教会の音楽には何かが欠けていると感じていた青年アイザック・ウォッツは、もっと良いものを作りなさいと父親に促され、挑戦しました。ウォッツの作品「十字架にかかりし」(聖歌158番)は、英語の賛美歌の傑作と言われ、多くの言語に翻訳されています。
「主の頭、主の手、主の足から悲しみと愛がまざって流れ落ちる、悲しみと愛が出会う、いばらで作られた貴い冠」(原詞訳)という歌詞は、私たちを十字架のもとに導きます。
この十字架刑は史上最悪のできごとでした。見物人の中に自分がいると想像してください。神の御子が息をするのもやっとで、釘で十字架にはりつけられています。残酷極まる時を経て全地が真っ暗になり、あわれみの主が息を引き取られたとき、大地が揺れ動いて神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちが生き返りました(マタ27:51-53)。これを見て、刑の執行人だった百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と言ったのです(54節)。
ポエトリー財団は「十字架はすべての価値を再編成し、虚栄を一掃する」と、ウォッツの詩を評価しています。この讃美歌のとおり、私たちにできるのはただ、主に全身全霊をささげることです。
主よ、キリストの死の他に何かを誇ることがないように。 私を魅了しようとする虚しいもの全てを、 御血にささげる犠牲にします。(アイザック・ウォッツの言葉)
十字架で全てをくださった主に 私の全てをささげられるのは、何という特権だろう。