切って意見したところ辛辣な言葉を返され、堪忍袋の緒が切れてしまいました。そして口喧嘩になり、ふたりの溝が深まったからです。

最初の一歩を踏み出す

タム・ダシュは人生で何かが欠けていると感じ、娘が通っている教会に行くことにしました。しかし、娘といっしょには行きません。以前、彼女を怒らせたことが、ふたりを疎遠にしていたからです。タムは賛美が始まる頃に会堂に来て、礼拝が終わるとすぐに帰りました。

隔てを壊す

原稿の締め切りが近いのに、朝の夫婦喧嘩のことが気になり、パソコンを叩く指も止まったままです。「主よ、夫も悪かったのですよ」とつぶやくと、画面が暗くなり、自分のしかめっ面が映りました。私の自我が仕事を遅らせているだけでなく、夫婦の関係や、神との関係を傷つけていました。私はプライドを捨て、電話で夫に謝りました。夫も謝ってくれたので一件落着。神に感謝しました。締め切りにも間に合いました。

> 信仰

喜びと苦しみ

幼い息子が初めてレモンをかじったとき、鼻にしわを寄せて目をつぶり、舌を出すと「すっぱ〜い!」と叫びました。私は笑いながらレモンを捨ててあげようと手を伸ばしました。しかし、彼は「だめ!」と言って逃げ出し、顔をしかめながら全部食べると、皮だけを私に渡して去っていきました。私の顔も酸っぱさにゆがみました。

しばらくとどまる

指輪物語の三部作について話していたとき、10代の男の子が、映画より本の方が好きだと言いました。理由を聞くと「本ならば、その世界の余韻に好きなだけ留まれるから」と答えました。本の余韻に浸る、特に聖書の場合は、みことばを思い巡らし、そこに記されている物語の中に入り込むことは有益です。

蛇と三輪車

私は子どもの頃をガーナで過ごしましたが、兄が三輪車を小さな毒蛇の上に止めたという当時の出来事をくり返し話してきました。私の記憶の中で、蛇は前輪の下敷きになって静かにしていました。しかし、当時のことを記した母の叔母に宛てた手紙が、ふたりが亡くなってから出てきました。実は、蛇に三輪車で乗り上げたのは私で、兄は走って母に知らせに行ったのです。その出来事を詳しく記した母の目撃証言によって真相が明らかになりました。

> 神の働き

伴走者

姉のキャロルが乳がんだと診断された時、私たち家族は心配し、みんなで彼女のために祈りました。その後の数ヶ月間、キャロルは手術や治療、そして闘病について正直に報告してくれました。ですから、良くなったとの知らせを受けたときは、みんなで祝いました。キャロルは、全快に向かっていました。

> 神の助け

全部は出来ない

ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。

神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。

けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。

神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。

大いなることを期待せよ

ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。

聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。

歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。

金を選別する

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。そうすると、金は重いので、それだけがなべの底に残るのです。私たちは熟練の業を見てからまねをしようとしましたが、ほとんど上達しませんでした。というのも、金が混じっているかもしれないと思うと、価値のない土を思い切って捨てられないからです。

この体験は、何かを持っていると真に価値ある物を見つけられないことがあるという真理を表しています。このことが当てはまるひとりの金持ちと、イエスは出会われました。この金持ちにとって、この世の富は、精神的な宝よりも重要でした(ルカ18:18-30)。その様子を見て、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われました(24節)。

金銭は、それ自体は悪いものではありません。しかし、蓄財が人生の目標になってしうことがあります。そうなったなら、人は本当の豊かさを手にすることはできません。一生懸命にお金を貯めるのは愚かなことです。なぜなら、試練を耐えて、神を賛美し、神に栄光や栄誉を帰すように私たちを支えてくれるのは、お金ではないからです。それは純粋な信仰です(Ⅰペテ1:7)。

> 神の赦し

泥の水たまり

友人のエドには幼い息子がいます。彼は息子が泥の水たまりの中に立っていたので、そこから出なさいと言いました。すると、息子は水たまりの中を走り始めました。「走るな」と言うと、歩きました。「歩くな」と言うと、水たまりに立ったまま、不満そうに父親を見ています。男の子は、父親の言うことをとにかく聞きたくなかったのでしょう。私にもこの子と同じような頑固さがあります。自分の行いが神に喜ばれるものでないと知りながらも、結局そうしてしまいます。神はイスラエルの民に「あなたの神、主の御声によく聞き従」うように言われましたが(申28:1)、イスラエルは何度も失敗してしまいました。「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように」と、詩篇の作者も葛藤しています(詩119:5)

> 試練

岩の中に隠れる

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記38-40
聖書のみことば 詩篇18:30-36
 
主はわが巌、わがとりで、―詩篇18:2

オーガスタス・トプラディーという若い伝道師の物語があります。トプラディーは、イギリスの田舎を散歩していて突然の嵐に見舞われましたが、大きな岩のくぼみを見つけて逃げ込みました。そしてどしゃぶりの雨の中、嵐が過ぎ去るのを待ちながら、自分が逃げ込んだところと人生の嵐における神の助けについて思い巡らしました。

それでも私は喜ぶ

1年で聖書を!
◆ ゼカリヤ書9-12
◆ 黙示録20
聖書のみことば ハバクク書3:11-19
 
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
―ハバクク書3:18

この世の人生は楽ではありません。ふと「神はどこにいるのだろう」と思ったことはないでしょうか。不正義が行われているのに神は黙っておられる、と思ったこともあるかもしれません。私たちは、困難に対する応答の仕方を選ぶことができます。預言者ハバククの態度を模範にしましょう。彼は、「喜ぶ」という選択をしたのです。

満たされて待つ

1年で聖書を!
◆ ゼカリヤ書1-4
◆ 黙示録18
聖書のみことば Ⅱコリント4:7-18
 
私たちは勇気を失いません。―Ⅱコリント4:16

ロジャーはリストラで職を失い、何ヶ月も求職しました。彼は祈り、友人にも祈ってほしいと頼み、神を信頼しました。しかし、彼と妻のジェリーの心は揺れていました。その時どきの必要が思いもよらない方法で満たされることもあって、神のあわれみを体験しましたが、再就職は無理ではないかと不安になることもありました。彼らは15ヶ月間、待ち続けました。

> 贖い

リーアムと買物に

息子のリーアムは母のためにタンポポを摘むのが大好きです。ある人にとっては雑草でも、彼にとってはすてきな花なのです。そして妻は、タンポポをもらうことに全く飽きていません。ある日、私たちは父子で買物に行きました。花売場を通り過ぎようとすると、息子は黄色のチューリップの花束を指さし、大声で「パパ。あのタンポポをママに買わなくちゃ!」と興奮気味に言いました。私は大笑いし、ママはその話をフェイスブックのネタにしました(もちろん、そのチューリップは買いました。)

> 霊的な豊かさ

金を選別する

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。そうすると、金は重いので、それだけがなべの底に残るのです。私たちは熟練の業を見てからまねをしようとしましたが、ほとんど上達しませんでした。というのも、金が混じっているかもしれないと思うと、価値のない土を思い切って捨てられないからです。

この体験は、何かを持っていると真に価値ある物を見つけられないことがあるという真理を表しています。このことが当てはまるひとりの金持ちと、イエスは出会われました。この金持ちにとって、この世の富は、精神的な宝よりも重要でした(ルカ18:18-30)。その様子を見て、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われました(24節)。

金銭は、それ自体は悪いものではありません。しかし、蓄財が人生の目標になってしうことがあります。そうなったなら、人は本当の豊かさを手にすることはできません。一生懸命にお金を貯めるのは愚かなことです。なぜなら、試練を耐えて、神を賛美し、神に栄光や栄誉を帰すように私たちを支えてくれるのは、お金ではないからです。それは純粋な信仰です(Ⅰペテ1:7)。

金を選別する

1年で聖書を!
◆ エレミヤ書40-42
聖書のみことば ルカ18:18-30
 
あなたがたの信仰の試練は、……金よりも尊く、―Ⅰペテロ1:7

アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。