友人と彼女の孫たちと散歩に出ました。友人はベビーカーを押しながら、腕を振れないからスマートウォッチの歩数が増えないとぼやきました。「でも、この散歩は無駄ではないでしょ」と言うと、「ええ。でも、あの金星が欲しいのよ」と笑いました。気持ちは分ります。頑張っても結果が出ないと、がっかりします。しかし、結果はすぐ出るとは限らず、目に見えないかもしれません。

善行も同じで、無駄だと思われがちです。誰かを助けたり、親切にしたりしても、報われないかもしれません。しかし、使徒パウロはガラテヤの教会に「人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラ6:7)と説き、「善を行うのに飽いてはいけません。…時期が来て、刈り取ることになります」(9節)と教えました。良い行いは、救いの条件ではありませんし、この聖書個所は、この世の報いを約束していません。天国まで待たなければならないかもしれないのです。しかし、やがて祝福されることは確かです(9節 リビングバイブル参照)。

良い行いを続けることは簡単ではありません。どんな報いがあるか分からないならなおさらです。しかし、歩数計がどうであれ散歩が健康に良いように、良い行いの継続には価値があります。神に祝福されるのですから。