息子は私たちの養子になるまで児童養護施設にいました。家に連れて帰る日、持ち物を取ってくるように言うと、何もありませんでした。私たちは持ってきた新品の服に彼を着替えさせ、着ていた服は、寄付する他の服と一緒に置いてきました。彼が何も持っていないことに心が痛みましたが、これからは物心両面で支えてやれると嬉しくなりました。

数年後のことです。貧困家庭のために寄付を募っている人に出くわすと、息子は自分のぬいぐるみとこづかいを寄付したいと主張しました。彼の生い立ちを考えると、自分の持ち物に執着しても不思議はないのに。

彼の気前良さはどこから来るのでしょう。それは初代教会の人たちと同じだったのではないでしょうか。彼らの中には乏しい人がひとりもいませんでした。何かを持っている人たちがそれを売り、他人の必要をまかなったからですが、それは「大きな恵みがそのすべての者の上にあった」ためでした(使4:33-35)。

人の必要に気付いたなら、それが何であれ、神の大きな恵みが私たちの上に働きますように。初代教会の人々のように、困っている人たちを喜んで助けようとしますように。クリスチャンはこういう行為によって、「心と思いを一つにして」(32節)、神の恵みの器とされるのです。