アメリカの風刺画家は、街角にイーゼルを立て、お客の似顔絵をユーモアたっぷりに描きます。その人の特徴を大げさに表すのですが、似ているだけでなく、とても愉快な絵になり、見る人を楽しませてくれます。

神を描いた風刺画もありますが、それはむしろ不愉快です。神のご性質のひとつだけを誇張すると、神の姿は歪んで伝わります。人の風刺画が肖像画ではないのと同じように、歪んだ神の姿をまともに受け取る人はありません。

神は罪を裁く厳しいお方だとしか考えない人は、あわれみを強調されるとつまずきます。一方で、神は孫に甘いおじいさんのような方だとしか考えない人は、正義が要求されるとつまずきます。神を理屈でしか捉えず、実際に生きて働かれるお方だと認めない人は、知的好奇心を満たす別のものを見つけて去っていきます。神を親友だとしか考えない人は、仲の良い人間の友だちができると、神をないがしろにします。神はご自分のことをあわれみ深く情け深いと言っておられますが、一方で、罰すべき者は必ず罰するお方です(出34:6-7)。

自分の信仰を行動に移そうとするとき、自分の好みの神のイメージに固執してはいけません。私たちは、神のご性質のすべてを礼拝しなければなりません。「私なり」の信仰ではいけないのです。