新型コロナウイルス感染症対策のマスク着用義務が緩和されても、娘の学校などではまだ必要でした。ある日、マスクが必要な場面で車中にあったのは、普段使わないものでした。私は大抵、無地のマスクを使いますが、それは表に「祝福」と大きく書かれていたからです。
私に選択肢はありません。しかし、そのおかげで、学校事務の人にイラついた時、ぐっと自分を抑えられました。「祝福」と書かれたマスクを着けておきながら、煩雑な事務を担ってくれている人に不寛容な態度を見せる偽善者にはなりたくなかったからです。
マスクの言葉はキリスト者のあるべき姿を思い出させてくれました。本来なら、自分の心に蓄えた聖書のみことばによって、他者に寛容であるように促されなくてはなりません。使徒パウロは、コリントの教会に「あなたがたが、……キリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです」(Ⅱコリ3:3)と書き送りました。御霊は私たちを生かして(6節)、「愛、喜び、平安」そして「寛容」(ガラ5:22)を示すように助けてくださいます。私たちは、自らの内に住まれる聖霊によって本当に祝福されています。